177.空蝉34 ずっと夢中
功成が寝たり覚めたりな状態での語り話なので、
文章や文節が飛んだりおかしくなっているとこが一部あります。
毛布の中で丸まって思い浮かべるのは、やっぱり彼女の姿。
あの黒い布を巻く彼女の姿だ。
記憶の限り、彼女はいつも毅然と立っていた。
見上げる背中は筋が通っていて、揺れる黒髪までも真っ直ぐだった。
それでも、どこか見えない世界に怯えるように、二人並んでいる時だけは彼女はほんの少し僕の方に寄りかかる。子どもに負担をかけてはいけない、怯えるところを見せてはいけないと自分を戒めながら、わずかに僕の方に傾いて立つ。それが嬉しくて幸せで、僕もそっと彼女へ寄りかかって立っていた。畳みかけた傘のように、少しだけお互い寄りかかっていた。
僕は、本当は、一切何も怖くなかったのに。
怖がらなくてはいけない、近付きすぎてはいけないと彼女が言うからそうしただけで。
本当は、怖いことなんてひとつもなかった。
いつも手をつないでいた。
繋いだ先の彼女の手首に黒い布が巻かれていて、それがちらちら見えるのをいつも見ていた。
彼女の手首を見るたびに意味のわからない喜びが腹の底からせり上がって来たのを覚えている。
僕のために嫌だ嫌だと言いながら巻いてくれる。僕だけのために。
小さくて当時は言語化できなかったが、要は高揚感、優越感、そして狂った万能感だったのだろう。
僕は怖くないけど、彼女は怖がっていた。その怖い世界に彼女を強制的に引きずり込むその黒い布は、僕に淡く濁った独占欲を植え付ける。とても幸せだった。
だから最初、幼い頃は、自分のために彼女が存在してくれるとなぜか思い込んでいた。
それから、少し成長して、彼女の払う犠牲があまりにも大きいことに気づいた。さらにそれでもそばにいてくれる彼女に、強く痺れるような喜びを覚えた。
さらに成長すると、……いつ頃だっただろう。今度はこの幸福の光明をどうやったら逃がさないで手の中に囲んでいられるかを考え出した。
つまり、失くすことを考えたのだ。初めて。
もしかしたら光明は、いつか一筋の光芒を放ち消えてしまうのではないかとふと気づいたのだ。
たぶん、それが生まれて初めて知る恐怖だったと思う。
横たわって血を流す彼女を見下ろした時、本当の恐怖とはこういうものかと、あまりの怖さと衝撃に絶叫しかできない自身とは別のどこか遠くでそう思った。
どこか壊れてしまったのだろう。万能感しか知らなかった愚かで卑屈な子どもが、初めて身に刻まれた喪失は、それはそれは深いものだった。
……と、思う。
本当のところ、あのあたりのことはよく覚えていない。
つまり僕は感情のすべてを彼女、沙貴ちゃんに教えてもらったということだ。
万能感も、喜びも、幸福も、恐怖も、底のない暗い生も。
苦しくて愛しすぎて破壊衝動すら覚えてしまうほどの寂しさも。
いま彼女を抱き締めると、想像よりも細くて薄い腰や肩にびっくりする。ずっと眠ったままで筋肉がすべて落ちてしまったのもある。が、かつての毅然とした強い姿勢は、下から見上げる幼い自分が隣にいたからなのだと気づく。
彼女は強かったのではなく、幼い僕のために強くあろうとしてくれたのだ。
だから、彼女は、そう彼女は、
先見の明に狙われた。
盾になるよう、操られ
「……」
思考を遮る。
「……はあ……あつい……」
あまりにつらつら取り留めのないことを考えすぎて、息苦しくなってきた。知らず汗をかいている。
毛布を跳ね上げて冷たい空気を吸おうと考え、それなのに腕が動かない。
あれ、毛布が重い。
「……」
違うか。ようやく眠くなってきたのか。
睡眠に落ちる寸前だから、こんなにも頭も胸も重くて、息苦しくて、夢の中に
僕は誓ったのだ。
もう二度と、後悔はしないと。絶対に。
何度も、何度も何度も、夢の中で彼女の笑顔を見て、目覚めてあまりにも辛い現実に息苦しくなって、何度も繰り返し後悔ばかりしていたのだ。
ああ、バカなことをした。ああ、さっさと手に入れておけばよかったのにって。
