19 群像 光城陽奈
○
――雨?
夢中で駆ける陽奈の頬を水滴が打つ。
見上げた空はいつの間にか黒く澱んでいて、まるでわたしの心象みたいだと陽奈は思う。
――北西高校なら、全力で走れば一五分くらいで着くはずだ。
わたしのせいで学園祭の準備がめちゃくちゃにされてしまった。
それどころか天乃さんも連れて行かれてしまった。
責任を感じる陽奈の走りは重い。
――だけどやらなきゃだ。
この四か月でずいぶん強くなった。
陽奈には一種の勝算がある。
けれど不良の本拠に一人で乗り込む事実は、さすがに気持ちを暗くする。
――暴力なんて本当は嫌いなのに――。
四人きょうだいの末妹として生まれた光城陽奈は、きょうだい唯一の女の子だった。
陽奈は、兄たちの喧嘩に巻き込まれないために、またはショートケーキの苺の強奪といった理不尽を退けるために、幼いころから自衛力を養う必要があった。
「おかあさん、またおにいちゃんにいちごとられた」
「陽奈、取られたものは取り返していいのよ」
「だっておにいちゃんつよいもん……」
「陽奈、女だからって負けちゃ駄目」
陽奈の訴えを母の陽子は取り合わない。それどころか、女であることを理由に自分が弱いと決めつけたことを叱咤したほどだった。
「これからの女は強くなきゃ駄目なんだから」
母自身が男まさりな人だったし、女性ながら警察組織で揉まれてきた経験から、そう言うのかもしれなかった。
(やだなあ……)
陽奈はできれば平和を望んだ。
けれど平和を守るためには、兄に対して鉄拳を繰り出さなければならなかった。
そんな荒んだ日々を送っていた陽奈にも、唯一平和が約束される場所があった。
「こら。陽奈ちゃんは女の子なんだから優しくしてあげなさい」
「陽奈ちゃんは女の子だもんねぇ」
「陽奈ちゃんは優しいもんねぇ」
陽奈は一日のほとんどを祖母の部屋で過ごした。お手玉、お茶の淹れ方、洗濯物のたたみ方といったものを、陽奈は祖母の膝の上で学んだ。おおよそ女性らしいことは全て、祖母から教わったと言って良かった。
「ばあちゃんだいすき!」
「ばあちゃんも陽奈ちゃんが大好きだよ」
祖母はいつも優しく。陽奈の心の拠り所だった。
けれど陽奈が中学に入ったころ、その祖母に変化が表れた。
「あら陽奈ちゃん、おかえりなさい」
「やだなあ、ばあちゃん。さっきもただいまって言ったじゃん」
「あら、そうだっけ」
祖母の勘違いだと初めは思っていた。そうだったら良かった。けれどもそうじゃなかった。祖母は同じ話を繰り返すことが増えていった。真っ暗な台所でとんでもない時間にご飯を食べている祖母を見たとき、陽奈はさすがにショックを受けた。
陽奈が祖母と共有する楽しい記憶も、祖母からはどんどん失われていった。
「このぬいぐるみ、ばあちゃんが縫ってくれたの憶えてる?」
「……憶えてるよぅ」
そう言った祖母は困り顔でなにかを思い出そうとしていた。
だから陽奈はもう昔の話をしないことにした。
「……ばあちゃん大好きだよ」
「ばあちゃんも陽奈がだいすきだよ」
やがて祖母は一人で外出することもままならなくなった。歩けないわけじゃない。帰って来れなくなった。勝手に家を出たまま戻ってこずに、夜中の国道を徘徊しているところを警察に発見されたこともあった。
祖母が発見されたとき、陽奈は祖母に抱きついて泣いた。
「あらあら、陽子は子供みたいに」と母の名を呼んで陽奈を撫でる祖母は、悲しいくらいに不安定な目をしていた。
高校に進学した陽奈は、一人暮らしを選んだ。
祖母のことは心配だったけれど、波に削られる砂浜のように、少しづづ失われていく祖母を側で見ている方が辛かった。
そんな陽奈に不思議な出来事が起こったのは、引っ越して間もない四月二三日の誕生日だった。
クローゼットから、のそりと王様が現れ、陽奈は悲鳴をあげた。
「おお陽奈よ。お前に『勇者』の能力をさずけよう」
びっくりしたけれど、王様は悪い人には見えなかった。
陽奈は人を見る目に少し自信がある。
「『勇者』は努力型の能力だから、常に精進するのだぞ」
王様が言うには、『勇者』は最初は弱いけど、悪と戦い、経験を積むうちに強くなる能力らしかった。陽奈は兄たちのゲームでよく遊んでいたから、勇者がレベルを上げると強くなるものだとは知っている。
「でもそれって能力なのかなぁ……」
――努力すれば誰だって強くなるんじゃないなぁ。
