第87話 折れた靴①
「じゃあ、行ってくるね!」
和花と結月はイメチェンのために二人で出かけていった。
俺もついていこうとしたのだが、「それじゃサプライズにならない」と和花に止められた。
そんなわけで、部屋に残ったのは俺と愛理だけだった。
……いつものように、杏奈ちゃんは母さんと一緒に一階にいた。
「それじゃあ、蓮くん」
愛理がぎゅっと抱きつき、そのままわざとらしく俺の顔に身体を寄せてきた。
「和花さんたちが帰ってくる前に、私の初めてを――」
「いや、ここではダメだろ」
一階に杏奈ちゃんと母さんがいるんだぞ。
「じゃあ私たちも出かけようか。目的地はラブホね」
「……俺は構わないけど、和花を差し置いて先を越してもいいのか?」
「あら、もう蓮くんも自分のハーレムを管理してるのね。いい傾向だわ」
ツッコミどころは山ほどあるのに、気の利いた返しがひとつも浮かばない……。
欲望のまま動けば、この微妙な関係は一瞬で崩れる。
だからこそ、俺も色々と慎重になっていた。
すべてが愛理の思惑通りに進んでいるようで、釈然としないところはある。
とはいえ今の俺は、この三人で築いた関係に十分満足していた。
「それで蓮くん、これから何する?」
「そうだな……。ゲームでもするか」
「私、新しく買ったゲームがあるの。一緒にやらない?」
「……エロゲーじゃないだろうな?」
愛理が図星を突かれたようにビクッと肩を震わせた。
「蓮くん、もしかして読心術も使えるの?」
「読心術がなくても、そのくらい誰でも分かるだろ」
「誰にでもってわけじゃないわよ。蓮くんが相手じゃないと、エッチな話なんてしないもの。蓮くんにだけビッチなの」
喜ぶべきなのか……?
そう考える隙すら与えまいとするように、愛理がキスをしてきた。
唇だけでなく、顔のあちこちに。
その時だった。
ピロン――
ベッドの上に置かれた愛理のスマホが、短く鳴った。
けれど愛理は目もくれず、スマホに触れようともしなかった。
「愛理、とりあえず何が来たか確認しろよ」
「本当に重要なことなら電話してくるはずよ」
「……それでも確認して。命令だ」
「もう、うちのご主人様はそういう時にしか命令権を発動しないんだから」
愛理がスマホを手に取り、画面を覗き込む。
「美代子さんのマネージャーから連絡が来たわ」
「マネージャーさんから?」
「ええ。えっと……」
彼女が画面を数回タップした。
だが次の瞬間、愛理の表情がさっと険しくなった。
「どうやら今、美代子さんが厄介なことになってるみたい」
「え? 厄介なこと?」
「今日はライブ本番なのに、リハの途中で靴のヒールが折れて、派手に転んじゃったみたい。それで足首を捻挫して……」
「……!」
地雷ちゃんシンドロームの中心にいるのは、他でもない心愛さん。
その彼女が今、足首の捻挫でライブ出演を危ぶまれている。
それに、ヒールが折れた靴自体も問題のようだ。
衣装ならまだしも、靴は応急処置が効きにくい。
今すぐ代わりを調達するのも、簡単ではないらしい。
「マネージャーさんは俺たちに何かしてほしいことがあるって?」
「そこまでは書かれてないわ。ただ、今の状況だけが、ぽつんと送られてきてるの」
おそらく今頃、現場は相当パニックになっている。
どうにもできず、藁にもすがる思いで俺たちに連絡を寄越したのだろう。
「とりあえず、俺たちも現場に行ってみようか」
「行く前に、靴をいくつか見繕って持っていくのはどう? 似たデザインで、ヒールが少し低いものとか、もう少し歩きやすいものを中心に」
「それが良さそうだな。マネージャーさんに、心愛さんのサイズと靴の写真を送ってもらってくれ」
「分かったわ」
支度を急ぎながら、俺は思った。
……本当に心愛さんには、次から次へとトラブルが降りかかるな。
◇
都内の小さなライブハウスに着いた。
ステージ衣装のままの心愛さんが椅子に腰かけ、タオルに包んだ保冷剤を足首に当てて痛みをこらえていた。
「え? 蓮様? どうしてここに?」
「心愛さんが怪我をしたと聞いたので。大丈夫ですか?」
「心愛のことが心配で来てくれたんですね! 嬉しいです! でも心配してもらうほど悪くはないですよ~って言えたらいいんですけど……」
心愛さんは椅子から立ち上がり、一歩前へ踏み出そうとした。
けれど足に力が入らず、すぐに体勢を崩した。
