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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
五章

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第124話 胸の奥の次の揺らぎ

 神殿へ戻るころには、空はすっかり夜の色に変わっていた。

森の出口で感じたあの軽さは、神殿の石壁に触れるとさらに落ち着いていく。

世界の層が安定している場所は、空気が静かで、呼吸が深くなる。


 胸の奥の欠片は、森の傷を修復したあとも、どこか落ち着ききらない脈を刻んでいた。

痛みではない。

ただ、何かを探しているような、そんな脈。


 神官長は神殿の中央にある円形の台座へ向かい、石碑の前で足を止めた。


「欠片の脈はどうだ」


「……落ち着いてるようで、落ち着いてない感じです」


「次の揺らぎが近いのだろう。向こう側の世界が、次の傷を探している」


 リーナは少し眉を寄せた。


「探してるって……どういうことですか?」


 神官長は石碑に触れながら答えた。


「世界の傷は、常に同じ場所にあるわけではない。向こう側の世界は、世界全体を見渡し、もっとも危険な揺らぎを優先して示す」


 リーナはゆっくり頷いた。


「じゃあ……次の場所は、まだわからないんですね」


「そうだ。欠片が反応し始めたということは、向こう側の世界が“候補”を見つけたということだ」


 胸の奥の欠片が、ゆっくりと熱を帯びる。


(……候補……)


 森の傷を修復したときとは違う。

もっと静かで、もっと深い脈。

世界のどこかで、まだ形になりきっていない揺らぎが生まれ始めている。


 リーナが俺の横に来て、少しだけ覗き込む。


「……さっきより、顔色が違いますね」


「そうか?」


「うん。なんていうか……考えてるときの顔になってます」


 その言い方が妙に人間らしくて、胸の奥の欠片がわずかに反応した。


「……次がどこなのか、気になってるだけだ」


「気になるのは、当たり前ですよ。だって、世界の傷なんて……普通は見つけられないんですから」


 リーナはそう言って、少しだけ笑った。

その笑いは、緊張をほぐすためのものではなく、ただ自然に出たものだった。


 神官長は石碑の光を確認しながら言った。


「向こう側の世界が次の揺らぎを示すまで、少し時間がかかるだろう。修復の余韻が世界に広がる間は、欠片の反応も不安定になる」


「不安定って……危ないんですか?」


 リーナの声は小さかったが、焦りはなかった。

ただ、知らないことを知りたいという気持ち。


 神官長は首を横に振った。


「危険ではない。ただ、欠片が“次の場所を探している”状態だ。胸の奥の脈が強くなったり弱くなったりするだろう」


 胸の奥の欠片が、まるでその言葉に応えるように脈打った。


(……探してる……)


 向こう側の世界は、孤独を光に変える法則を刻んだ。

その光は世界の傷を修復する力になる。

そして今、その光が次の傷を探している。


 リーナは少しだけ視線を落とし、それから顔を上げた。


「……カイさん。次の揺らぎが来たら、また行くんですよね」


「……行くしかないだろうな」


「うん。でも……そのときも、ちゃんとそばにいます」


 その言葉は、決意というより、“当たり前のことを言っている”ような自然さがあった。


 胸の奥の欠片が、ゆっくりと脈打つ。


 神官長は石碑から手を離し、俺たちの方へ向き直った。


「今夜は休め。欠片の脈が落ち着けば、次の揺らぎの気配がはっきりする」


「……わかりました」


 リーナは少しだけ肩の力を抜いた。


「休めるときに休まないと、ですね」


 その言葉は、妙に現実的で、胸の奥の欠片が静かに反応した。


 神殿の外は夜の気配が濃くなっていて、空気がひんやりしている。

その冷たさが、胸の奥の熱を少しだけ和らげた。


(……次の揺らぎ……)


 まだ形になっていないその気配は、胸の奥で静かに脈を刻み続けていた。


 夜の神殿は静かだった。

昼間は人の声や足音が響く広い空間なのに、夜になると、石壁が音を吸い込んでしまったみたいに静まり返る。


 その静けさの中で、胸の奥の欠片だけが、かすかに脈を刻んでいた。


(……さっきより、はっきりしてきたな)


