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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第三章 恋人になった学年一位と、隠された天才

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第60話 合鍵で始まる朝


 日曜日の朝。


 悠真が目を覚ましたのは、枕元に置いたスマートフォンのアラームが鳴る少し前だった。


 カーテンの隙間から入り込んだ朝日が、床へ細長い光を落としている。


 時刻は八時十分。


 勉強会の集合は十時。美咲とは九時二十分に部屋を出る約束をしていたため、まだ十分に余裕がある。


 悠真はベッドから起き上がり、寝癖のついた髪を軽くかき上げた。


 眠気は残っているが、二度寝するつもりはない。


 今日の勉強会には孝太郎と菜月も参加する。


 美咲以外の前で問題を解く以上、いつものように実力を隠す必要があった。


 しかし、隠そうとしすぎれば、かえって不自然になる。


 昨日、美咲と話し合ったことを思い出す。


 分かる問題は解いてもいい。


 友人から質問されたら、答えではなく考え方を教える。


 そして、点数を調整するときのように、最後だけ意図的に間違えない。


「普通に、か」


 悠真は小さく呟いた。


 それが一番難しい。


 顔を洗い、部屋着のまま台所へ向かう。


 朝食は、昨日のうちに美咲が準備してくれていた。


 冷蔵庫にはラップを掛けたサラダと茹で卵。棚には食パンがあり、その横へ付箋が貼られている。


『トースターは三分。長くしないこと』


 丸みのある美咲の字だった。


「さすがに覚えてるよ」


 誰もいない台所で呟きながら、食パンをトースターへ入れる。


 以前、一度だけ時間を適当に設定し、表面が真っ黒になるまで焼いたことがある。それ以降、美咲は新しい食パンを買うたび、適切な時間を書いた付箋を貼るようになった。


 悠真としては、失敗したのはその一度だけだと言いたい。


 だが、料理に関して積み重ねてきた失敗が多すぎるため、強く反論することもできなかった。


 つまみをきっちり三分に合わせたところで、スマートフォンが震えた。


『起きてる?』


 美咲からのメッセージだった。


『起きてる。朝ごはんも作ってる』


 すぐに既読がつく。


『何を作ってるの?』


『パンを焼いてる』


『それは料理に入るのかな』


『俺には十分料理だよ』


 返事を送ると、少し間を置いて次のメッセージが届いた。


『焦がさないでね』


 悠真はトースターへ視線を向ける。


 付箋どおりの時間に設定したのだから、おそらく問題はない。


『心配なら見に来る?』


 半分は冗談のつもりだった。


 だが、送信してから一分も経たないうちに、玄関の鍵が開く音がした。


「おはよう、悠真くん」


 廊下の向こうから、美咲の声が届く。


 合鍵を渡してから、彼女が一人で部屋へ入ってくるのは、まだ数えるほどしかない。


 以前なら、自分以外の誰かが鍵を使って部屋へ入ることに落ち着かなさを感じていたかもしれない。


 けれど今は、美咲の声を聞いただけで、どこか安心した。


「おはよう。早かったな」


 悠真が台所から顔を出す。


 美咲は白いブラウスに紺色のロングスカートを合わせ、すでに外出の準備を済ませていた。肩には教材の入った鞄を掛けている。


 学校では髪をそのまま下ろしていることが多いが、今日は横髪の一部を後ろでまとめていた。


 普段より少し大人びて見える。


「心配なら来ていいって言ったでしょう?」


「本当にすぐ来るとは思わなかった」


「呼ばれたから来たの」


 美咲はそう答えたあと、少し不安そうに悠真を見る。


「来てほしくなかった?」


「逆。来てくれてよかった」


「本当?」


「ああ。一人で朝ごはんを食べるより、美咲がいた方がいい」


 悠真が素直に答えると、美咲は目を瞬かせた。


 やがて頬を淡く染め、嬉しそうに口元を緩める。


