65.看護師たち
「う……」
吐き気に後ずさりする鈴子の指を、功成の指が強く止めた。
「落ち着いて、鈴子さん。大丈夫」
「あた、あたし、こんなにはっきり、見たのなんて……こ、この人たち……病院の」
「うん、そう。火事で。目的の一室以外は、って言っただろ」
「恨んでる霊なんていないって……」
「うん。恨んでないでしょ。彼女たち、普通に働いてるでしょ」
ぞっとした。
冷静なその言い方に、ぞっとした。
「さあ、いたずらっこ。廊下に出て、戻りなさい」
若い看護師が腰に手を当てておどける。と、功成が顔を上げた。きらめく目が綺麗にたわむ。
至極軽い問いかけだった。
「あなたたちは、この部屋を出ないのですか」
「うん?」
皮膚の剥がれた首を傾げ、看護師は聞き返す。功成は鈴子とつながった手を掲げた。
「なぜあのドアから出て行かないのですか。隣の部屋から、火が出るからですか」
その時、若い看護師の目の焦点がわずかにずれた。
「……何、言ってるの。火なんて……火、火は……」
「もう出たわ」
さっと前に踏み出したのは喉の煤けた小太りの方だ。
「私たちが誘導して、患者さんたちを逃がしたのよ」
「そ、そう……ね。そうだわ。火はもう出たのよね。とっくに」
安堵した若い方はしきりに頷いている。
鈴子が目を見張る横で、功成が小刻みに前髪を揺らした。
「覚えてるんですね。……記憶が飛んで、こんがらがって、つぎはぎになっても、それだけは」
夜の帳に沈黙が降る。
煌々と輝く灯りに虫が寄ったのか、ジッと小さな音がした。
「自分たちが亡くなっていることも、覚えてるんですね」
看護師たちの目が一瞬うつろになり、そして動揺しながら頷いたように見えた。
「彼女たちはね」
固まった鈴子に、前を向いたまま功成は言う。
「彼女たちは、ちゃんと覚えてるんだ。隣の部屋から出火して、彼女たちは動けない入院患者を必死に運んだ。三階から一階の出口まで、階段を下りては上り下りては上り、次々と助けてね。そして全員の無事を確認した後、この部屋に戻って煙に巻かれた。彼女たちは知っていたんだ。消火器が、ここにしかないことを」
功成の声は掃き清められた床に染みて行く。
「彼女たちは息絶えた。なのに十数年間も、この部屋に留まって出ようとしない。なぜかここに居続けているんだ。どうしてだと思う?」
最後のセリフは看護師へと向かった。
「火よりも怖い、侵入者が来るからですか」
「!」
看護師たちの顔がさっと強張る。
「……あ」
青くなった頬を震わせて、若い看護師が何かを言おうとした。
しかしその瞬間、
「駄目です」
強い制止が刺さる。
「……」
見ると、カーテンの内側から現れたのは年配の看護師だった。
「駄目。そう、怖い奴らが入って来るから。外から壁をよじ登って、あの小窓から」
煤けたナース服に黒煙に塗れた顔。眼球の片側が煙でつぶれている。
肺がつぶれているのかヒュウと奇妙な咳をして、年配の看護師は真っ黒な指で小窓を指した。
「だから駄目ですよ。さ、しっかりなさい!」
ベテランだと分かる貫禄ある声音で、彼女はきりりと目を釣り上げる。するとうつろだったふたりの看護師も叩かれたようにしゃんとした。
「そ……そうですよ、そうよ。ここから出たら駄目よ」
「そうね。私たちが逃げちゃ駄目だわ。三人で力を合わせて、ドアが開かないよう押さえなきゃ」
「……」
鈴子は奥歯を噛んだ。恐怖で動けない頭ながら激しく混乱する。
この人たちの言っていることは、
……何かおかしくないか?
「こ、功成くん」
「うん。……記憶がね。こんがらがって曖昧で、おかしくなってるね。随分長くここにいたから、記憶が薄れてるんだ。……死者にはさ、こういうことがよくある。ただひとつの思いだけで、あとの状況や時間の感覚や、何もかもを都合よく封じてしまう。思いが、強ければ強いほど」
思い、と舌に乗せてなぞったら鈴子の心臓が少しだけ鳴った。
ベテラン看護師が厳しさを湛えた顔でドアを……廊下へとつながる、黒い布の巻かれたドアを見据える。それからぐるりと焼けた首を回し、外とつながる小窓をにらむ。
そして、凛と胸を張った。
「侵入者が入って来ても、私たちがドアを守るのです。ドアの向こうには、患者さんたちがいるのだから」
黙った鈴子の前で、他の看護師が相槌を打った。
「ええ。その通り」
「患者さんたちを守ることができるのは、私たちだけですもの」
「……」
足元から寒さとは別の震えが立ち上った。
記憶がこんがらがる。時間の感覚もなくなる。おかしいことに、気付きもしない。……ひとつの思いに、縛られてしまう。
「お」
力の入らない鈴子の顎から絞り出された言葉は、消え入りそうに弱かった。
「な、何か……お、おかしくない……です、か」
「どこがおかしいと言うのです。私たちが逃げてしまえば、一体誰がこのドアを」
つぶれた片目の奥を見る。
熱くても苦しくても、最後まで職責を貫こうとした目。
自然と言葉が溢れた。
「い、言ったじゃない……あなたたち、自分で、言ったじゃない。逃がしたって。……火の手から、あなたたちが、何度も何度も、階段を上って」
どうしてか、煤けたナース服がひどく哀れだった。
「助かったんですよ」
最後は声が掠れてしまった。
「ドアの向こうにはもういないの。患者さんたちは、もういないのよ」
「全員無事で本当によかった」
「気を抜かずに。階段を下りて外に出たら、点呼を取りますよ」
「はい」
地を這う低い声は、きびきびと響いてドアの向こう側へと消えて行く。
「……はは。まだ混乱してる。十数年もの間もずっと責任感で仕事してたんだからさ、少しは休めばいいのに。ようやく外に出られたのにまた仕事しようとしてる」
お疲れ様、と呟く功成の指が、優しく絡まった。