 森の修復を終えたあと、欠片はずっと落ち着かなかった。

でも今は、ただ不安定に揺れているわけじゃない。

脈の“向き”がある。

どこか遠くへ引っ張られるような感覚が、少しずつ形を持ち始めていた。


 リーナは神殿の窓辺に立って、外を見ていた。

夜風が少しだけ吹き込んで、髪が揺れる。


「……なんか、空気が違いますね」


「違う?」


「うん。森のときみたいに重いわけじゃないけど……静かすぎるというか。世界が、息を潜めてるみたいな感じがします」


 その言葉は、妙に正確だった。

世界の層が揺らぎ始めるとき、空気が静かになることがある。

音が消えるわけじゃないのに、“余白”が増える。


 胸の奥の欠片が、またひとつ脈打った。


(……東……?)


 方向がわかるほど強くはない。

でも、脈が少しだけ偏っている。

森のときとは違う、もっと遠い場所。


 神官長がゆっくりと近づいてきた。


「欠片の脈が変わったな」


「……はい。さっきより、向きがある感じです」


「東か」


 リーナが振り返る。


「東……?」


「世界の層が薄い場所は、いくつかある。東の方角には、古い街の跡がある。記録が途切れたまま放置されている場所だ」


 リーナは少し眉を寄せた。


「街の跡……人が住んでたんですか?」


「昔はな。だが、世界の層が不安定になってから、記録が薄れていった。今は地図にもほとんど残っていない」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

さっきより強い。

東の方角へ引っ張られる感覚が、はっきりしてきた。


(……そこだ……)


 リーナは俺の胸のあたりを見て、少しだけ息を呑んだ。


「……また、光ってます」


「欠片が方向を示してるんだと思う」


「じゃあ……次の揺らぎは、その街の跡に?」


 神官長は首を横に振った。


「まだ断定はできない。だが、向こう側の世界が“候補”として見ているのは確かだ」


 リーナは窓の外を見た。

夜空は雲がなく、星がはっきり見える。

その星の並びを見ながら、ぽつりと言った。


「……森のときより、遠いんですね」


「遠い。世界の層が薄い場所は、森だけではない。街の跡は、森よりも複雑だ。存在の記録が途切れたまま残っている」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

今度は痛みではなく、“呼ばれている”ような感覚だった。


 リーナはその脈に気づいたのか、少しだけ近づいてきた。


「……カイさん。怖いとかじゃなくて……なんて言えばいいんだろ……さっきより、表情が変わってます」


「変わってるか?」


「うん。森のときは、ただ痛そうだったけど……今は、何かを聞いてるみたいな顔してます」


 その言葉は、妙に当たっていた。

欠片が示す方向を、無意識に“聞こう”としている自分がいた。


 神官長が静かに言った。


「欠片は、向こう側の世界の“耳”だ。世界の傷が生まれ始めると、その気配を拾う」


「……聞こえるわけじゃないんですけど」


「気配は音ではない。だが、欠片はそれを感じ取る」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

東の方角へ引っ張られる感覚が、さらに強くなる。


 リーナはその脈を見て、小さく息を吐いた。


「……次の揺らぎ、来ますね」


「まだ形にはならない。だが、方向はほぼ確定だろう」


 神官長は石碑に触れ、淡く光る表面を見つめた。


「明日には、場所がはっきりするはずだ。街の跡か、それとも別の場所か。欠片の脈が示すだろう」


 胸の奥の欠片が、最後にひとつ脈打った。


(……東……)


 その脈は、森のときとは違う。

もっと深く、もっと静かで、どこか“遠い呼び声”のような感覚を持っていた。


 リーナは窓の外を見ながら、

ぽつりとつぶやいた。


「……明日、ですね」


 その声は、覚悟というより、“受け止める準備をしている”ような静かな響きだった。


 胸の奥の欠片は、次の揺らぎの方向を示しながら、静かに脈を刻み続けていた。

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