第16話 早退
どこか途中で寄り道なんてしてないよな?
まっすぐ家に帰ったよな?
頭の中がぐちゃぐちゃのまま、ただ走り続けた。
息が切れ、吐き気まで込み上げてきた。
それでも立ち止まる暇はない。
俺の苦しみよりも、小森さんの命の方がずっと重い。
(くそっ、今さら死なせてたまるかよ)
もう彼女とは親しくなりすぎてしまった。
夢で見た通りに目の前で彼女が死んでしまったら、今度こそ立ち直れないだろう。
きっと二度と、誰とも関わろうとしないだろう。
(だから、俺のためにも助けなきゃ……!!)
ただ、一つだけ気がかりなことはある。
俺はあの『悪夢』をきっかけに、小森さんと親しくなった。
そのせいで、彼女は初めてできた友達の結月と大喧嘩をして、早退する事態になってしまった。
もしかして、俺のせいで小森さんが交通事故に遭うことになるんじゃないか。
(とにかく、過ぎたことを後悔しても意味がない)
未来を知っているからといって、すべての行動を正確にこなすのは難しい。
そもそも、小森さんのほうが結月のことで先に俺に近づいてきたのだ。
俺がどう行動していようと、交通事故の危機は起きていたかもしれない。
だから今、俺がすべきことは過去を悔やむことじゃない。
どうにかして小森さんを救い出すこと――それだけだ。
(こうなるって分かってたら、普段から少しは運動しておくべきだったな)
こんな風に全力で走るのは、一体いつぶりだろうか。
果たして俺の走りで小森さんに追いつけるだろうか。
タクシーでも通りかかれば飛び乗るのに、こういう時に限って一台も見当たらない。
「クソッ!」
息を吸うたびに、喉が引っ掻かれるように乾く。
気道がひしゃげたように、ヒューヒューと金属じみた息が漏れ出る。
肋骨の内側から、心臓が皮膚を突き破らんばかりに暴れ狂っていた。
(もうすぐだ)
視界の端が黒く霞む中、咲き乱れるサツキだけがじわりと目に入ってくる。
鉛のように重い足を引きずりつつ、小森さんのことだけを胸に刻んで、どうにか動き続ける。
筋肉が小刻みに震え、膝の力が抜けてよろめきそうにもなる。
(熱い汗と冷や汗が同時に出るのは、本当に気持ち悪いな)
一体、小森さんはどこにいるんだ。
普段なら結構目立つはずの彼女の後ろ姿が、どうしてこんなに見つからないのか。
口の中に血の生臭い味が広がっている気がする。
(頼むから無事でいてくれ……!!)
汗でぐっしょり濡れたシャツが、不快な粘膜のように背中に張り付く。
パリッとした制服のジャケットは、上半身を重い分銅のように押さえつける。
首を絞めつける息苦しいネクタイをほどき、最後のスパートをかけた。
(いた!!)
金髪のボブが制服の上で小さく揺れている。
かなり短く詰めたスカートが、ギャル成分25%を主張している。
「小森さん……!」
掠れた声で彼女を呼んだ。
しかし、肩をだらんと落としてうつむいた彼女は反応しない。
物思いに耽っている様子だった。
「くそっ!」
やがて彼女は信号のない横断歩道へ、ろくに左右も確認せず無防備に足を踏み出した。
俺は最後の力を振り絞った。
ひたすら彼女に向かって走りながら、腕を前へぐっと伸ばした。
その時。
プァァァーン——!!
一台の白いセダンがクラクションを鳴らした。
急ブレーキの摩擦音が、空気を引き裂くように耳をつんざいた。
小森さんはそこでようやく顔を上げた。
だが、目の前に迫る白い車体に怯え、そのまま凍りついた。
「くっ……!!」
頼む、届いてくれ。
右腕を限界まで伸ばす。
ありったけの力を込めて走る。
「小森さん!!」
横断歩道に立っている彼女の肩口に指先が触れた。
俺はそのまま、彼女の体を思い切り突き飛ばした。
彼女は前へのめり込むように倒れ、横断歩道の外へと弾き出された。
「ふ、深川!?」
小森さんの慌てた表情と声。
その直後。
ドンッ——!!
