45.終わりの日3
それはゼミ旅行と言うよりは今後の研究方針を定める前振り会合のようなもので、例え変人と……望んでいないが変人と思われている沙貴にしても、断りようのないものだったのだ。
そしてその旅行から帰宅した夜、「それ」に気付いた。
部屋の中に何かがいる。
明かりを消して眠りにつく頃に、それは動き出す。
ゆっくりと。
いや。……早く?
「早く……あれ?動くスピード、どうだっけ」
心底首を傾げたくなる部分ではあるが、まず第一に、それがどこからついて来たのか、いつ侵入したのか、まったく分からないこと。
そして第二に、未だにそれが何なのか、分かっていないこと。
……「それ」の存在に気付いてもう一ヶ月、これが沙貴の分かっているすべてである。
「本当に何も分からないの?沙貴ちゃんが分からないってことは、相当無口で静かな奴なの、それは」
嫌味に飽いたのか、功成は片膝を抱え上げて関心なさそうに聞いて来た。
「うん。……うん?……どうかな。よく、私にも」
「何それ」
小さく笑われ、沙貴はシンクの端を意味なく触る。
「なんか……よく、分からないんだよね。それ。いつも眠りに入る直前くらいに動き出すし、もちろん部屋の中は真っ暗で。姿は見えないし」
毎日疲れていた。明かりを消し、ベッドに潜り込むと、睡魔はあっという間に訪れる。
眠りに引き込まれる寸前に、意識が急速に途切れるその瞬間に、……部屋の隅に息づく何かの気配を知る。
目を閉じたまま耳を澄ます。緩やかな自分の呼吸音に紛れて、それは動いていた。
沙貴の寝ているベッドの周りを、ゆっくりと移動する。
足元から脇を通り、頭の上を通り過ぎてまた足元へ。
ひたひたとベッドの周囲を回る。
夜の闇に溶け込んだそれは、影を背負って歩いているように思えた。
さらに、その歩行間隔はとても奇妙だ。一定の歩幅で歩いているようにも感じられるし、非常に細かいステップを刻んでいるようにも聞こえる。足を引きずっているような音にも思え、かと言って動物めいた動きをするわけでもない。
ただゆっくりと……早く?細かく?……歩き、部屋を徘徊して、沙貴の感覚が届く範囲でひたすら動き回っている。
あれは、一体何なのだろうか。
あんな歩行音をさせる――あんな動きをする人間なんて、いるのだろうか。
「一ヶ月以上もそんなものを部屋の中に放って寝てるなんてさ。沙貴ちゃんも図太いね。怖がりなのか無神経なのか、結局のところ分かんないや」
「コウに言われたくない」
言い返しながら、確かにと思った。
疲れが溜まっているのは確かだ。そして、忙しくなって半年、長い期間、余計なことを考えずただ夢中で日々を……
日々を?
「あれ?」
「なに、沙貴ちゃん」
「いや……何も」
今何か、脳の奥底でぽっかりと開いた穴を見た。ような気がして、しかし思考の欠片は掴めず、沙貴は首を振って腰を伸ばした。
今、私は何かおかしなことに気付かなかったか?
「……ううん。何もおかしくないし」
「何さ沙貴ちゃん。独り言?」
先ほどのおじい様への気がかりといい、本当に疲れは蓄積しているようだ。
沙貴は眉間を揉んだ。
「まあ、とにかく。今夜辺り、コウ、あんたから聞いた対処法とやらを試してみるわよ」
投げやりな台詞に会話の終了を見たのか、功成は言い逃げとばかりに呟いた。
「うん、そうしなよ。それで反省したら、二度と他の男と旅行なんか行かないことだね」
「あんた……どうしてそういう……」
呆れ果てて二の句の告げない沙貴の耳に、壁を隔てた居間からの笑い声が弾ける。随分な盛り上がりに庭の鳥たちも沈黙した。
「うるさいな、母さん」
「あ、ところで沙貴ちゃん。僕からのお祝いは何がいい?お母様は気持ちだけでいいなんて言うんだけどさ」
気が済んだのか、打って変わって身を乗り出して来る功成に、沙貴は目を眇めた。
「コウさん。うちの母さんにオカアサマだなんて、鳥肌もんなんだけど。それにあんた、母さんの前で人格変わり過ぎ。あんたの立場上、おばあちゃんでもおかしくないのよ?言いにくかったらおばちゃん辺りで」
「そんな!僕、沙貴ちゃんのお母様をおばちゃんだなんて、死んでも呼べないよ!」
「……あ、そう」
「甘いわお兄ちゃま!」
スパン、と激しく扉が開いた。
「……鞘子……」
突然の登場に呆然とする沙貴を尻目に、四歳になったこの寺のお姫様はずんずんと歩み寄る。そして腕を組むと、兄の眼前で指を振った。舌打ち付きだ。
「ちっちっ。お兄ちゃま、沙貴ちゃんママに気に入られるためのゆうとうせいあぴーるは、まだこうかわずかってとこね。年上のじょせいがぐっと来るには、ヤンチャなめんもあぴーるしなきゃ。そのガップにおんなは」
「ギャップね」
「おんなはよわいのよ。いい、ショウヲホッスンバまずいウマを食えって」
「まず馬を射よね」
小声の訂正を入れながら、ため息が止まらない。
言葉を話せるようになった頃から頭角を現し始めた功成の妹は、かつての愛らしさはどこへやら、保育園では取り巻きに囲まれ女王のごとく君臨しているらしい。
迫力の美少女である彼女の成長ぶりは、誕生日に高級ブランドのアクセサリーを要求するなど目に余るものがある。
ウン十万のネックレスを指して喚く姿は、近所でちょっとした話題になったわとのん気な栄美子は笑っていた。
「鞘子。ちょっと前までは、あんなに可愛かったのに……」
どんな兄妹だと悲しくなった沙貴に、家族の誰にも似ていない輝く二重が笑った。
「沙貴ちゃん。あたしはいつもかわいいでしょ」
「ああ……うん……そうね……」
「あ、沙貴ちゃんに見せようとよういしてたんだ、かいがのおきょうしつの絵。沙貴ちゃんのお顔かいたの。とってくるね」
「鞘子は必ず沙貴ちゃんに見せようとするんだよね、お稽古事の成果」
弾んだ足取りで走って行くブランド服の背に、笑いを噛み殺して功成が言う。
「この前はピアノを聞かせていたよね」
「その後はお習字ね」
変わっていないのは無条件に自分に懐くところだけかと、沙貴は脱力した。
「で、沙貴ちゃん。僕からのお祝いは」
「なぜ小学生にもらわなきゃなんないのよ」
「じゃあ、指輪とか?」
「聞いてくれる?人の話」
はっと気付くと、開けっ放しの扉から栄美子と母の顔が覗いている。
なぜか嬉しそうな栄美子が、おっとりと手を叩いた。
「ほらね、真咲さん。嘘じゃないでしょ。もうこれはこの際、沙貴ちゃんの身柄は潔く、うちで」
「沙貴。あんた」
母の猫より鋭い視線に背筋が凍る。冷たい声が生温かい春の日差しを遮った。
「犯罪よ?」
「……」
疲れはまだまだ抜けないな、と沙貴は額を押さえた。