もう後悔しないし間違いも犯さない。誰にも奪われないし、誰にもあげない。大丈夫、もう二度と同じことはしない。なんでもできる。
なんでも、と口の中で呟いたその時、全身がぶるりと震えた。
かちりと脳裏に反射する、消したはずの憎悪が思い出したように浮上する。
「……は、は、」
突然、思考の波が猛烈な勢いで盛り上がり、さらに苦しくなって胸を押さえる。
どんどん空気が薄くなるような感覚に陥って体を丸める。柔らかな温かい空洞にぎゅうぎゅうに詰められているかのような息苦しさ。
憎悪。
憎悪だ。誰に、一番向けてはいけない人物への憎悪だ。
苦しい。僕のためにやったとわかっているからなお苦しい。ははおやが、ぼくの
「はあ……はあ……」
眠っているのか、本当に、こんな苦しくて、眠れるのか、でも頭がごちゃごちゃで心臓がぐるぐる変な回転をしているようで、そんな
何者かに害されているのかとも思ったが、目の前は変わらずのただの闇。
闇が鮮やかに黒い。何も見えない。
奪わせない、今度は必ず守る、僕の唯一の星、今度は絶対に守る。思い通りにはさせない、思い通りになるものか許さない。邪魔するなら排除もする。
……成長する過程で何かがおかしいことに気付いた。誰かの思い通りにすべて事が運んでいるような気味悪さと、真逆の信頼、自分が守られているわかる圧倒的な安心感。しかしだんだん齟齬を覚えて、そして先見の明というものを知った。幼い自分にもわずかにあった先見の明、それが常に別方向から自分にまとわりついている。
これはなんだ。誰の先見だ。
鈴子さんや哲也さんとともに、母親が「先見の明」の力で「あのリスト」に記載されていたのを知った。その衝撃。
鞘子が言っていたことがある。だいぶ前、まだ沙貴ちゃんが眠っている病室で、鞘子と僕だけになった時だ。
『小さな小さな、寺務所の固定電話にまだ手が届かなかった小さな私の前に、なぜか踏み台があったの。前日はなかったの。だから私、昇って、手を伸ばして、唯一覚えてる番号にかけたの』
沙貴ちゃんに。
鞘子は声もなく泣いていた、お兄ちゃまごめんなさい。私なの。と。
私がかけたの。呼んだの、私が。お兄ちゃま、私なの。沙貴ちゃんを、あの日家に呼んだのは私。
……本当にそうだろうか?
『そのあと、お昼寝から覚めたら急に心細くなってね、ママを探したの。ママー、ママーって必死に探して。私らしくないでしょう。すごく情緒不安定だったの、あの頃。沙貴ちゃんを家に呼ぶために電話したのも、不安だったから。あの頃、お兄ちゃまは部屋から出て来なくて、パパは足を怪我してて、なんだかずっと不安だったから。母屋を出て砂利庭を通って本院のね、裏側にある小部屋に向かったとき、ママの独り言が聞こえたの。
「罪深い」って。
なぜか悲しそうな、それでいて意思の強そうな、不思議な声だった。
あの夜ね。あの夜。あの、冷たい雪の降った夜。
ママがね。言ったの、沙貴ちゃん、て。
コウちゃん、いまの騒ぎでも、出て来ていないわ。って。
罪深い、って呟いた声と同じ声だった』
雪の夜は暗かった。かじかんだ指先を一生懸命伸ばして掴み損ねた沙貴ちゃんの袖。渡り廊下を飛び降りて裸足のまま去って行く背中。必死にママのカーディガンの裾を揺する。瞬きするたびにみぞれ雪が目に入って、鼻に冷気が突き刺さる。ママ、ママ、追いかけよう、ママ!追いかけようママ!沙貴ちゃん行っちゃった、ひとりで行っちゃった!だめだよ、だめだよ行かせちゃだめえ!だめえ!!幼児の精一杯の力は大人を動かせるはずもなく、それでも縋りついて思い切り揺すった。ママあ!お願い、ママ聞いてえ!追いかけようママ!ママ、ママああああ!!
見上げた先にあった顔は、無表情だった。
彼女の去って行った先を見据えるその目には何も浮かんでいなかった。
微動だにせず口も開かない、優しいはずの母親の顔は、
無音の世界に佇む仏像のように見えた。
嘆き叫ぶ死者をただ見下ろす、地獄の鬼のようにも見えた。
鞘子の後悔→52話あたり(沙貴と栄美子と鞘子)
栄美子(コウ母)の罪深い話→96話(side裏の言霊4)




