63.功成の正体
柱は、鉄骨が剥き出しになっている。
月明かりもない中でやっと目が慣れたと思ったら、崩れた壁に膝を打ってしまった。
「いっ……」
外観は不気味な廃墟だったが、中に入ると別の意味での惨状が広がっていた。
不法投棄の電化製品や材木、捨てられたゴミの山。痛みによろめいて食べ残しの菓子パンを避けたら、転がっていたスプレー缶を踏む。
ガラスの抜けた窓枠に手をかけると、卑猥な落書きが所狭しと描かれた天井が見えた。
「あ、あたしっ」
妙に高い声を出すと前方のシャツが振り向いた。
「ほんと、もう帰るっ」
どうして彼は、あんなにすいすいと進めるのだろう。それにどうして、何かを避けるような、何かとぶつからないよう道を譲るような、そんな奇妙な動作を繰り返しているのだろう。
「……もう、帰るから」
考えたくない答えは正解だろうと、鈴子の喉が鳴った。
「だからさあ。もう遅いって」
見下ろして来る功成の眉は呆れを含んで歪んでいる。
端正な顔に「面倒だ」と大書きされていて、声にも温度がない。
ここまで来てやっと分かった。
彼は「噂通りの姿」をきっぱりと脱いだのだ。
「今ひとりで帰っても、危ないでしょ。夜の山道だよ?僕といれば少なくとも危険はないし」
あやすような口ぶりで功成は笑った。
「それにさ、鈴子さん。怖くはないだろ?昔は見えてたんだから」
「あたしは!何度も言うけど、ぼんやりとしか見えなかったのっ」
スカートのひだを強く握る。気温はどんどん低くなっているのに変な汗をかく。
不気味な闇よりも陰惨な廃墟よりも、彼が一番怖かった。
「それに功成くん、おもしろいものが見られるかもって、一体何を見に来たのかすら言わないじゃない!」
立ち上る白い息に、功成はやれやれと言った様子で首を回す。そして近寄って来て、初めて肩を並べた。
「行くかと聞いたら勝手に来たんだろ。僕はただ、ここの映像を観てちょっとだけ興味が湧いて、でもどうでもいいやくらいに思ってたんだ。なのに君が僕の後ろをつけて来て、さらに色々話したそうだから、じゃあついでにここも見てやるかってわざわざ時間を割いて散歩しに来たんじゃないか。話すだけ話して後は帰ると騒ぐなんてさ、いつもうるさいんだよ鈴子さんは」
「あた、あたしは……っ。いつもなんてちっともうるさくしてないし!」
「うるさいよ鈴子さんは」
「うるさくなんてない!学校でも、一日話さないことだってあるもの!」
全身を震わせて抗議するが、真横の功成は無視した。
再び歩き出したその速度がわずかながらも落ちているのを見て、鈴子の足も動く。
なぜこうも、彼の言うなりに動いてしまうのか。それでも意識の裏では、ついて行くしかないと分かっていた。
「ああ、もう」
なぜかうっとうしそうに手を振って功成が舌打ちする。
「うるさいな。近寄るなよ、あっち行けって。……あ、そこ気を付けなよ。瓦礫がある」
鈴子の足元を指して、それからハエを追いやるような仕草をして、功成は静かに話し出した。
「ここはね、元は病院だったんだ。中堅規模の私立病院。みんな好き勝手に脚色して、呪われたホテルだの何だの言ってるけど、真実はごくありふれたつまらないものだよ。十数年前、この病院で小火騒ぎがあって、患者は全員無事に逃げたけど最後まで院内に残っていた看護師が数人、煙に巻かれて犠牲になった。で、ありがちだけど消火設備の不備や経営者の危機管理意識の有無が取りざたされて、再建のために病院は別の土地に移転した」
「……どうして知ってるの」
「聞かなくても呆れるほど親切に、『みんな』が話しかけてくれるからね」
両耳を擦る功成に、やっぱりと唾を飲み込む。
「じゃ、じゃあ。……今この中には、今この周りにも、番組で解説してたみたいに、浮かばれない霊…とか怨念とか、その病院にいた人たち?うようよ、してるの?」