「最近、そういうことを普通に言うようになったね」


「美咲には言ってもいいと思ってるから」


「それ以上言われると、朝から落ち着かなくなるよ」


 そう言いながらも、美咲は帰ろうとはしなかった。


 鞄を椅子の横へ置き、冷蔵庫を開ける。用意していたサラダと茹で卵を取り出すと、慣れた様子でテーブルへ並べた。


「ちゃんと食べるつもりだったんだね」


「食べるよ。試験前に体調を崩したくないし」


「偉い」


「子供扱いしてない?」


「少しだけ」


 美咲が笑う。


 その直後、トースターが軽い音を立てた。


 焼き上がったパンは、表面に綺麗な焼き色がついている。


「成功だな」


「付箋どおりにしただけでしょう?」


「それでも成功は成功だよ」


「はいはい。今日は合格です」


 美咲はトースターの中をのぞき込み、念入りに確かめてから頷いた。


「何を確認したんだ?」


「裏側が焦げていないか」


「そこまで疑わなくても」


「悠真くんの料理では、予想していないことが起きるから」


「ただのトーストだよ」


「以前、そのただのトーストから煙を出した人は誰?」


「俺だけど」


「だから確認しました」


 反論できず、悠真は焼き上がったパンを皿へ載せた。


 椅子へ座ると、美咲は向かい側へ回ろうとする。その前に、悠真が隣の椅子を軽く引いた。


「こっち」


「隣に座るの?」


「嫌なら向かいでもいいけど」


「嫌じゃないよ」


 美咲は嬉しそうに隣へ腰を下ろした。


 肩が触れそうな距離。


 広いテーブルなのだから、向かい合って座った方が食べやすい。それでも今朝は、近くにいてほしかった。


「美咲は食べてきた?」


「うん。家で食べたよ」


「じゃあ、見てるだけ?」


「悠真くんがちゃんと食べ終わるまで見ています」


「それなら、一口食べる?」


 悠真は茹で卵を半分に割り、美咲の皿を出そうとする。


「私は大丈夫だよ」


「隣にいるのに、俺だけ食べるのは落ち着かない」


「だったら、サラダを少しだけもらおうかな」


 悠真が小皿を取りに立とうとすると、美咲がその腕を軽く押さえた。


「私が取るよ」


「美咲は客だろ」


「合鍵を持って入ってくる客なんていないよ」


「じゃあ、何?」


 悠真が尋ねると、美咲の動きが止まった。


 少し考えたあと、照れくさそうに視線を逸らす。


「……恋人、でしょう?」


「そうだった」


「忘れないでください」


 美咲は小皿を用意し、サラダを少しだけ取り分けた。


 二人で並んで朝食を食べる。


 テレビはついていない。


 パンをかじる音と、食器の触れ合う小さな音だけが室内へ響いている。


 特別なことは何もしていない。


 それでも、目を覚ましたあとに美咲が部屋へ来て、隣で朝食を食べている。その日常らしい光景が、悠真には心地よかった。


 美咲がいるだけで、いつもの部屋が少し違って見える。


 食器棚には二人分の箸があり、冷蔵庫には美咲が買った食材が入っている。テーブルの端には、美咲が読みかけにしている参考書まで置かれていた。


 最初にこの部屋へ来た頃の美咲は、悠真の生活を放っておけないという理由で家事を手伝っていた。


 今もそれは変わらないのだろう。


 けれど、彼女がここにいる理由は、それだけではなくなっていた。


「明日も来てくれる?」


 考えるより先に言葉が出た。


「朝ごはんを確認しに?」


「それもあるけど」


「他には?」


「起きたとき、一人じゃない方がいい」


 美咲はサラダを取ろうとしていた箸を止めた。


 その横顔が、少しずつ赤くなる。


「毎朝は無理だよ。学校の準備もあるから」


「分かってる」


「でも、ときどきなら来てもいいよ」


「合鍵で?」


「悠真くんが入っていいって言ってくれるなら」


「いつでも入っていいよ」


「それは不用心です」


「美咲にだけだよ」


 美咲は困ったように眉を下げながらも、嬉しさを隠しきれない様子で笑った。


「じゃあ、寝坊した日だけじゃなくても使うね」


「ああ」


「でも、着替えているかもしれないから、入る前に声は掛ける」


