64.昔のように見て
「ここはね、鈴子さん。あの録画番組で外から映していた窓の部屋だよ」
部屋は狭かった。
ガラスの入った小窓ひとつ、廊下へとつながるドア、あとは壁に囲まれている。突然思い出したらしい月明かりが差し込んで、隅に積まれた古い机や金属片が転がる乱雑な床を照らした。
「さてと」
黙った鈴子をよそに、功成は制服のポケットを探っている。取り出した細く黒い布を閉めたドアのノブに巻いた。
「……それ、何」
「うん?あ、これ。僕が語った話の中にちょっと出て来たでしょ。僕が小さい頃使ってた、かつてのネクタイ」
鈴子の麻痺した脳が、「細いね」と見たままの感想を告げる。
「ふたつに裂けたからね。……これは、永遠に片割れなんだ」
「……」
呟きに久々の温度が感じられた。苦心して指を絡めている様子に、思わず声をかける。
「あたしが結ぼうか」
「駄目」
ぴしゃりと答えが返る。そのまま、功成は不格好な結び目を作り両端をぎゅっと引いた。
「よし。これでドアの外からうるさい邪魔が入ることもないし。じゃあ、……できるかなあ、自信ないけど」
少し考える素振りで、功成が左手を伸べた。
「僕に触れても、見えるようになる人はいない。……もう、いない。でも君は昔見えていた人だから、その感覚を思い出して。もしかしたら万が一の確率で成功するかも。奇跡に近いけどやってみよう、チャレンジ」
「え?」
横顔を見つめていたらそれが急に近くなる。
右手を取られる。
ひやりとした感触の手の平が重なった。
「鈴子さんは、昔どうやって見てた?見えざる者が見えにくい時、ぼんやりとしか掴めない時、どうやって見ようとしてた?」
「え?……え」
思考は相変わらず止まったままだった。
あたし。
なんでさっきから、こんなにぼんやりして。ぼんやり、何も考えられなくなって、ただひたすら功成くんの話を……?
「大丈夫」
戸惑いもかき消す穏やかな声音が、ゆっくりと耳の奥に染み込んで来る。
「これが終わったら、僕はもう二度と触れない。誰にも布を結ばせないし、鈴子さんにも誰にも触れない。だから昔の感覚を、思い出して」
昔、あたしは、と鈴子は舌だけで反芻した。
記憶の片隅がわずかに揺れ、眼球の裏に熱がこもる。
「鈴子さん。いつもあたしは見えない、もう地味で普通だから何も見えなくなったって思ってるみたいだけど。……一度でいい、見ようとしてみて」
この人にはなんでもばれるんだなと長い指の感触を確かめる。
指と指が絡んだ瞬間、遠い昔に見た御簾の向こう側の光景がふっと甦った。
やれ、と頭の隅で何かがささやいた。
「あたし……確か、こうやって、眼球が乾くくらい見開いてじっと見つめると、ぼやけた輪郭がいきなり見え」
ることが、と唇を動かすと同時に、眼球がくるりと別のものにすり替わった気がした。
まぶたを下ろし、開ける。
世界は一変していた。
「あら。眠れないの?何号室の患者さんかしら」
若い看護師がにこにこと笑う。
「……」
明るい室内。輝く蛍光灯の下に、綺麗に並べられた机の影が伸びる。
机の上には書類と駄菓子が置かれ、室内を分かつカーテンの隙間から清潔そうなベッドが覗いていた。
「こらあ、ここは仮眠室よ。ナースステーションを素通りして来たな、君たち」
溌剌と動く小太りの看護師は、ひと昔前のナースキャップをくるりと回した。
「あ、あの」
鈴子は口ごもり、すぐ目の前の若い看護師をじっと見つめる。
しわのない額から首までの大部分が焼け爛れていた。
皮膚が垂れて骨が見える。
「真夜中に探検?いたずらっこね」
咳き込み笑う小太りの看護師の口腔内は、煤で真っ黒に変色していた。咳に灰が混ざり、黒い舌が覗いている。
掻き毟ったらしい喉から血が滲んでいた。
「冒険家の患者さんたち。もう、駄目じゃないの」
温かみのあるオレンジ色の明かりに照らされ、顎の骨が飛び出た若い看護師がおかしそうに微笑んだ。




