14.白い月4
薄暮は下り坂を暖かな色に染めている。
「待ってて。すぐ戻るわ」
赤ん坊のおしゃぶりを持って来てしまった栄美子は、これが無いとさすがに泣くからと戻って行った。
「……」
静寂が首を撫でる。
沙貴が黙ったまま右手を差し出すと、やはり黙ったままの功成がそっと握って来た。
そのままコートのポケットに入れてやる。
空いた手をぶらぶらと振りながら何となく歩き出すと、彼も付いて来た。
「可愛い妹ができて良かったね」
「うん。いいでしょう」
「別に」
子供の手って、もっと温かいはずじゃなかったっけ。
細い指の感触を確かめながら、沙貴は思う。
頭上で枝が擦れる音がする。
眼下の町からタイヤの響きが伝わって来て、坂を下り始めたふたりの影が伸びた。
「……また会いましたの」
沈黙を破ったのは、ふたりのうちどちらでもなかった。
いつのまにか、坂の分岐点まで来ている。目印の杉の木が揺れ、根元に老婆が腰を下ろしていた。
「あ」
口を開けた沙貴に向かって、老婆は上品に微笑む。
その首には綺麗なマフラーが巻かれていて、何もかもが以前会った時のままだった。
「先日のお礼に、茶でもどうですかの。この左手側をちょっと行ったところで」
優しく手招きされる。
「あの。……また休憩されてるんですか」
「あれからずっとあんたらを待ってた」
え、と耳を傾けた沙貴を見、老婆はゆっくりと立ち上がる。
マフラーの衣擦れが心地よい音を立てた。
「ずっと待っていたよ」
「……え」
立ち上がっても身長の変わらない老婆の言葉を聞いた途端、沙貴の中で何かが閃いた。
老婆はごく自然な動作でマフラーを外し、空いている手に押しつけてくる。
不自然な重みが腕にかかった瞬間、やっと頭が動いた。
そうだ。
私は何て馬鹿で浅はかだ。
そうだ。以前も、今も、私は、
「コウに触れてるじゃない……」
悪寒が全身を駆け巡る。
そっと老婆を見返すと、彼女はにたりと笑った。
その顔の大きさは変わらないのに、目も、鼻も口も、びっしりと毛が生え倍以上に膨らんでいて――
「……いやぁっ」
思わず叫んで飛びすさる。その拍子にマフラーが手から離れ、鈍い音と共に下に落ちた。
「へ、ヘビ…」
マフラーじゃない。
……いや、ヘビでもなかった。
ヘビによく似たそれは、その模様は……いや、模様じゃない。これは、この形は……
「…うっ」
吐き気がした。恐怖のあまり目が離せない沙貴の目の前で、老婆がやれやれと腰を曲げた。
「滅多にない代物じゃろ。上にも地の底にも行けないモノの末路でな」
凝視する沙貴と目を合わせたまま、老婆は丁寧にそれを拾った。
「語りたいことも、信念もない。ただの悪意の固まりになって人々に……まあ、これのことはいい。ところで」
老婆は首を振った。
「あんたは左に来たくないようじゃの」
そのまま沙貴の傍らに視線を移す。功成をひたと見つめ、
「あんたは来るじゃろ。あんたはこっちの人間だ」
それは、スローモーションのように見えた。
綺麗な細い瞳と白い頬は何も映しておらず、柔らかな幼い足が老婆の方へ一歩踏み出す。
老婆の膨らんだ口が横に広がり、小さな靴が地面へと着地し……
その、瞬間。
「コウッ!行っちゃだめっ!」
金切り声は、空気を裂いて霧散した。
必死に背を向け、禍禍しいものから小さな体を隠す。
渾身の力で抱き締めた頭は、はかな過ぎて首ごと折れそうだった。
「だめよ、コウ。行っちゃだめ」
「でも、僕」
「だめ」
胸に押しつけた唇から、小鳥の囀りのような細い声が漏れた。
「ふっ……く」
北風が背中に突き刺さる。まぶたに灼熱の焼き鏝を当てられたようで、沙貴の鼻筋に生温かい涙が伝った。
「コウ」
さみしいさみしい。ずっとひとりは、さみしい。
沙貴の脳内で、あのこげ茶色の塊の声が蘇る。
あの幼子ですら、「みんな」のところへ行けたのに。
この子はひとりだ。
流れ落ちる涙が子供の髪を濡らして、滴となり消えて行く。沙貴の唇から、獣のようなうめき声が漏れた。
すべてを受け入れてくれる母親。
無償の愛で包んでくれる家族。
愛すべき新しい命。
この子の周囲のものはしかし誰ひとりとして、この子の欠片も理解することができない。
この子供と同じものを、一緒に見ることができない。同じ方向を向いていても、目に映るものは違う。絶対に交差しないのだ。
やっぱり違う。
僕とは違う。
そう、彼自身が言っている通り。
「それでも、……行ってはだめよ。コウ」
長い坂道の途中で、ずっとひとり。だとしても。
「……なぜおまえがそう決める」
「行かない」
「おまえがそう思ってもこいつはどう考えてるか」
「行かないわ」
すでに老婆のものではなくなった深い声に、きっぱりと告げる。欠けるほど奥歯を噛んだら、最後の涙が目尻を流れた。
敢然と頭を上げる。
そして首だけ回し、人間の形をした別のものの双眸を見据える。
恐怖を上回る言いようの無い何か強いものが、沙貴の腹に力を込めた。
「私がいるから」
「……こっちに来れば楽だろうに」
地を這うような深い声とつむじ風が舞い、枯葉の冷たさに瞬きした直前、沙貴はそれが森の左奥に走り去るのを見た。
長い毛と四方に膨らんだ房をたなびかせた、動物の尻尾のようだった。
つないだままの手をコートに入れ、立ち上がったら膝がかじかんでいた。
ひりつく目尻を擦ったら、枝の重なりの間から気の早い月が見えた。
「コウ。月」
冬の月は白くて、まるで雪のようだ。
細い髪に絡まった枯葉を払ってやると、子供は同じようにして上空を見上げた。
相見し、か。…これが運命か。
小さく笑うと、コートの中の手が微かに震えた。
沙貴は深呼吸をする。
私は橋だ。
あの黒い布があちらと私を結びつけるものならば、私は、この子と右手側の道を結ぶ橋だ。
「コウ。あんたはきっと、来年もその次も、この月を私と一緒に見るよ」
厳かに言い放つ。
理解できない「みんな」のことを、理解できないのだとこの子が理解するまで。
さみしい道の上に立ち、さみしさを踏みしめひとりで月を見上げることができるように、その強い力を手に入れるまで。
それはきっと、もう少し時間がかかるはずだ。成長という名の時間。あともう少し、だけれども。
その時まで私は、叩いても決して折れない、強靭な橋になる。
子供が小さくくしゃみをした。
「……沙貴ちゃん」
「なに」
「大きくなったら、結婚してね」
「何度も言うけどそれはイヤ」
太陽が沈む直前の、柔らかい発光色が満ちる。夕闇を引き連れて軽やかな足音が聞こえた。
母親の手にはきっと、子供の手袋が握られている。