足に大きな衝撃が走った。
セダンのバンパーが俺を撥ねたのだ。
強烈なタックルを食らったように、俺の体はふわりと宙へ浮いた。
そのままボンネットの上へ、乱暴にすくい上げられた。
メキッ——
体のどこかから異様な音が聞こえた。
足への衝撃を上回る激痛が、一気に襲ってきた。
右の上腕が、Aピラーに激突したのだ。
「ふ、深川!!」
小森さんが起き上がり、慌てて俺のところへ駆け寄ってきた。
朦朧とする意識の中、かすかに見えたのはアスファルトで擦りむいた彼女の頬の傷だけだった。
「ごめん、俺のせいで顔に……」
「今、私のこと気にしてる場合じゃないでしょ! 深川、大丈夫!?」
その時、俺を撥ねたセダンの運転手が車のドアを開けて出てきた。
「急に飛び出してきちゃダメじゃないか、学生さん!!」
俺はその言葉で、かえって意識がはっきりした。
「一時停止の標識があるのに無視して突っ込んできたのはそちらでしょう。きちんと止まっていれば、事故なんて起きなかったはずです」
「うっ……」
運転手は何も反論できなかった。
それにしても、「大丈夫か」の一言もないのか。
呆れて開いた口が塞がらない。
(小森さんはここで撥ねられて、後ろに倒れ込んだせいで頭を強く打ったんだな)
一方で、なぜあんな『悪夢』を見たのか理解できた。
たとえ運転手が一時停止をしなかったとはいえ、ここは基本的にそれほどスピードを出せる区間ではない。
だから、ゆっくりとうつむきながら歩いていた小森さんは、衝撃の勢いを逃がせず、そのまま後ろへ倒れることになったのだ。
俺は全力で走っていたから、ボンネットの上に乗り上げてこの程度で済んだってわけだ。
小森さんがしゃくりあげながら言った。
「ごめんね、ごめんね……。 本当に私、交通事故に遭うところだったんだね。信じなくてごめん。私が信じなかったせいで、深川がこんな……」
「大丈夫、泣かないで。そんなに痛くもないし。 何より小森さんが無事だったんだから、それでいいんだ」
「う、うん……。ありがとう。病院、行かなくて平気? 本当に痛くない?」
「意外と本当に痛くないな。 さっきはちょっと痛かったけど」
凹んだボンネットから降りた。
普通に歩けるし、頭もちゃんと回る。
運転手が狼狽してどこかへ電話をかけている様子まで、すべて目に入ってきた。
「でも、もしかしたらってこともあるから、早く病院に行こう、ね? 本当に深川がこのままどうにかなっちゃったら、私、本当に……」
泣き止もうとしているのに、小森さんの目からは次々と大粒の涙が零れ落ちた。
まあ、それだけひどく驚いたんだろう。
俺にとっては『悪夢』の中ですでに経験した光景だから、平然としていられるのだが。
この空気を和らげるため、わざと彼女の頭を撫でながら子どもをあやすように声をかけた。
「うちの和花ちゃん、もう泣き止みましょうか」
「うわああん——!!」
……逆に小さな子どものように泣き出してしまった。
これをどうしたものかと考えていると。
「え?」
突然、腕に凄まじい激痛が襲ってきた。
そして視界が徐々に黒く塗りつぶされていき、体に力が入らなくなる。
俺はすぐに悟った。
そうか、アドレナリンで痛みが麻痺していただけだったのか。
おまけに限界まで走り続けて、体はすでにボロボロだったのだから。
「ふ、深川!? 深川!!ダメ、死なないで!!」
口を動かす気力さえ湧かない。
頬にポツリと落ちた小森さんの涙の熱を最後に——俺の意識は、深い暗闇へと沈んでいった。
◇
目を覚ました。
この背中から伝わる硬さと妙な匂い。
さらに左肘の内側には点滴が刺さっている。
すぐに病室だと察した。
(どうりで腕が痛いわけだ)
右腕には硬い板が当てられ、包帯でぐるぐると巻かれている。
さらにその上には黒いネット状のものが被せられ、腕を胸元へと固定している。
Aピラーにぶつかって右腕が折れたらしい。
(ずっとここにいたのか)
一方、俺の右側では、小森さんが椅子に座ったまま、俺のベッドに頭を乗せるようにしてうつ伏せの体勢で居眠りしていた。
おかげで患者衣に彼女の涎がついている。
正確にどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、きっとずっと見守っていて疲れたのだろう。
ただでさえ今日は色々あって早退までしていたのだから。
「小森さん」
そっと彼女を呼んだ。
寝ているところ悪いが、とにかく看護師にしろ医師にしろ、俺が目を覚ましたことを知らせなきゃならない。
「んん……?」
小森さんが目をこすりながら起き上がった。
俺と目が合った瞬間——
ガバッと、俺の顔を抱きしめた。
「よかった、よかったぁ……!! 私、本当に深川がどうにかなっちゃうかと思って……。ごめんね、ごめんね……。 そして、ありがとう……」
彼女が再び号泣し始めた。
顔に押し当てられた柔らかな感触よりも、早鐘のように打つ彼女の心音のほうが、ひどく鮮明に伝わってくる。
俺はそのまま小森さんの後頭部を手のひらで撫でた。
「むしろ俺のほうこそありがとう。死なずにいてくれて」
俺の予知能力は、確実に誰かの役に立っている。
その事実を再確認できただけで、十分だった。
◇
その後、さらに二日ほど入院して検査を受けた。
幸い、腕の骨折以外に怪我はなかった。
骨折自体も手術が必要なほど大げさなものではないらしい。
ただ、利き腕である右腕を怪我したせいで、しばらくは日常生活が不便になりそうだった。
(今日も株は異常なし)
当然、一時停止義務を怠った運転手が俺の治療費をすべて負担してくれた。
そして慰謝料も別途受け取ることになっている。
人の命を救ったうえに慰謝料まで貰えるんだから、まあ、割に合う取引だったと言っていいだろう。
不便だし痛いことは確かだが、そう思わないと精神衛生上よろしくない。
証券アプリを閉じ、登校の準備をしようとしたところだ。
コンコン——
ノックの音が聞こえた。
結月はもう来ないし、母さんはノックなんてしないのに。
誰だろうと首を傾げていると、声が聞こえてきた。
「ふ、深川いる?」
「小森さん?」
「う、うん……」
なぜ彼女が突然、俺の部屋の前に?
二度ほど家に来たこともあるし、病院でも母さんと顔を合わせていたから、母さんがそのまま通したのだろうか。
とりあえずドアを開けた。
「わざわざ、どうしたの?」
「その……。不便でしょ、右腕?」
「まあ、仕方ないよ」
「もし迷惑じゃなければ、なんだけど……」
小森さんが少し頬を赤らめて言った。
「深川の右腕が完全に治るまで……わ、私がいろいろ手伝ってあげるからっ!」




