第59話 隠すための勉強
放課後を告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
机の中へ教科書を押し込む音や、部活動へ向かう生徒たちの声が重なる。先ほどまで難しい顔で試験範囲を眺めていた孝太郎も、すでに気持ちは帰宅へ傾いているらしく、大きく伸びをしていた。
「よし。勉強会も決まったことだし、今日は帰るか」
「決まっただけで安心するなよ」
悠真が鞄へ教科書を入れながら言うと、孝太郎は椅子の背もたれへ腕を回し、心外そうに眉を寄せた。
「安心なんてしてない。まだ何も始まってないからな」
「余計に駄目だろ」
「でも日曜になれば、一ノ瀬先生がどうにかしてくれる」
「先生って呼ばないで」
菜月と話していた美咲が振り返り、わずかに頬を膨らませる。
「私は教えるだけ。覚えるのは佐伯くんだからね」
「厳しい……」
「当然でしょう。私たちだって自分の勉強があるんだから」
菜月も呆れた様子で腕を組んだ。
「孝太郎、まさか一から全部教えてもらうつもりじゃないよね?」
「一からとは言わない。二くらいから頼む」
「ほとんど同じじゃない」
二人のやり取りに、周囲から小さな笑い声が上がる。
悠真も表情だけは笑ってみせたが、胸の内には先ほど生まれた不安が残っていた。
日曜日の勉強会。
美咲と二人で勉強するだけなら問題はない。彼女の前では、数学に限って実力を隠さないと決めたばかりだ。
しかし、孝太郎と菜月がいる場所では話が変わる。
普段どおり平均的な生徒を演じながら、友人の勉強も手伝う。しかも今回の数学は、教師自身が難しくすると宣言した試験だ。
少し間違える程度なら簡単だった。
問題は、どの程度まで分かっているように見せるかだ。
「じゃあ、日曜の十時に駅前の図書館ね」
菜月が予定を確認する。
「遅刻した人は飲み物を奢ること」
「一ノ瀬が遅刻する可能性は?」
「ないよ」
「桜井は?」
「ない」
二人から即答され、孝太郎が悠真を見る。
「水瀬。俺たちは絶対に遅れないようにしような」
「俺まで巻き込むな」
「遅刻しそうになったら電話してくれ」
「自分で起きろよ」
「友達だろ?」
「その言葉は便利じゃないぞ」
孝太郎は笑いながら鞄を肩へ掛け、部活動へ向かうため教室を出ていった。菜月も用事があるらしく、美咲と少し話してから先に帰っていく。
生徒の姿が少なくなった教室で、悠真は窓の外へ目を向けた。
運動場では、すでにいくつかの部活動が準備を始めていた。規則正しく並べられるコーン。運び出されるボール。校舎の壁へ反射する掛け声。
「悠真くん」
隣から呼ばれ、悠真は視線を戻した。
美咲が鞄を両手で持ち、じっとこちらを見ている。
「帰ろう?」
「ああ」
二人は並んで教室を出た。
◇
昇降口を抜けると、夕方の風が頬を撫でた。
昼間より少しだけ涼しくなっていたが、夏へ近づきつつある空気には、まだ湿った熱が残っている。
校門までは他の生徒も多かったため、二人は少し距離を空けて歩いた。
交際していることはすでに知られている。それでも、人目の多いところで必要以上に近づくのは、今も少しだけ気恥ずかしかった。
大通りへ出て、生徒の姿が減ったところで、美咲が悠真の隣へ一歩近づく。
「まだ、さっきのことを考えてる?」
「さっき?」
「日曜日の勉強会」
悠真が答える前に、美咲はその横顔を見上げた。
「教室を出る前から、ずっと難しい顔をしてる」
「そんなに分かりやすかった?」
「私には分かるよ」
美咲は少し得意そうに言ったあと、すぐに表情を和らげる。
「孝太郎くんたちの前で、どうやって隠すか考えてたんでしょう?」
「正解」
「やっぱり」
「美咲に数学だけは手を抜かないって言った直後に、勉強会が決まったからな」
「私は気にしないよ。二人の前でまで本気を出してほしいとは言わないから」
「でも、美咲とは勝負するんだろ?」
「それは試験本番の話。勉強会では、無理に問題を解かなくてもいいんじゃない?」
「何もしないのも不自然だよ。孝太郎は俺にも聞いてくるだろうし」
孝太郎は、美咲が学年一位だと知っている。
それでも、質問のすべてを美咲へ向けるとは限らない。隣に座っている悠真へ、軽い気持ちで問題を見せることもあるだろう。
そのとき、簡単な問題すら解けないふりをすれば不自然になる。
反対に、難しい問題を迷わず解けば、今まで保ってきた平均という立場から外れてしまう。
「普通に分かるところだけ教えればいいと思う」
美咲は前を向きながら言った。
「普通に、か」
「悠真くんは隠そうとすると、少しやりすぎるから」
「そう?」
「この前も、途中まで正しく解けていたのに、最後だけ急におかしな計算をしてたでしょう?」
「あれは調整しただけだよ」
「調整したことが分かる間違え方だったよ」
美咲は困ったように眉尻を下げる。
「本当に分からない人は、もっと前の段階で迷うの。悠真くんみたいに考え方が全部合ってるのに、最後だけ間違える方が不自然」
「厳しい指摘だな」
「今まで誰にも言われなかった?」
「答案をそこまで真剣に見られたことがない」
「先生は?」
「点数しか見てなかったんじゃないかな。平均くらいなら、それほど気にされないし」
平均点に合わせること自体は、それほど難しくない。