「おお陽奈、おろかものよ。人の努力は必ず報われるとは限らないのだぞ」
そうかもしれない、と陽奈は思う。
世の中には努力しても結果が伴わない人がたくさんいる。
経験値さえためれば、確実に強くなる勇者は恵まれているのかもしれない。
「それにレベルが上がれば、勇者しか使えない魔法も使えるのだぞ」
そもそも陽奈は勇者じゃなくても使える魔法を見たことがないから、いまいちピンと来ない。王様は「ちょっとした補助魔法も使えるようになるのだぞ」とも付け足した。
――悪と戦わなくちゃなんだよね……。
王様は「餞別だ」と、どうのつるぎをくれたけれど、それを現代日本で振り回せばどちらが悪だかわからなくなってしまうから、傘と一緒にクローゼットに立てかけておくしかなかった。魔法も使ったら能力者だとばれやすいから使いづらかった。
結局素手で戦うしかないのかな――と考えて、これじゃ勇者じゃなくて武闘家だよ、と陽奈はため息をつく。
――悪を倒せって言われてもなぁ。
陽奈は首を捻った。
――そもそも悪ってなんだろう。
やっぱり、力ずくで他人の平和を脅かすのは悪いことだろう。
陽奈はまず、レベル上げを兼ねて、無抵抗の芋虫を集団で襲う蟻を退けたり、蜘蛛の巣にかかった蝶を助けたりした。
――でもこれって悪なのかなぁ。
蟻にしても蜘蛛にしても、食べるために、生きていくためにやっていることで、それを悪と言われたら彼らも心外かもしれない。
見た目で悪と決めつけるんじゃないよ。
それに君たち人間が鶏や豚にしていることは棚上げかい。
そう言われたら反論ができない気がする一方で、陽奈のレベルは順調に上がっていった。
次のターゲットは小学生にした。空き地や公園で虐められている小学生を探しては守ってやるのだ。小学生なら万が一喧嘩になっても勝つ自信がある。勇者は確実に倒せる相手を倒して強くなっていくものだ。
折良く空き地で土下座させられている小学生を見つけて、陽奈はこれだと思った。
「きみたちいじめは駄目だぞ」
いじめっ子の一人が、事もあろうか陽奈に反論した。
「お姉ちゃん、悪いのはこいつなんだ」周りのいじめっ子衆が揃って頷く。「こいつは土下座をさせられているんじゃなくて、自分から土下座をしているんだ」
――なんてことだ。
この子たちは開き直るつもりだ。
陽奈は悲しい気持ちにさえなったけれど、よくよく話を聞けば事情があるらしかった。
「こいつはみんなを散々虐めてきたんだ」
眼鏡の少年は言った。
僕たちはこいつにずっと虐げられてきた。こいつは暴力を振るい、物資を奪い、僕たちの尊厳を踏みにじっては、先生や親には言うなと念を押してきた。実際言ったりしたら次の日にはもっと酷い仕打ちが待っていた。
「だから僕たちは反乱を起こした」
社会科でマハトマガンジーを習ったんだ。非暴力の抵抗だぜ。いけてるよね。だから暴力には屈せず、全員で無視を貫くことにしたんだ。暴力も無視には勝てないもんな。そしたらこいつとうとう泣き出してさ。次にどうしたと思う。「みんなが僕を無視して虐めるんです」って、先生に告げ口したんだ――。
「それでもお姉ちゃんは僕たちが悪いって言うのかい?」
あの先生と同じように。
陽奈は困惑しながら、土下座している元いじめっ子の少年を見た。その少年は小学生にしては大柄で、オレンジ色のシャツを着ていて、外見だけならば確かにいじめっ子側の人間に見えた。土下座の少年は、お姉さん頼むから放っておいてくれ、という目で陽奈を見ていた。
「暴力はだめよ」と言い残して、陽奈はその場を後にする。
「百も承知さ」
少年は答える。
「許すということは強さの証だからね」
「悪を判断するには、ちゃんと事情を知っておかなきゃダメだなぁ」
外見外観が悪っぽいからという思い込みだけで、わたしは今まで善悪を判断してきたんじゃないだろうか。悪の側の言い分をちゃんと聞いてあげてきただろうか。
陽奈は反省をする。
――これからは問答無用な悪だけを倒すことにしよう。
明らかな悪。絶対的な悪。
じゃあ確実に悪って言えるものはなんだろう。
陽奈が考えたそれは「理不尽な略奪」だった。あれだけは許しちゃだめだ。奪う方にどんな事情があれ、何の非もない人間がショートケーキのいちごを略奪されるようなことがあってはいけないんだ――。