「それは助かる」


「あと、朝ごはんは自分でも用意すること」


「美咲が来てくれるなら、作ってほしい」


「いきなり甘えすぎです」


「駄目?」


 悠真が隣から顔をのぞき込む。


 美咲は答えに困ったように唇を結び、しばらく視線をさまよわせた。


「……簡単なものだけなら」


「ありがとう」


「毎日じゃないからね」


「分かってる」


「本当に分かってる?」


「週に何回?」


「回数の相談を始めないで」


 美咲は呆れたように言ったが、その声は柔らかかった。


 悠真がパンを食べ終えると、美咲が空いた皿へ手を伸ばす。


「俺が洗うよ」


「大丈夫?」


「パンとサラダの皿くらいは洗える」


「洗剤の量は?」


「適量」


「悠真くんの適量は信用できない」


「今日は見ててくれればいいだろ」


「じゃあ、監督します」


 美咲は椅子から立ち、悠真の隣へ並んだ。


 悠真が洗剤をスポンジにつけようとすると、美咲の手が横から伸びてくる。


「多い」


「まだ出してないよ」


「今、押そうとした量が多かった」


「そこまで分かるの?」


「悠真くんの手に力が入ったから」


 美咲は洗剤の容器を受け取り、ほんの少しだけスポンジへ垂らした。


「これくらいで十分」


「少なくない?」


「泡立てれば足りるよ」


 言われたとおりにスポンジを揉むと、すぐに白い泡が広がった。


「本当だ」


「今までどれくらい使ってたの?」


「もっと」


「曖昧にしても駄目です」


 美咲が問い詰めるように顔を近づける。


 悠真はしばらく考え、洗剤の容器を指差した。


「一回で、この辺まで減ったことがある」


「それ、何枚洗ったとき?」


「三枚」


「使いすぎです」


 美咲の声が台所へ響いた。


「だから、すぐになくなってたんだ……」


「買えばいいと思ってた」


「お金の問題だけじゃないよ」


 美咲は額へ手を当て、深く息を吐いた。


 悠真が皿をすすいでいる間も、彼女は本気で頭を抱えている。


「料理より先に、洗い物から教えた方がいいのかな」


「今までできてただろ?」


「できていたんじゃなくて、洗剤の力で無理やり綺麗にしていたの」


「綺麗になるなら同じじゃない?」


「違います」


 きっぱり否定される。


 それでも美咲は、洗い終えた皿を受け取り、布巾で水気を拭いてくれた。


 並んで片づけをする時間が、悠真は嫌いではなかった。


     ◇


 朝食の片づけを終えると、二人は勉強会の準備を始めた。


 悠真は学校で使っている数学のノートと、英語、古典の教科書を鞄へ入れる。


 美咲との勝負に使っているノートは、テーブルの端に置いたままだ。


 そこには、これまで隠してきた本来の解き方が残されている。


「それは持っていかないんだね」


 美咲がノートを見ながら言う。


「ああ。孝太郎たちに見られると説明が面倒だから」


「うん。その方がいいと思う」


 美咲は表紙へそっと触れ、それから自分の問題集を取り出した。


「でも、帰ってきたら使うよ」


「勉強会のあとも勉強するの?」


「昨日言ったでしょう? 図書館で出た難しい問題を、もう一度一緒に解くの」


「まだ問題は出てないけど」


「あ……」


 美咲の指が止まる。


「難しい問題が出るかもしれないから、そのときは一緒に解こうってこと」


「それなら分かる」


「佐伯くんの勉強を見るだけで一日が終わりそうだけどね」


「可能性は高いな」


「本当にどこまで分かってないんだろう」


「昨日聞いた限りでは、試験範囲が書かれたプリントをなくしてた」


「それ、勉強以前の問題だよ」


 美咲は困ったように笑い、自分の鞄へ筆箱を入れる。


 その横顔には、少し楽しそうな色も浮かんでいた。


「楽しみ?」


「何が?」


「四人で勉強すること」


「うん。少しだけ」


 美咲は素直に頷いた。


「中学生の頃は、友達と集まって勉強したことがなかったから」


「そうなの?」


「学校では今みたいに話せる人が少なかったし、放課後はずっと一人で勉強してた」


