第85話 独立②
「え? このマンションに?」
心愛さんの思いがけない提案に、俺は思わず戸惑った。
実際、このマンションは候補にすら入れていなかった。
「はい! ここ、かなり広いですよね? 皆さんで一緒に暮らすくらいなら、全然問題ないと思います!」
「それはそうですけど……」
「おまけにセキュリティも万全ですし、メリットだらけなんですよ?」
心愛さんは、このマンションの利点を一つひとつ挙げ始めた。
ホテル顔負けのサービスに、充実した共用施設。
そのうえ駅は目の前で、交通の便も申し分ない。
建物自体も、採光、風通し、防音性、どれを取っても文句なしらしい。
「へえ、防音性ね。それは大事だわ」
……愛理が、どこか含みのある反応を見せた。
時折、愛理の思考回路は妙におっさんくさい。
和花はスマホを数回タップしてから、顔を上げた。
「蓮、ここ本当に良さそうじゃない? 電車を使っても、私たちの学校までそんなに時間かからないみたいだし」
「そうか?」
つまり、十分に通学圏内というわけか。
しかも心愛さんの言う通り、広さもグレードも、俺たちには好条件ばかりだ。
……不本意ながら、この部屋を何度も掃除させられてきたせいで、そのあたりは嫌というほど分かっている。
「それに、メリットはこれだけじゃありません! ゆずさんだって、今よりずっと楽になるじゃないですか!」
黙っていた結月は、不意に名前を出され、びくりと肩を震わせた。
だが、心愛さんはお構いなしに言葉を続けた。
「同じマンションに住めば、ゆずさんもあたしの部屋にすぐ来られますから!」
最近の結月は、心愛さんが特に忙しい日に限ってこの部屋へ来ては、掃除や片付けを代わりにこなしてくれている。
もちろん、そのたびにスポンサーである俺が、バイト代としてきっちり報酬を渡している。
もっとも結月本人は頑なに拒むので、毎回押し切って受け取らせていた。
「心愛さん、まさかそれが狙いじゃないですよね?」
「ち、ち、違いますよ! れ、蓮様だってあたしと頻繁に会いたいじゃないですか? アイドルと毎日会える特権ですよ?」
「え、毎日会わなきゃいけないんですか」
「なんでむしろ迷惑そうなんですか!? 心愛、本気で傷つきますよ!?」
「冗談ですよ、冗談」
心愛さんは拗ねたように頬を膨らませ、両拳で俺の胸をぽかぽかと叩いてきた。
俺はされるがままに、顎に手を当てて考え込んだ。
「真剣に検討する価値はありそうですね……。でも、今このマンションに空き部屋があるかどうか……」
「うちのパパに聞いてみます! このマンションを持ってる会社のオーナーさんと知り合いなんですよ」
心愛さんのパパ、バーンさんだったか。
一体、何者なんだろう。
『悪夢』の中で一度見かけただけで、俺は彼についてほとんど何も知らなかった。
愛理がふっと小さく笑った。
「ここに住むことになったら、通学時間はさらに長くなるわね」
「まあ、そうだな。仕方ないけど」
もともと徒歩で通えていたぶん、毎日の電車通学はどうしても負担になるだろう。
とはいえ、学校から徒歩圏内に絞ると、めぼしい物件はほとんど残らない。
「ううん、蓮くん。私はむしろ、長くなる方が好きよ」
「え? なんで?」
「だって、蓮くんと一緒にいる時間が増えるから」
あ、そうか。
新学期が始まれば、愛理はまた二年生の教室へ戻る。
学校で俺と一緒にいられる時間は、ぐっと減る。
「実は私、考えていたの。今年わざと留年して、来年、蓮くんと一緒に二年生をやり直そうかなって——」
「それだけはやめてくれ」
「でも、蓮くんと同じ教室で過ごすの、私もやってみたいんだもの」
そもそも同じ教室になれる保証なんてどこにもないのに……。
「愛理、お前は先輩キャラだろ。そのポジションを捨てる気か?」
「うっ……。そうね、私は蓮くんの先輩ヒロインでもあるから。我慢するしかないわね」
こんな一言で納得してしまうのが、いかにも愛理だった。
◇
「お、終わった〜!」
和花は手にしていたシャーペンを机に放り投げ、そのまま後ろへごろんと倒れ込んだ。
愛理はとっくにソファで目を閉じ、知恵熱でぐったりしていた。
「みんなお疲れ」
どうにか夏休みが終わる前に、宿題をすべて片付けることができた。
案の定、最後まで手こずったのは和花と愛理だった。
それでも、日はまだ完全には沈んでいない。
「ちょっと早いけど、夕飯食べに行こっか? 食べたいもの言ってみて。俺が奢るから」
みんな頑張ったんだから、ご褒美くらいあってもいいだろう。
……もっとも、学生として当たり前のことをしただけだ、という事実はひとまず棚に上げておく。
やはり食べ物のこととなると、和花は誰よりも反応が早い。
「な、何でも?」
「何でも。値段は気にせず、ただ食べたいものを言って」
