47.終わりの日5
そこに老婆の姿はない。
「……ふうん。小さくて窓に届かなかったから部屋から出られなかったんだ。……沙貴ちゃん?」
「みたい。さ、行くよ」
沙貴はカバンから取り出した油揚げを、杉の大木の根元へと放った。そして功成を急かす。
「雨、近いよ、急ごう。……うん、赤ん坊だったみたい。迷い込んだだけね、きっと。旅先のどこかで、ついて来ちゃったんじゃない?いつついて来たのか、部屋にいつ侵入したのか、あれだけ小さいと分からないものね」
「……なんで投げるの?」
「は?」
油揚げの描く放物線を見ていた功成は、なぜかわずかに首を傾げている。しかし沙貴が歩調を速めると小走りでついて来た。
「なんでって。いつもそうしてるじゃない。雨、一気に降って来るねきっと」
「え?沙貴ちゃんいつもは」
雷が功成の声を奪った。急ごうと手振りで示すと、天を仰いだ前髪は頷きを返す。
春の雷は頭上で長く轟いていた。木々の枝が騒いでいる。
太陽が雲に隠れ、湿気の匂いが鼻に届いた。
「それにしてもさ、沙貴ちゃん」
坂を上り切ったところで功成が先に立ち、裏門をくぐって境内に入る。
「その時まで赤ん坊だって気付かなかったなんて。やっぱり図太いよね」
「は?だからあんたに言われたくな、」
急に功成に腕を引かれた。ぐいっと寄せられた体の脇を、薄曇りの空気に滲むような影が通り過ぎる。
影は人間の形をしていた。
「……」
無言になった沙貴は、腕を引かれるまま境内を進む。
無数の影たちが、目の前を横切ったりすれ違って振り返ったりした。
現実味のない光景だった。
雑踏を眺めているような、さわさわとしたざわめきがこだましている。影はいちいち沙貴を振り返り、覗き込み、そして連れ立って境内を行き来していた。
「ね、沙貴ちゃん。いつもより多いでしょ。やっぱり、お山の調査のせいだよね」
「……そうね」
人がひしめく空港を、遠くから見ているようだった。
頷くと、功成は「嫌だね」という風に鼻にしわを寄せ、そして空いている手で耳を擦った。
「ね、耳。痛いよね」
ふと、つながっていない方の腕を掲げる。黒い布が手首でひらめいた。
そして功成に触れている腕を見る。
それは突然、天から降って来たように沙貴の心臓を貫いた。
「……ねえ。コウ」
玄関を開けた功成に促されて母屋に入る。玄関扉が閉まると、ざわめきは遮断された。
「コウ。ねえ、あのさ」
「影たち、すごい大きな声で話してたね。沙貴ちゃん平気?」
大きな声で?
「コウ。私、あのさ、この前ここへお邪魔した時、あの時」
「ゆらゆら揺れて黒いの、うるさいよね。大声でいつもさ」
「あなたのおじい様がね、コウ。おじい様が、私、ぼやけて透けているように、よく見えなかっ」
「え?」
「え?」
雷鳴が轟く。
ふたりの声が消えた。
「…………え?」
功成がこちらを見ている。沙貴も見返した。沙貴の心臓が、一度だけ鳴った。
前にもあったのだ。
前にもあった。こんなこと、前にも。はっきりと覚えている。
火葬場だ。
真紅の絨毯、巨大な階段。二階へと続く道。連なる影たち。そして、つながったふたりの体温。
今より幼く、今よりも柔らかな頬が、沙貴を見上げていた。無邪気に言った。「大きな声で話してたね」と。
それは始まりの日だ。
まだ沙貴が、聞こえなかった時の……
「コウ」
きらめく瞳がこちらを見た。視線が絡み合う。
「沙貴ちゃん」
呼ぶ声は震えていた。
「さ、きちゃん」
この前の訪問時、廊下で挨拶した功成の祖父が滲んでぼやけて見えた。小骨が引っかかったように気になったが、まあいいやとすぐに忘れた。
そしてもうひとつ、脳の奥でぽっかりと開いた穴を見た瞬間があった。功成との会話の途中で、何かがおかしいことに気付いた。しかし思考の欠片は頼りなく、それもすぐに消えた。
でも、今なら分かる。
そうだ、と沙貴はぼんやり思った。
そう、自分は、部屋に侵入した何かを「怖がっていなかった」。功成に笑われ、図太いと指摘されるくらい、怖がっていなかった。
なぜ怖くなかったのか。考えればすぐ知れる。
「お、音が……。聞こえる音が、小さかった……眠れるほど、いつ侵入されたか分からないほど」
この半年ほどの間は日々に追われ、疲れ果てていた。聞こえるものに構っている暇すらなかった。
「……いや」
違う。何も聞こえていなかっただけだ。
聞こえなければ、日常は普通に進む。止まらない日常に人は慣れてしまう。聞こえない日々に、慣れてしまう。そう。
ワタシハナニモ、キコエテイナカッタダケダ。
「沙貴ちゃん」
呼ばれ、手が重なる。功成が自分のスマホを開き、触れ合ったふたりの手の平に乗せた。
「沙貴ちゃん。冗談だったんだよね?『あの瞬間まで赤ん坊だと分からなかった』なんて……ただの、冗談だよね?」
「……」
両足から力が抜ける。よろめいた沙貴の視界には、あの夜、功成に宛て送った写真が映った。
「僕は、話しながら、冗談だと、思ってて、」
確認のために送った写真だ。やり方はこれでいいのかと。
画面いっぱいに全開の窓。
そこにはベランダからこちらを見ている、髪の長い女がいた。
「僕は今さっきまで、沙貴ちゃんが冗談を言ってるんだと思って……」
写真の中で女は両手を添えた口を、限界まで大きく開けている。
血走った目を見開き、髪を振り乱して叫んでいる様子だった。
「電話越しに、僕、電話越しでもさ。聞こえて……金切り声で、こっちよって。ほらこっちよ、おいでって」
こっちへおいで。わたしの赤ちゃん。
こんなところに迷い込んだわたしの赤ちゃん、ママはこっちよ、迎えに来たから。ほら頑張ってハイハイして、ここから出ておいで。
「それに何より、沙貴ちゃん。……あの赤ん坊、ずっと」
ずっと、泣いていたじゃないか。
「……」
すうっと手足が冷たくなった。沙貴はただ、功成の揺れる前髪を見ていた。
ずっと泣き喚いていた赤ん坊。ずっとずっと泣きじゃくりながら、一ヶ月も部屋を徘徊していた赤ん坊。その、耳をつんざくような悲鳴。
「私」
知らなかった。
「聞こえなかったから……」
「沙貴ちゃん」
どこか遠くから必死に手を伸ばすように、功成が言った。喉が激しく痙攣していて、沙貴はそれを見つめる。
「どうしてさっき、油揚げを放り投げたの」
功成の顔からすべての色が失せていた。
「すぐ隣に、あの毛だらけのおばあさん。立っていたのに」
手と手が離れる。
微かに残った温もりは、子供の体温ではなかった。
沙貴は咄嗟に手首を擦る。無意識の行動だった。
雷が鳴り、すぐ止む。膜を張ったような耳の奥に、雨の響きが届いた。
爪に引っかかって破れた布が、ふたつに裂かれて音もなく落ちる。
旅の終わりは突然だった。




