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158.空蝉15 あなたに夢中



 祖母が剥奪したゆいなのヘビは、祖母と同じ『剥奪』だった。


 疲弊しきった祖母の末期の力はほんのわずか、ゆいなの胸に鱗を残した。

 剥奪のヘビはきらきらと光る鱗をゆいなの皮膚に埋め込んで、本体を剥がされて地の底へと引き戻されて行ったのだ。


「鱗だけだもの、特に不便なことも起こらず異常もなかった。普通に育ったのよ」

 祖母の残した言葉を忠実に守って生きた。目を閉じ耳を塞ぎ口を噤み、母とともに世間に溶け込んで日常を繰り返して大人になった。

 呪われた一族、お化け女などの誹りは、きっと祖母がヘビとともに地獄へと持って行ってくれたのだろう。あの土地から離れ別の場所で生きる母子のところまでは、蔑みも偏見も追いかけて来なかった。

「でもね、きっとあたし、心の奥底では警戒していたのね。普通に暮らしていても、どこかで何かに……呪いに足を掬われないか、悪意に背を突き刺されないか、ずっとどこかで気を張っていたのだと思うの。だからあたしが夫と知り合い結婚して、ようやく落ち着いて人生を歩めると母が祝福してくれても、実際は気を抜いていなかった。あたしは」

 夫は気弱で小心者で妻を守り抜く強さも力もなかったが、約束は必ず果たす誠実さはあった。


「鱗だけだもの。鱗だけなのに。……鱗だけだったのに」



 産んだ赤ん坊の体に、長い何かが巻き付いていた。



「あたしの胸にはヘビ本体はなく鱗だけだからか、それははっきりとは見えないの。灯りに反射して、角度によって時々きらりと光るの。きらりきらりと光るものが、よくよく目を凝らすと首や手足に絡んでいる。白く、悍ましい何かがあたしの赤ん坊に巻き付いていた」



 ああ、剥奪のヘビの力とはこういうものか。


 くるり、と自分の人生が一転したのを感じた。

 くるりくるり。

 平穏で優しい生活、とろとろと穏やかな水面のような半生が遠のく。



 しかし赤ん坊の体に手を伸ばすのに、一切のためらいはなかった。



「……ヘビはあたしの体に巻き付いて、無理やり押さえつけたらそりゃもう暴れるわ噛みつくわ。腹が立ったからぎゅうぎゅうと脇と膝に挟んで潰してやったわ。小癪なことに潰れず逆に黒い痣を体中につけられたけど、怒りに任せてその勢いのまま家を出たの」

 自分に何かあったら子どもは頼むと夫には伝えてあった。小心者だけど、約束は必ず果たす人だった。警戒していた自分が結婚するくらいには、信じていた。

 そして残した赤ん坊にも手紙を書いた。

 呪いの一族のこと、あなたにはもう呪いは残っていないこと。だから大丈夫、目を閉じ耳を塞ぎ口を噤むように、と。


 そして、何か困ったことが起きたら、必ず助けてあげるからね、と。




「じ、自分から家を出たんだね」

 長く静かに聞いていた哲也が確認のように声を上げた。

 ゆいなは頷いて、「あたしはお祖母ちゃんのように、家を出されたんじゃないの。自分で出たのよ」と答える。

「そ、それは、あなたがいると、む、娘さんが」

「そうよ。黒い痣に苦しむ母親が近くにいたら、また噂が立つじゃない。せっかく逃げてきたのに」

 人の噂や蔑みは、どこからか音もなく近づいて来る。だから離れた。

「夫は約束を守ってくれた。でも、突然いなくなった嫁のことを、何も知らない夫の実家……義実家は許さなかった。ま、それは仕方ないよね。孫であるあたしの娘にあたしの悪口を吹き込んで、娘はそれを嫌って義実家とは仲が悪いんだって!あはは」

