13.白い月3
それは、瞬く間の出来事だった。
丸太のような首から、巨大な背中から、皮膚がぼろぼろと崩れ落ちて床に広がる。
頬は削がれ、耳の穴は大きく広がり、それの姿は剥がれ落ちた分だけみるみる縮んで行った。
最後に残ったのは、こげ茶色の小さな、そう、功成よりもまだ小さな、か弱く震えるただの塊だった。
「それは万葉集に掲載されてる歌なの。ちゃんと大学の図書室で調べたのよ。こんな小さなあんたが知ってるはずがない。……あんた、誰に聞いたの」
カン、と鳴る様に冷えた空気が、目に痛かった。
沈黙の降り注ぐ室内で、そら豆ほどの小さな口が微かに動く。ああ、雪が降りそうだなと沙貴は思った。
「お、……かあ、さん……」
雪が降ればいい。真っ白な雪が。
窓辺のカーテンに向かったまま、沙貴は目を閉じた。
「……あんたは、ひとりじゃなかった。決して。寂しい、ひとりだ、は、あんたの思いじゃないのよ。たぶん、子供を亡くした母親の思い。……死んでも離れることができずに、あんたはお母さんのそばで、ずっとそれを聞いてたのね。お母さんの嘆きを、自分の記憶だと誤ってしまうくらい、ずっと」
ずっとひとり。寂しい。さみしいさみしい。
さみしい。
「お母さんの思いを、ずっと自分の思いだと勘違いしていたんだね」
去年見てし、秋の月夜は照らせども。相見し妹は、いや年さかる。
「柿本人麻呂の、妻の死を嘆く有名な歌よ。あんたはそれを覚えてしまった。そしてさみしい、と呟く言葉も。きっとお母さん、あんたを亡くして、悲しくて悲しくて、歌ばかり口ずさんで繰り返していたのね。あんたがいなくて、ずっとひとりで寂しいという言葉を、繰り返し唱えていたのね。さみしい、ひとりだと、幼いあんたがすっかりおぼえてしまうほど。……去年見た月が、また今夜も同じように光っている。でも」
一緒に月を見たはずの愛しいあなたは、とても遠いところに行ってしまった。
「……あ、……ああ」
まるで赤ん坊の泣き声のような、喉が熱くなる声だ。
深くて恐ろしくて、そして悲しい鳴き声だ。
沙貴は目を開け、塊に言った。
「大丈夫。いや、よくわかんないから適当に言うけど、きっと大丈夫よ。あんたはひとりじゃなかったし、『次』もたぶん、ひとりになんてならない。こんな幼い子供が、ひとりのまま終わるわけない。次はきっと、たくさんの人に囲まれて、寂しいなんて思わない時を過ごすよ」
「……ああ……あー……」
「寂しい、ひとりだ、なんて言葉を覚える前にね。もっと違う言葉を覚えるような、そんな長い時を過ごすよ。前とは違い、今度は長いはずよ絶対。色んな言葉を覚えて、あんたはそれを言うのよ。嬉しい、とか、楽しいとか。おいしいとか綺麗とか」
月が綺麗だね、とか。
雪は楽しいね、とか。
次はきっと、長い時間とたくさんの愛が包んでくれる。
塊は一度だけ大きく震えた。細くはかなげな腕が伸び、テーブルの上の皿を指した。
そして一瞬にして消える。
「……おいしい」
深い声が残る合間に、産毛の生えた光る頬が見えた。ような気がした。
「ずっとひとりは、さみしいのかな」
功成がぽつりと呟く。
「……そうね」
それしか言えなかった。
その夜はやはり雪が降った。そして栄美子は無事出産を終えた。
退院し、落ち着いた頃を見計らって訪ねると、本堂裏の平屋にはミルクの匂いが充満していた。
「沙貴ちゃんにも迷惑かけて。ありがとねえ」
くつろいだ格好でソファにもたれた栄美子は、変わらない丸顔で沙貴を安心させた。下腹部の手術痕を見せ、「初めて輸血なんてしたわ」とおっとり笑う。
「赤ちゃんの名前は鞘子、サヤコと言うの。功成ともどもこれからもよろしくね」
遠慮します、とは言えず曖昧に笑う。お宅のお子さんはちょっと、と聞こえないくらい言葉を濁し、天井から釣り下がった回転式おもちゃを見る。
栄美子は声を立てて笑い、そして内緒話をするように頭を寄せて来た。
「大人しい赤ちゃんなのよ。女の子ってみんなこうなのかしら。お兄ちゃん……功成の時みたいにね、突然火が着いたように泣き出したり、天井の隅を見つめて眠らなかったり、そんなことが全然無いの。手がかからなくて楽なのよ」
「……へえ」
無意識に功成を目で追った。
その時、彼は伸び上がってベビーベッドを覗いていた。
その横顔は眠る赤ん坊を見つめている。
狭い額にしわが寄り、白い頬が歪んだ。
顔をしかめたのは、一瞬だった。
「やっぱりちがう。僕と同じじゃない」
「……っ」
なぜか沙貴の胸は詰まった。
ふと顔を上げた功成と視線が交じる。彼は、へらりと笑った。
「赤ちゃん、目が大きいねえ」
「……おかしな話なんだけどね」
息子の独り言が聞こえなかったようで、栄美子は笑いながら話しかけてきた。
「深夜に産まれてね、ベッドで赤ちゃんを抱いてたら、早朝になって検診にきた看護師さんが眉をひそめるのよ。どうしたんですかって聞いたら、変ね、って。何か、ビーフシチューの匂いがするわ、って言うの」
産まれたての赤ん坊がビーフシチューの匂いをさせているなんて。
「おかしいでしょ」
と歌うように語る従姉妹に、沙貴は胸が詰まったまま、「そうだね」と答えた。