「そ、それじゃあお寿司……? 大トロとか出てくる回らないお寿司……」
「分かった」
心当たりのある店が、いくつかあった。
実は以前、結月とのデートで使おうと思って調べておいた店なのだが……。
念のため電話をかけてみると、運よく席が取れた。
それを伝えると、今度は心愛さんの目が輝いた。
「さすが蓮様! あたしもこんなお金持ちの彼氏がいたらいいのになぁ。そしたら、いつでも美味しいものをご馳走してもらえるのに!」
「彼氏は財布じゃないわよ、美代子さん」
「わ、分かってますから!? 急に心愛を悪者にしないでください!」
愛理がソファから起き上がり、俺の隣へ来て腕にぎゅっと抱きついた。
「でも確かに、お金がすべてじゃないにしても、蓮くんみたいにお金があれば、たいていの問題は解決できるわね」
「結局お金持ちの彼氏自慢じゃないですか!!」
「お金持ちの彼氏自慢じゃないわ。蓮くん自慢よ」
「何が違うんですか!?」
「お金持ちだから好きになったわけじゃないわ。たまたま好きになった人がお金持ちだっただけよ」
「だから何が違うんですか!?」
確かに事情を知らなければ、愛理が金目当てで俺に近づいたと誤解されてもおかしくない。
新学期が始まれば、愛理は俺との関係を隠そうともしないだろう。
そのせいで教室でさらに孤立しないか——俺は少し心配になった。
けれど愛理は、そんな俺の心配など知る由もない様子で、言葉を続けた。
「美代子さんのこっくんだったかしら。その初恋のお相手も、お金持ちだといいわね」
「お、お金持ちならもっといいですけど、お金持ちだけを追ってるわけじゃありませんから!? それに初恋だなんて言ってません!!」
「蓮くんほどの人はなかなか見つからないから頑張ってね」
「何ですかその上から目線!?」
相変わらず愛理は、心愛さんを挑発する……というより、からかうのが好きらしい。
嫌っているのではなく、反応が面白くてつい構ってしまうのだろう。
その後、俺たち五人はマンションを出て、寿司屋へ向かって歩き出した。
すると今度は、愛理と心愛さんが寿司談義で火花を散らし始めた。
「はあ? 醤油は当然ネタにつけるものでしょ。シャリにつけたらご飯粒が小皿に全部ほぐれて汚くなるじゃない」
「そこはコツがあるんですよ〜 それに、一番大事なのは味じゃないですか!」
「味で言えばなおさらネタよ。醤油の味が強くなりすぎてしょっぱくなるだけじゃない」
「え〜? 醤油がたっぷり染み込んだシャリが美味しいんじゃないですか!」
焼肉の時もそうだが、二人は本当に食の好みが合わないようだった。
ただ、焼肉の時とは違って、今回はそもそも争う余地がなかった。
「俺たちが行く店は、最初から醤油が塗ってあるんですよ」
「え? そ、そうなんですか?」
「さすが高級店ね。シャリに醤油をつけるという暴挙を、最初から封じているわけだわ」
「そこまで言う必要ないじゃないですか!!」
心愛さんが可愛らしく抗議すると、愛理の口元に小さな笑みが浮かんだ。
なんだかんだ言っても、愛理も心愛さんのことを結構気に入っているようだ。
このまま、平和な日常が続けばいい。
ふと、そう思った。
◇
俺たち五人は高級寿司を心ゆくまで堪能し、心愛さんをマンションまで送り届けてから、帰途についた。
帰り道、ふと一枚のポスターが目に留まった。
「夏祭りか。もう明後日なんだな」
「夏祭り!」
和花の目がキラキラと輝く。
「や、やっぱり夏のデートといえば、夏祭りも欠かせないわよね……?」
「あら、和花さん。食べ物が優先じゃなかったの?」
「正直、俺も屋台の食べ物目当てかと思ったよ」
「二人とも、私のこと何だと思ってるの!?」
だって、海旅行の時もそうだったし。
「ま、まあ! かき氷とか、焼きそばとか、イカ焼きとか、楽しみじゃないわけじゃないけど!」
「和花さんはツンデレだから、言葉の裏を読んで、すっごく楽しみにしてるって解釈すればいいのよね?」
「あ、あえてそれを口にしないでください先輩!!」
思った以上に、愛理も和花も夏祭りに乗り気らしい。
実のところ、俺自身も楽しみだった。
いや、むしろ——
「よし。じゃあ明後日、祭りに行こう。二人とも、浴衣を着てきてくれるか?」
「うん、別に構わないわよ」
「私は一着買わなきゃいけないわね。普通いくらくらいするのかしら?」
「私も詳しくは分かりませんけど、安くても一万円くらいはするんじゃないですか? 新しく買うのもいいですけど、レンタルでもいいと思いますよ」
「和花さん、まだまだ甘いわね。蓮くんが、どうしてわざわざ浴衣を指定したと思う?」
愛理はニヤリと笑うと、和花の耳元に顔を寄せて囁いた。
「浴衣姿の私たちと、エッチなことがしたいからよ」
和花の顔が、瞬く間に林檎のように真っ赤に染まった。
……やはり、愛理には俺の下心などお見通しらしい。