 美咲は以前、自分が内向的だった頃の話をしてくれた。


 人と話すことが苦手で、自分に自信もなかった。


 天宮レイを画面越しに見たことをきっかけに変わろうと決め、勉強も運動も努力した。


 悠真には想像できないほどの時間を、一人で積み重ねてきたのだろう。


「じゃあ、今日は初めて?」


「友達との勉強会はね。悠真くんと二人でしたことなら、何度もあるけど」


「俺とのは勉強会に入らない?」


「入るけど……少し違うでしょう?」


 美咲が視線を逸らす。


「どこが?」


「勉強だけじゃなくなることがあるから」


「休憩が長いってこと?」


「そういうことにしておく」


 美咲は誤魔化すように鞄の中を確認し始めた。


 悠真もそれ以上は聞かなかった。


 以前のように、二人きりになるたび触れ合い方を考える必要はない。


 同じ問題集を開くこと。


 分からない問題を一緒に考えること。


 ときには何も話さず、隣で別々の勉強をすること。


 そうした時間も、二人にとっては十分に特別だった。


「今日、楽しくなるといいな」


 悠真が言う。


 美咲は少し驚いたように顔を上げた。


「悠真くんも楽しみなの?」


「少しだけ」


「私と同じだね」


「ああ」


 美咲は嬉しそうに目を細めた。


     ◇


 出発まであと十分になり、二人は玄関へ向かった。


 悠真が靴を履いている間、美咲は食器棚の上へ置かれた小さな箱を見つめていた。


 お揃いの指輪が入っている箱だった。


「今日はつけていかないの?」


「孝太郎たちに見つかるだろ」


「付き合ってることは知ってるよ」


「学校にはつけていけないし、勉強会でつけるのも落ち着かないと思って」


「そうだね」


 美咲は納得したように頷いたが、ほんの少しだけ名残惜しそうだった。


 悠真は箱を開け、薄桃色の石がついた美咲の指輪を取り出す。


「手、出して」


「今つけるの?」


「図書館へ着くまで」


 美咲が右手を差し出す。


 悠真はその薬指へ、ゆっくりリングを通した。


 続いて美咲が青い石の指輪を取り、悠真の指へつける。


「図書館の前で外す?」


「ああ。帰りにまたつければいい」


「だったら、ケースを持っていかないと」


 美咲は小さなケースへ二人分の場所があることを確認し、自分の鞄へ大切そうにしまった。


「なくすなよ」


「悠真くんよりは安全です」


「俺も物はなくさないよ」


「試験範囲のプリントは?」


「孝太郎と一緒にするな」


 美咲は楽しそうに笑った。


 悠真は先に廊下へ出ようとする美咲の鞄を、後ろから軽く引く。


「何?」


「先に行くなよ」


「まだ隣にいるでしょう?」


「今日は一緒に行くんだから、玄関から一緒でいい」


 悠真が手を差し出す。


 美咲は一瞬驚いたあと、その手へ自分の手を重ねた。


 指を絡めると、二つのリングが小さく触れ合う。


「今日はずいぶん甘えるね」


「たまにはいいだろ」


「うん。私にだけなら」


 二人は手をつないだまま部屋を出た。


 玄関の鍵を閉める間も、美咲は手を離さない。


「そういえば、悠真くん」


「何?」


「今朝、私が合鍵で入ってきたとき、驚かなかったね」


「来ると思ってたから」


「嫌じゃなかった?」


「それ、さっきも聞いただろ」


「ちゃんと確認しておきたいの」


 美咲は悠真の手を握ったまま、少し不安そうに見上げてくる。


「嫌じゃないよ。むしろ嬉しかった」


「そっか」


「次からは、メッセージを送らなくても来ていい」


「でも、迷惑かもしれないでしょう?」


「美咲なら迷惑じゃない」


「寝てても?」


「起こしてくれればいい」


「朝早くても?」


「美咲が来たなら起きる」


「本当に?」


「たぶん」


「急に信用できなくなったよ」


 美咲は笑いながら、つないだ手を軽く揺らした。


     ◇


 駅へ向かう道には、休日を過ごす家族連れや学生の姿があった。


 制服ではないため、学校の知り合いと擦れ違っても、すぐには気づかれないかもしれない。


