33.言霊5(いつかの日)
言霊5
疲れたのか、語り終えた後有之介はひどく咳き込んだ。
仕方なく真咲が続きをまとめる。
「…それで結局、そのままここに転がり込んで半年、よね」
「真咲さんも成人になったし、給金の交渉も僕がしてあげたじゃないか」
「学校も行かなくなってここに居座って、さらにやることやってて何言ってんのよ」
あはは、と有之介は心底おかしそうに笑った。卒業を断念したことすら気にしてないようだ。
そして喘ぐ息の中で言う。
「真咲さん」
「なに」
「籍、抜かないでいてくれてありがとう」
雪混じりの寒風が建付けの悪い壁を揺らす。
沈黙した真咲に、有之介はのんびりと続けた。
「あの巨大足男の言霊通りに行けば、僕はあと十年近く生きるみたい。だからその間は、籍を抜かないままでいてくれると嬉しい」
「……」
この人は、本当に分かっているのだ。真咲はふいに泣きそうになった。
籍を抜かなければ、慰謝料名目の金が有之介の実家から送られて来る。まさか十年とは言わないが、せめて今後一年間だけは喉から手が出るほど欲しい。
恥もプライドもなくそう思っていた。
有之介の父親とは、かつて一度だけ電話で話したことがある。「財産ねらいの売女」「どこの馬の骨か」と言われ、前者はなくとも後者はその通りなので反論はしなかった。
だが、昨日こちらから電話をかけた時はただ一言、「分かった」とだけ言った。有之介は父親のことをあまり語らないが、親というものを知らない真咲としては、隠された愛情を見せられたような気がした。
だって、と思う。
だって、仕方がないのだ。ここでは看病なんてできない。日々衰弱して行く体をただ見ているだけだ。病院に行く金もない。
唯一の味方である有之介の妹、史子は、電話口で本当にいいのかと泣いていた。アメリカに連れて行くそうだ。
真咲の義妹でもある彼女は、泣きじゃくって、後悔しないのかと問いただして来た。「後悔なんてしないわ、史子さん」と真咲がきっぱり告げると、もっと激しく泣いていた。
アメリカがどういうところなのか真咲はまったく知らないが、たぶん、ここよりずっと進んだ医療が有之介の命をつないでくれる。
眠るように生きることを本人は望んでないかもしれないが、連れて帰ってくれと彼に黙って電話した真咲にとっては仕方がなかった。
だって、生きていて欲しいのだ。
「史子さんて、いい人ね」
「何を急に」
妹の名を出され、有之介はおかしそうに目を細めた。
「……額田王の話だけどね」
そして彼は唐突に、ベッドの上から呟く。
「……額田王は、天智天皇を恋い慕っていてね。君待つと、我が恋ひおればわが屋戸の、すだれ動かし秋の風吹く、って歌を詠んだ」
真咲が骨の浮き出た額を触ると、くすぐったそうに笑んだ。
「あの方を待っていると、あの方は来なくて、戸口のすだれを動かしてただ秋風が吹くばかり。ただの恋歌だよね。……でもね。僕はもしかしたら、て思うんだ」
ヤカンがしゅんしゅんと鳴った。
「額田王は普通の女性だったけど。……その相手、天智天皇がもしかしたら。力を持ってたんじゃないかって」
僕と同じような。
「……」
有之介が時々語る「見える」話は、真咲にとっては御伽噺のひとつに過ぎない。でも本人が楽しそうだから、一度も遮ったことはなかった。
「僕もね。眠ると、時々体から抜け出して、元気な子供の姿になって町を闊歩するんだ。天智天皇は彼女に会いたいけど会えない。だから夜眠った後、風に姿を変えて額田王のところへ飛んで行ったんじゃないかって。彼女のいるところまで飛んで、すだれを揺らしていたんじゃないかって」
ロマンだよね、と問われて適当に頷き返す。
そんな真咲に微笑んで、有之介は苦しそうに咳をした。
「僕も風になってみたいけど。……できるかなあ」
「風」
「そう。風。どんなに遠く離れていても、すぐ飛んで行けそうな風。できるといいなあ」
さあね、と鼻を鳴らす。
が、続いた言葉に、真咲は首を傾げた。
「よし、言霊を送ろう」
言葉通りに、物事が成る。
「……誰に」
「いつか未来、もしかして僕と同じものを持って生まれるかもしれない、幼い誰かに」
有之介は目を閉じて考えている様子だった。
「……その子は、とても家族に愛される。幸せになる。そして、守ってくれる人が身近にいる」
この力はもろ刃の剣だ、と声が掠れた。
「だから、そう。鞘だ。刀の鞘。鞘のように、守り包んで理解してくれる人がいる」
真咲は急に意地悪な気分になった。
この人は、自分が苦しいのに何をそんな他人を、しかも本当に生まれるかも分からない人のことを気にしているのか。
「……その鞘が、壊れちゃったらどうするのよ」
なんの気なしに嫌味を言うと、有之介は突然真剣な顔になる。そして、「そうか、そうだよね」と頷くものだから、真咲は慌てた。
「いや、今のはちょっとした意地悪で」
「ううん。そうだよね、鞘も壊れてしまうことがある。物事は絶対じゃない」
「ごめん、私嫌なこと言った」
「僕はね。……すごく遅いのだけど、最近になって気付いたんだ。もしかしたら僕は、近付き過ぎたんじゃないか、立ち入り過ぎたんじゃないかって」
有之介は謝る真咲を遮って、そしてゆったりと微笑んだ。
「じゃあ、鞘の代わりに強いものを送ろう。決して壊れない、芯の強いもの。……そうだな、その毛糸玉のような。刀を刺しても糸は切れず、糸玉が刃先を包むような」
「……よく分からないわ」
悲しくなって毛糸玉を放り首を振ると、ならばと優しく告げられる。
「ならば、海の砂浜。ほら、砂に棒を差しても、波が来れば跡も残らずまた平面に戻るだろう?ああいう風に、何があっても強く変わらず、常に希望を持っていられるもの。そして、近付いてはいけない、境界線を見失ってはいけない、怖がる気持ちを忘れてはいけないと、きちんと教えてくれる賢さと勇気を備えたものがいい」
言った言葉通りに、物事は成る。
「どうかそれが、その子を守りますように」
語った後、有之介は疲れ果てたように眠った。
馬鹿じゃないの、何がコトダマよ、と真咲は心の中で悪態を吐く。見たこともない、知らない他人のことを祈る気持ちには到底なれなかった。
木枯らしが窓を叩く。チャイムが鳴った。
約束通りの時間だった。
「……」
青白い寝顔を見つめながら、真咲は立ち上がった。そっと下腹に手を遣り、玄関へと向かいながら思う。
「これ」の音は、自分から取ろう。寂しくないように。
コトダマは言葉通りに物事が成るらしい。ならば文字にしても効力はあるのかなと思ってふいに笑ってしまった。
文字は……そうだ。有之介に教えてもらった。
さんずいは水。
水に洗われた、小さくばらばらになったすな。いわく、海の砂。
貴く強い、水の砂だ。