陽奈は学校の屋上にはびこっていた理不尽な略奪――上級生のカツアゲ――と戦い、また同様に河川敷でカツアゲをしていた他校の不良を懲らしめていった。
戦闘は避けられなかったけれど、幼少からの兄たちとの争いで喧嘩の基本はできていたし、なにより勇者としてのレベルが相応に上がっていたので、陽奈は不良たちと渡り合うことができた。
けれど戦いに明け暮れる陽奈の心は荒む。
元々平和でありたい陽奈は戦闘などしたくない。
でも平和のためには戦わなければならない。
そんなジレンマに陥り、陽奈は疲労する。
――ゲームの中の勇者もこんな気持ちだったのかなぁ。
勇者は毎日毎日自分の剣で息絶えていくモンスターを前にして、戦う意味を考えたりはしなかったのだろうか。いや、勇者もプログラムで強制されていただけで。本当は戦いたくなかったのかもしれない。ゲームのスイッチが入るたびに、「ああまたか……」と思って、ため息をついていたのかもしれない。
「ごめんね勇者」と、昔、レベルを九九まで上げてしまった勇者を思い、陽奈は肩をすぼめた。
だがそんな陽奈にも、六月の陽ざしは優しかった。
洗濯物を干し終えた土曜の陽奈を、携帯の着信が呼んだ。
「陽奈! おばあちゃんそっちに行ってない?」
母からの電話だった。
その声には焦りがあった。
「もしかして、またいなくなったの?」
「おばあちゃん今朝急に『陽奈がいない』って騒ぎ出してさ。陽奈は学校の寮にいるから大丈夫よ、ってその場は落ち着いたんだけど、さっきからおばあちゃんの姿が見当たらないのよ。ほら、陽奈の引っ越しのとき、おばあちゃんも一緒にアパートを見に行ってるでしょう。だからもしかして、と思って」
陽奈のアパートから実家までは、電車で三駅の距離がある。徒歩なら一時間近くかかる距離。そんな距離をばあちゃんが歩いてくるとは思えない。
けれど陽奈はじっとしていることなどできるわけもなく、アパートを飛び出す。徒労かもしれないと思いつつも、川沿いの土手を走る。土手を走る陽奈の耳に、ブァーとクラクションの音が飛び込む。
――ばあちゃん!
遠くからでもそのシルエットが祖母だとわかった。車道の真ん中なんて歩いているから、それが祖母だと陽奈は悲しく確信した。祖母にトラックが近づいている。バスも近づいている。危ない。けれど遠い。己の走力の限界がもどかしい。
そんな陽奈をあっさり風が抜き去っていった。
風の少年は祖母をあっという間に歩道へ助け出すと、誇りもせず、逃げるように去って行く。
陽奈の目には少年があり得ない速さのように映ったけれど、それはまるで映画の中の出来事――少年がヒーローのようだったから、そう見えただけに違いない。
――あんなに早く走れるんだ。
地味な男子だとしか思っていなかった。アパートの同居人であるその男子の評価が、陽奈の中で一変した。学校でも寮の食堂でも、ついその男子を目で追ってしまう。日常生活にあのときの格好良さは微塵もなかった。でも多分普段は隠しているんだ。奇跡のような救出劇をしたにもかかわらず、偉そうにするどころか謙虚に逃げるような人だから、きっと目立つのが嫌いなんだ。
だから、わたしだけがそのカッコ良さを知っていればいいんだ――
そんな陽奈にも九月がやってきた。
九月一日現在のあなたの善行点は 一二四 ポイントです。
目標の一〇〇ポイント達成おめでとうございます。
来期もこの調子で頑張ってください。
夏休みの宿題をお盆前には終わらせるタイプの陽奈は、ちゃんと計画的に不良を倒していたからノルマには悩まなかった。だがノルマには悩まないけれど、悩みがないわけではなかった。
「創汰、おはよう!」
「あ、おはよー」
創汰の時間に合わせて一緒に朝食をとるようにしてから、仲良くなることには成功した。暴力少女と噂され、クラスメイトにもどこか距離を置かれることがある陽奈だけれど、創汰はそんな素振りがないから嬉しかった。やっぱり思ったとおりの優しい人だ。陽奈は自分の人を見る目の確かさを噛みしめる。
けれど陽奈も、地上で一番繊細な生き物だと言われる一〇代女子のはしくれだから、その親しさを能天気に受け入れられるほど単純ではなかった。
――わたしとは気軽に話す創汰が、天乃さん相手だと緊張しているのはなぜだろう。
その意味をすぐ理解できてしまう自分の鋭さに、陽奈は苦しむ。
――わたしは創汰に女の子だと思われていない。
そして、創汰が天乃さんに向けるあの目はきっと――




