34.言霊6(そして)
「沙貴」
鋭く呼ばれ、正座した沙貴の手の平に汗が滲んだ。
会いたくなかった人が、沙貴の部屋で目の前に座っている。
もっとも恐れていた、はっきり言えば沙貴にとって見えざる者たちよりも怖い人物だ。
「だ、だからね……母さん」
しどろもどろに顔を上げると、きりっとした釣り目に圧倒される。女手ひとつで育ててくれた母親は、しかし母親と言うよりは沙貴の体に染みついた恐れの頂点、暴君だった。
泣いて許しを請うことは考えていない。通用したことがないからだ。この母親を目の前にしてやれることはひとつ、真摯にすべてを話すことだけだ。
「りゅ、留年、二度目の留年、ですけども。それには怪我とか、邪魔されたとか、その他いろいろありまして……」
吊った右腕を見えるように差し出すと、同年代の母親よりも随分と若い顔をしかめられ、鼻を鳴らされる。
「で?それが、なに?」
それが、なに。
「……」
あまりの言いように言葉を失った沙貴に、母親は畳みかけるように言った。
「卒業は?」
「あ、もちろん!単位は楽勝だし、来年には必ず!」
「当然よ。卒業させるために大学へやったのよ。途中で行かなくなったりしたら、鉄拳制裁では済まないわよ?」
怒りを静かに湛える表情がものすごく怖い。
なぜか卒業にこだわる母親に萎縮し、沙貴はじりじりと進む時計の針にすがった。
もうすぐ彼らが着くはずだ。一週間前、寺院で、来てくれると約束した。ひとりで再留年の報告は辛すぎると、卑怯にもお願いしたのだ。「挨拶したいから、必ず行くわ」と言ってくれた。
突然尻ポケットの携帯が震える。
助かったと飛び付いた沙貴に、冷たい声がかかった。
「沙貴。話の途中で携帯に出るようなしつけ、私がいつした?」
「いや、えと……はい」
下を向いて画面を開くと、功成からのメール。『もうすぐ着く』との文字に冷や汗塗れの背中が少し軽くなった。
「……ん?」
しかし文は続いている。
『沙貴ちゃん、直接言うとてれるからメールにしとくね。この前沙貴ちゃんがうちに泊まった夜、ぼくはただ眠れてるかなって心配で見に行っただけだからね。ごかいしないでね』
「……あいつ……なんの話を?」
あの夜、寝ていた部屋に功成がいつ来たと言うのだ。いくらなんでも、入って来た時点ですぐに気付く。
「わけ分かんないし」
「沙貴」
携帯に向かって呟いた頭に、平手打ちのような叱咤が入る。
「あんた。……助っ人を頼んだわね?」
迫力満点ににらまれてどっと汗が流れた。
「いや、久し振りだからほら、会いたいわって叔母さんがっ!」
「……史子さんが?」
「そ、そうそう!それにね、栄美子さんも改めてちゃんと」
必死に言い訳する間に、軽やかなチャイムが響いて来た。命拾いだ、と心底思った。
「沙貴」
ため息を吐いて玄関に立ち上がりかけた母親が、ふと目を合わせて来る。
「沙貴、あんたに風は吹いてる?」
「は?」
風。……人生の向かい風のことだろうか。
言葉遊びのつもりで、沙貴は何度も頷いた。
「あ、そう。ならいいけど」
黒髪を揺らして母親は玄関へと歩いて行く。
その背中を追って、超現実派の母が言葉遊びとはかなり珍しいなと改めて首を傾げた。
「こんにちは」
「は、初めまして、僕!功成と言います、お母様!」
玄関先が騒がしい声に包まれる。開いた扉から風が吹き込んで、沙貴の頬を撫でた。
一週間前までは寒風吹きすさぶ厚い雲ばかりの空だったのに、それを払拭するような優しい温かさだ。
春はやはり来ているらしい。叔母の声も柔らかかった。
「久し振りね、真咲さん」
風は華やかな彩りを添え、沙貴の頭上を越えて行った。