意を決して尋ねたのに肩を竦められた。
「いや?だからなんで、君も世間も、そんなおどろおどろしく脚色して面白おかしくしようとするかな。言った通り、当時の病院にいた人々のほとんどは無事だった。火の手から逃げ遅れてさまよう死者とか、映画じゃあるまいし。恨みや怨念が渦巻く恐怖の館なんてあるわけない。……ここにいるのは、病院とは一切関係ない、ただの暇つぶしや迷い込んでうろうろしている影ばかりだよ」
『影』の説明のつもりか、功成が腕で人型を作った。
鈴子は黙って目を逸らす。
「まあそれで、この病院跡を買い取って開発しようとした業者があえなく倒産。放置された結果、見た通りの廃墟となって、夜遊び大好きの不良たちが集まる絶好のたまり場になった、と。怨念の館なんかじゃなく、凶悪な青少年犯罪の温床とでも言えばいいのかな。現実は」
指された天井を見上げると、油性スプレーで「参上」と殴り書きされた換気口があった。
「見えない現実としては、無関係の影たちがただうろうろしてるだけ。……ま、目的の一室以外は。ね」
目的の一室って、と聞こうとするが、かじかんだ歯が鳴っただけだ。
「ところで鈴子さん」
崩れそうな階段を上りながら、ふと功成が見つめて来る。
そっとささやかれた。
「その、きりん様って言う奴。本当に、優しかった?」
「!」
途端、鈴子の頬がカッと熱くなった。
今の今まで心を占めていた言い知れぬ不安、彼への恐怖、そんなものがすべて吹っ飛んで噛み付くような声が出る。
「どうして、そんなこと……こ、功成くんには分からないわよ、きりん様のことは!きりん様は優しくていつも一緒にいてくれて、あたしを常に守ってくれる守り神で」
「守る?」
その、特に知りたくもなさそうな、小馬鹿にしたような表情が許せない。鈴子は手すりを掴み、二段飛ばしに階段を駆け上った。
「きりん様はね、いつも守ってくれてたのっ。あたしのヘビは透けてたから、時々見えざる者の輪郭すらよく見えないこともあったの。そうしたら、きりん様はいつも、ほら鈴子、あそこにいるぜって!怖くて汚らわしい奴らはあそこだ、ああいう奴らは馬鹿でくだらないから気を付けなって。俺がいつもそばにいて、やっつけてやるからなって」
思い出すたびに胸が張り裂けそうなほど愛おしい。
「それに、それに……うちに祈祷に来るお客さんの中には、本当は見えざる者が憑いていない人や、体のどこも黒くない人もたくさんいたのよ。功成くんだってさっき言ったでしょう、脚色しているだけで、現実にはごくありふれたことばかり。そうよ、お客さんのほとんどは体の不調も単なる気のせい。なんにも悪くないのにただ不安で怖がってるだけの人ばかりで。でもそれで本当のことを言うと、おじいちゃんがすごく怒ってあたしを叩くの。そうしたら、きりん様が、きりん様が」
「が?」
「きりん様が!……きりん様、が。可愛い鈴子、いい子だ……て」
舌が止まらない。
が、言葉を紡いだその時、何かが鈴子の心にすとんと落ちた。
「……鈴子が可哀想だから、俺が守ってやるって」
「どうやって」
「適当に、相手の体のどこかを。……どこかを言え、と。後で俺が、そこに噛み付いたり踏んで来てやる。本当に黒く見えるようにしてやる。病を、つけて来てやる……て」
いい子だ鈴子。
お前といると、俺はいつも楽しい。
「……いつも、おなかいっぱいになるって……」
ふっと目の前が開けた。
「……」
ドアのきしむ音に瞬きする。干上がった唇の感覚が神経を揺らした。
「はい、到着。ここはね、三階の一番端の部屋。元は職員の仮眠室です」
いつのまにかこんなところまで歩いていたのだ。
何も聞いてなかったようなおどけた態度で錆びたノブを押さえているのは、功成だ。
「……」
鈴子は停止した思考で部屋に入った。背後でゆっくりとドアが閉まる。
遮断され、冷えた空気が足先を包んだ。




