32.言霊4(いつかの日)
言霊4
有之介の実家は田舎の名家で、父は地元の代議士だった。
息子の言動を理解できなかったのは父の責任でなく、有之介は父があまりにも可哀想だと思う。隔離病棟に入れることまで考えていたのだから。
父の後を継いだ次男と、見合いして早くに結婚した妹。特に妹の史子は、地盤固めのため父親自身が側近に嫁がせたのだ。それらを守るため、必死になるのは当然だった。
「お前は死ぬよ。もってあと十年だ」
四年間だけ、学問だけしたいと土下座をして家を出してもらったが、きっと父は気が気でないに違いない。何かまたおかしなことを言い出さないか、急に倒れたり狂ったような行動を起こしていないか。
体中を、真っ黒な痣が埋めていないか。
「……十年ももつかなあ」
疑問を素直に口にすると、巨大な足がかんしゃくを起こして跳ねた。
「言霊だって言ってるだろう、聞けよ俺の話!」
毎日毎日、見えざる者たちが入れ替わり立ち替わり訪れて、その相手をしていたら疲れてしまった。体中、真っ黒にうっ血した痣だらけだ。特に首はよく絞め付けられるため、喉の痣がもっともひどい。
鏡で見ると痣が重なり過ぎて手形ではなくなり、雨の降る直前の暗雲のような染みとなって喉全体に広がっていた。
あと十年も生き延びることができるだろうか?無理なのでは。
「お前、俺を馬鹿にしているだろう」
「……いっ」
重い大きな足に片足を踏まれる。ぎゅうっと地面にめり込んだかかとがきしんだ。
どいてくれと懇願するが聞き入れる相手ではないことは、有之介が一番よく知っている。
その時、頭上から甲高い声が上がった。
「うるさいわね、邪魔よっ」
あ、と思った瞬間に、女の体が背中に落ちて来た。
一緒になって倒れ、あまりの衝撃に一瞬気を失ってしまう。気付くと女は有之介の上から起き上がり、ぶつぶつと呟きながらまた柱へと向かっていた。
「ごほっ……」
喉に手を当てると、わずかな血が指先についた。
「……痛い」
……痛いなあ、疲れたなあ、と繰り返し心の内で唱える。
軽やかな足音と切羽詰まった声が聞こえて来たのは、目を閉じて痛みをやり過ごすいつもの習慣をなぞっていた時だった。
「ちょっと、転んだの?大丈夫!?」
ついで力強い腕で体ごと起こされる。
シャツの泥を払ってくれる手は、乱暴だった。
「あ、どうも」
「何のん気なこと言ってるのよ。あんた馬鹿?」
看板娘は呆れたような口振りで有之介を見上げた。
その後どうなったかが気になってたのは確かで、だからこそあまり近寄りたくないこの通りを歩いていたのだが、彼女から来てくれるとは思わなかった。
「……その後お店はどうですか」
「お前十年後に死ぬよ、聞いたほうがいいぞ俺の話」
「それを伝えたかったから探していたのよ。今見付けたのは偶然だけど」
顎を引く彼女の声がもっとよく聞きたい。有之介は巨大な足の男に「また今度にしよう」と早口で告げた。
「ふん」
男はもう一度有之介の足を踏み付けると、地響きを上げて去って行く。衝撃で脱げてしまった靴を目で追うと、こちらを見ている冷えた目に合った。
「……足の甲。真っ黒な痣ができてるけど」
「ああ、うん」
皮膚に当たらないよう慎重に靴を履く。
看板娘はふいに頭を振って、抑え気味の声で言った。
「まあいいや。あのね、あなたの言った通り、マスター引越したのよ。あの作務衣の男が急に来なくなって、気分転換とか言ってね。そうしたら足も嘘みたいに快調、引越し先で新しい店始めるって張り切ってる。私も今のとこ借りたままで、そこへ手伝いに行くの」
「それは良かった」
笑顔ではないが締まった口元が少しほころんでいる。これが彼女の最大限の喜び表現なのかと納得した。
「あ、ちょっとこっちへ」
そして彼女の肩を抱いて引き寄せると、その空いたところへ裸の女が落ちて来た。
「……なに」
「……」
きつい眼差しだ。その瞬間、有之介の口が開いた。
たぶん、それは、生涯一度だけの出来心だったのかもしれなかった。
「僕はね、驚くと思うけど。見えるんだ。死者が」
「……」
彼女は眉間にくっきりとしわを刻んでいる。恐らく、自分は痛みでどこかおかしくなっているのだろう。口を止めることができずに有之介は話し続けた。
「だからね、今も女が上から落ちてきて。君を勝手に抱き寄せたのは、やましい気持ちではないんだ。さっきも靴は僕が蹴り飛ばしたわけでなく、……」
が、途中でひどく馬鹿馬鹿しくなってしまった。
一体何をしたいのか。あまりに長年の疲れが溜まってしまって、神経が麻痺しているとしか思えない。
「……と、いうわけで。僕は見えるのでした」
長い長い語りの最後は投げやりに、おどけた口調で締めくくった。彼女の顔をにっこり笑って見返す。
と、彼女が目を眇めた。
そしてゆっくりと、唇を動かした。
「で?それが、なに?」
「……」
それが、なに。
「……ええと」
呆然。という単語しか浮かばない。
停止した有之介の襟元に、猫目の看板娘は突然手を伸ばす。
そしてまた乱暴に払った。
「燃えてる。火の粉?」
「あ、……この、電信柱の上から落ちてくる女、たぶん自殺した女が。えと、自分で気付いてなくて、何度も落ちるのを繰り返しているのだけど、その口から火の粉が、邪魔って、うるさいって…」
「あ、そう」
圧倒されて答えると、看板娘は頷くやいなやキッと電信柱の上をにらんだ。
「落ちるならこんな狭いとこでやらないで!お前が邪魔なんだよ、うるさい!!」
そして同じ勢いで振り返ると、呆けたままの有之介の手を引いた。
「病院は?行くの行かないの!?」
「あ、行きません……苦手で……」
「じゃあウチで手当てしてあげる。ぐずぐずしないで」
電信柱の上は沈黙している。
強い力で引かれながら、有之介はもごもごと尋ねた。
「君……信じたの?僕の言うこと」
「真咲よ」
真咲は束ねた黒髪を日差しに光らせ、大いに不機嫌な声で言った。
「あなたが言ってることが嘘か本当かって。私には見えないんだから、嘘だろうが本当だろうが、関係ないじゃない。見えてるのは、血を流して痣だらけのあなたなんだから」
頬に当たる風が、生まれて初めて優しいと思った。
気のせいだったのかもしれないが、確かにそう感じた。