 無邪気に手を叩いて笑うゆいなに、哲也は眉を下げて苦笑した。

「ゆ、ゆいなが赤ん坊から……娘さんから奪ったヘビは、」


「もちろん、先見のヘビよ」


 身を寄せた先では大いに役立った。

 その点だけは褒めてやってもいい。

「その力、使いまくってこっちが食い尽くしてくれるわくそヘビめってずっと思ってた」


 喉から腹から足首まで、ぐるりと締め付けるヘビのせいで、次々と痣が浮かび体力が衰える。聴力も視力も老化に見合わない速さで弱まって行く。

 それでも、逃げ込んできた女性に「助けて」と言われれば「任せて!」と先陣切って出る。支えて支えられて楽しく過ごした。おしゃべり好きな性格と世話焼きで気の強い性質が愛された、と思う。


 でも一通の手紙が届いた。だから、その生活は終わりを告げた。


「退所して、入院の手配も自分でしたの。何も言わなかったけど、一緒に暮らしていたみんなは何となく感じてはいたと思う、わたしの異能のことを。病院には来ないでと伝えると頷いてくれた。施設を出て行く時には、みんなが泣いてくれたの」



 入院先の個室に入ったその日に娘は来た。


「がらんとして荷物もない、見舞客もいない病室を見て、娘はショックを受けた様子だった。そして痣だらけでやせ細り目も耳も弱って衰えたあたしを見て、わんわん泣き出したの」


 わんわん泣いてベッドにすがりついた娘は、鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして大声で唸った。

 鬼かしら、わたしは鬼かしら、ねえお母さん。


 笑ってしまった。自分が見る娘の顔は、泣いているばかり。それしか知らない。赤ん坊の時と今、同じ顔で泣いている。なんて愛しい、愛する娘。大きくなったね、誇らしい。だから笑いながら言ってやる。


 何を言ってるのよ、娘。愛しい娘。鬼になるのは当たり前、鬼にならずに何になる。


 娘はまた泣いた。そして涙に声を引きつらせて、それでも必死に絞り出した。


 娘が、娘がいるの。わたしに娘がいるのです。孫です、あなたの孫。


 娘の背後には若い女の子。

 初めて見る母の様子に困惑し、さらに初めて会う自分の祖母に戸惑っていた。


 ……え。

 ゆいな、唯奈って言うの!?

 え、そうなの、あたしの名前をつけたの!?ほんとに!?

 ええええ、嬉しい!うそ、嬉しい!やだー!!


 胸に光が溢れ、ぱちんと弾ける。きらきらと欠片が降り注ぎ、瞬きの間に喜びだけが占拠して笑みがこぼれる。


 なんて……なんて可愛いの!


 夜が来るのが怖いと言うのです、この子が。夜眠るのが恐ろしくて、闇に怯えてやつれてしまっているのです。

 我が娘がしゃくり上げながら訴えてくる。


 その声に、感じたことのない怒りがこみ上げ、懐かしい衝動が湧き上がる。


 憤怒だ。

 これは激憤だ。

 そして自分の赤ん坊を前に心に芽生えた、かつての衝動だ。


 眠れない?眠れないの?なんてこと、目の下が黒くなってる、若くてぷりぷりのふっくらした頬が少しへこんでやつれて!目の白いとこが真っ赤だ、何があったの、え?突然そうなったの。そうなの、突然。そうかそうか、突然だったの。うんうん。なるほど。こんな可愛い可愛い可愛いあなたのお顔を曇らせるのは、一体どんなクズだ!許さんぞ!絶対許さんぞ!


 唯奈はあたしから目を離さず、それでもぶるっと震えて一歩下がった。


 可愛いの。ただ可愛いの。そうか。娘の見たことのない成長姿を、再現してくれているのがこの子なのね。ああ可愛い。


 こんなの、ただの、愛だけが詰まったいれものじゃない。



 こんな可愛い子を、苦しませているのは……お前か、お前かあああ!

 地獄の底の底まで引きずり込んで、永劫の苦しみとともに頭からつま先までいっぺんに引き裂いてやる。血の釜でも針降る業火でも許さんぞ。


 あたしは絶対、許さんぞ!







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