 それでも美咲は、ときどき周囲を確認していた。


「手、離す?」


 悠真が尋ねる。


「どうして?」


「誰かに見られるかもしれないから」


「付き合ってることは、もう知られてるよ」


「恥ずかしくない?」


「少しは恥ずかしいけど」


 美咲はつないだ手へ視線を落とす。


「でも、離したくはない」


「分かった」


「悠真くんは?」


「俺も、このままでいい」


 美咲の指へ力が加わる。


 二人は歩幅を合わせ、駅前へ向かった。


「今日、孝太郎に何を教える?」


 悠真が尋ねる。


「まずは数学かな。佐伯くん、今回の試験が難しいって聞いてから、かなり焦ってたでしょう?」


「昨日まで何もしてなかったのにな」


「だから焦ってるんだよ」


「一日でどうにかなる?」


「全部は無理。でも、基本問題を落とさないようにすれば、赤点は避けられると思う」


 美咲は指導の順番まで考えているらしい。


 基礎問題で理解度を確認し、苦手な単元を優先する。休憩を挟んだあと、英語と古典へ移る。


「先生みたいだな」


「その呼び方、佐伯くんにもされそう」


「間違いなくされる」


「ちゃんと名前で呼ぶように言ってね」


「俺が言って聞くと思う?」


「悠真くんは友達でしょう?」


「友達の注意を素直に聞くような性格じゃないよ」


「それなら、問題を増やします」


 美咲は穏やかな表情で言った。


「それを伝えたら、一度でやめると思う」


「じゃあ、お願いね」


 歩きながら話しているうちに、駅前の建物が見えてくる。


 図書館は、駅に隣接した商業施設の向かい側にあった。


 入口の前まで来たところで、美咲が足を止める。


「指輪、外さないと」


「ああ」


 二人は人の流れから少し外れ、建物の陰へ移動した。


 美咲が先に悠真のリングへ指を掛ける。


 ゆっくりと外し、小さなケースへ収める。その表情は、少し寂しそうだった。


「帰りには、またつけるんだろ?」


「うん」


「なら、そんな顔するなよ」


「どんな顔?」


「今から取り上げられるみたいな顔」


「だって、せっかくつけてもらったから」


 美咲はそう言いながら、今度は自分のリングを外そうとした。


 悠真がその手を止める。


「俺が外すよ」


「つけるときも外すときも、悠真くんがしてくれるの?」


「嫌?」


「嫌じゃない」


 美咲が右手を預ける。


 悠真は薬指からリングを抜き、ケースの隣へ収めた。


 二つのリングが並ぶ。


 誰にも見えない場所へしまっても、それが二人のものだという事実は変わらなかった。


「帰り、忘れないでね」


「美咲がケースを持ってるんだから、美咲次第だろ」


「悠真くんから言ってほしいの」


「分かった」


 美咲は満足そうに頷き、ケースを鞄へ入れた。


 図書館のガラス扉を抜ける。


 館内には静かな空気が流れ、紙と本棚の匂いが微かに漂っていた。


 時計を見ると、集合時刻の十五分前。


 学習スペースを確認すると、奥に四人で利用できそうなテーブルが空いている。


「あそこにしようか」


 美咲が指差す。


「孝太郎たち、まだ来てないみたいだな」


「佐伯くんは遅刻しないかな」


「飲み物を奢りたくないって言ってたから、大丈夫だろ」


 二人が席へ向かおうとしたとき、背後の扉が勢いよく開いた。


「間に合った!」


 聞き慣れた声が、静かな館内へ響く。


 何人かの利用者が一斉に振り返った。


 入口には、肩で息をする孝太郎が立っていた。


 その少し後ろでは、菜月が呆れた表情で額へ手を当てている。


「佐伯くん」


 美咲が静かな声で名前を呼ぶ。


 笑顔ではある。


 しかし、その目はまったく笑っていなかった。


「ここ、図書館だよ?」


「……すみません」


 孝太郎は一瞬で声を小さくした。


 四人で過ごす、初めての勉強会。


 悠真にとって本当に難しい一日は、ここから始まろうとしていた。

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