「いてて……こんな無様なことになっちゃいました。あはは……」
心愛さんは落ち込みを隠しきれないまま、ぎこちなく笑った。
慰めの言葉を探したが、結局飲み込んだ。
下手な慰めは何の役にも立たないと思ったからだ。
俺はマネージャーのそばに寄り、声を潜めて尋ねた。
「このライブ、どれくらい重要なんですか?」
「かなり重要です。対バンやフリーライブではなく、有料の単独ライブなので……」
「その……集客の面で、心愛さんの存在ってどれくらい大きいんですか?」
「美代子一人で、少なく見積もっても集客の五割は担っています。時には六割近くになることもあります」
つまり、今回の観客の半数以上は心愛さん目当てということだ。
怪我が理由とはいえ、彼女が急きょ欠場となればファンの不満は避けられない。
少なくとも、ライブ全体の空気に水を差すのは間違いなかった。
「これが美代子さんの履いていた靴?」
その時、愛理が楽屋の隅に置かれていたパンプスを片方持ち上げた。
ヒールは根元から折れ、革一枚でかろうじてぶら下がっていた。
「ふーん……。厚底でもこんな風に折れるのね」
実は俺も、連絡を受けた時は細いピンヒールを想像していた。
だが高さはあっても、かなり太いヒールだった。
考えてみれば、地雷系ファッションに細いヒールを合わせることはあまりない。
心愛さんが「あ、はは……」と気まずそうに笑いながら答えた。
「本当ですよね。心愛、完全に油断してました! 厚底だから大丈夫だと思ったんですけど。それに新品でしたし」
「新品だったのに。よりによって、リハのあの瞬間に」
「はい。すっごくびっくりしました!」
心愛さんは、当時の状況をぽつぽつと話してくれた。
ダンスのクライマックスで右足を踏み込んだ瞬間、右の靴のヒールが根元から折れたのだという。
まったく予想していなかったせいで、勢いのまま足首をグキッとひねり、そのまま倒れ込んでしまったそうだ。
今度は俺がマネージャーに向き直り、尋ねた。
「もしかして、靴は事務所から支給されるんですか?」
「あ、いえ……。衣装は支給するか、もしくは費用を負担していますが、靴やアクセサリーなどは各自で用意することになっています」
「なるほど」
そういえば、特典会の時だって、ヘアメイクは各自で準備していたはずだ。
であれば――
「心愛さん、その靴は自分で選んだものですか?」
「いえ、あやちゃんが用意してくれたんです!」
「あやちゃん?」
「あ、この子です!」
心愛さんが、隣でスマホをいじっていた女の子の肩に手を置いた。
前回の特典会でも見かけた、黒髪ボブの子だ。
「この子が私たちの大切なクール担当、彩乃ちゃんです!」
……クール?
この前、真っ先に心愛さんへ嫉妬を向けていた子じゃなかったか?
その瞬間、不穏な可能性が頭をよぎった。
どうやら愛理も同じことを考えたらしく、先に口を開いた。
「へえ、そう。彩乃さんが用意した新品の靴が壊れて、美代子さんが怪我をした。そういうことね」
その言葉に、黒髪ボブ――彩乃さんが眉をひそめた。
「何なんですか、そっちは。いきなり現れて、どうして因縁なんてつけるんですか」
「私がいつ因縁をつけたかしら? ただ事実を並べただけなのに」
「とぼけないでください。誰が聞いても裏がある言い方だったじゃないですか」
「じゃあ、彩乃さんは自分も被害者だって?」
「当然でしょ。普段から履いてるブランドのものを選んだんです。まさかあんな不良品に当たるなんて、思いもしないじゃないですか。私だって不安なんです」
自分のせいではないにしても、心愛さんへの申し訳なさより先に、自分の心配が来るのか。
彩乃さんが心愛さんに向けている敵意は、誰の目にも明らかだった。
それでも当の心愛さんは、彼女を疑うどころか必死に庇おうとしている。
それが、ただただ不憫だった。
愛理が折れた靴を俺のほうへ差し出して言った。
「社長、ここ見て。この部分だけなんだか妙に滑らかじゃない?」
「そうだな。しかも、折れてるのはこの妙に滑らかな部分からだ。不自然じゃないか?」
「そうね、どうしてここから折れたのかしら。まるで誰かがわざとここにヒビを入れたみたいに」
俺は彩乃さんに視線を向け、静かに問いかけた。
「彩乃さん、本当に心当たりはないんですか?」
その言葉に、彩乃さんがビクッと肩を震わせた。