解ける問題を選び、狙った点数へ近づくように答案を作る。悠真にとって試験は、正解を導くものではなく、目立たない結果を作るための作業になっていた。
だが、美咲は点数だけを見ない。
式の運び方も、迷う場所も、鉛筆を止める時間さえ見ている。
彼女の前で隠し続けることができなかったのは、当然だったのかもしれない。
「じゃあ、どうすれば自然だと思う?」
悠真が尋ねると、美咲は少し驚いたように瞬きをした。
「私に聞くの?」
「見抜いた人の意見を聞くのが一番だろ」
「それはそうだけど……」
美咲は口元へ指を当て、真剣に考え始める。
歩く速度が少し遅くなった。
「全部を間違える必要はないと思う。得意な単元が一つくらいあっても、誰も不思議には感じないから」
「俺は数学が得意ってことにする?」
「得意とまでは言わなくても、今回の範囲をたまたま勉強していることにすればいいよ」
「実際に勉強会へ参加するから、点数が上がっても理由にはなるか」
「うん。それに悠真くんは、他の人に教えるとき、答えをすぐ言わなければいいの」
「ヒントだけ出す?」
「そう。相手がどこで分からなくなったのか聞いて、そこだけ説明するの。問題を全部解いて見せなければ、実力も分かりにくいでしょう?」
「なるほど」
悠真が感心すると、美咲は少し胸を張った。
「一応、教えることには慣れてるから」
「学年一位は違うな」
「そうやって他人みたいに言わないで」
「褒めたつもりなんだけど」
「それなら、もう少し気持ちを込めてください」
「美咲はすごい」
「急に言われると、それはそれで恥ずかしいよ」
美咲は顔を逸らしたものの、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
その様子を見て、悠真の肩からわずかに力が抜ける。
教室で教師から向けられた「期待」は、今も胸の奥へ重く沈んでいる。
結果を求められること。
失敗を許されないこと。
誰かが望む姿を演じ続けること。
同じ言葉でも、美咲が自分へ向けるものは、それとは違っていた。
彼女は悠真に一位を取れとは言わない。
勝たなければ失望するとも言わない。
ただ、隠さないでほしいと願っている。
その違いを理解するには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
「美咲」
「何?」
「日曜日、協力してくれる?」
「もちろん」
「俺が変な隠し方をしてたら、止めてほしい」
「どうやって?」
「目で合図するとか」
「悠真くん、私の合図に気づける?」
「たぶん」
「じゃあ決めておこうか」
美咲は歩きながら、自分の頬へ人差し指を当てた。
「私がこうしたら、やりすぎって意味」
「頬を触る?」
「うん」
「普段からやってない?」
「そんなに触ってる?」
「考え事をしてるときによくやってる」
「じゃあ、これは駄目だね」
美咲は今度は左耳の髪を指で整える。
「これなら?」
「それもよくやる」
「私の仕草を覚えすぎじゃない?」
「隣の席だったから、目に入るんだよ」
「今は席が離れてるのに」
「今も見てないとは言ってない」
一瞬の沈黙が落ちた。
美咲の足が止まりかける。
「……そういうことを、普通の顔で言うのはずるいよ」
「変な意味じゃない」
「分かってる。でも、少し嬉しくなるから」
美咲は照れを隠すように髪を耳へ掛けた。
先ほど合図の候補にしたのと、まったく同じ仕草だった。
「今のは合図?」
「違います」
「もう分からないな」
「だったら、机の下で一回だけ靴を当てる」
「蹴るの?」
「軽く触れるだけ」
「強さを間違えないでくれよ」
「そんなに乱暴じゃないよ」
不満そうな顔をする美咲に、悠真は小さく笑った。
勉強会への不安が消えたわけではない。
それでも、一人で考えていたときよりは気持ちが軽くなっていた。
◇
帰宅後、美咲は制服から部屋着へ着替えて、悠真の部屋を訪れた。
夕食を済ませたテーブルには、数学の問題集とノートが広げられている。
向かい合って座るのではなく、今日は同じ側へ並んだ。
途中式まで見せ合うためだと美咲は説明していたが、椅子を寄せたときの距離は、ノートを見るために必要なものより少しだけ近かった。
「今日は、この範囲を終わらせよう」
美咲が付箋を貼ったページを開く。
「全部?」
「十問だけだよ」
「応用問題ばかりに見えるけど」
「悠真くんなら大丈夫でしょう?」
その言葉を聞き、悠真の指が一瞬止まった。
美咲はすぐに気づいたらしく、わずかに目を見開く。
「ごめん。今の言い方……」
「いや、大丈夫」
「でも」
「本当に平気だよ」
悠真は問題集へ視線を落とした。
「前だったら、今の言葉も苦しかったと思う。でも、美咲が言ってるのは、絶対に解けって意味じゃないだろ?」
「うん。解けなくても、一緒に考えればいいと思っただけ」
「分かってる」
「もし苦しくなったら、ちゃんと言ってね」
「ああ」
美咲はまだ心配そうにしていたが、それ以上は謝らなかった。
腫れ物へ触れるように扱わないことも、彼女なりの気遣いなのだろう。
二人は同時に問題へ取りかかった。
時計の秒針と、鉛筆が紙を擦る音だけが部屋へ響く。
最初の数問は、ほとんど同時に解き終わった。
五問目で美咲の手が止まる。
悠真はすでに答えまでたどり着いていたが、ノートを伏せることはしなかった。答えを隠す代わりに、美咲が考え終えるのを黙って待つ。
「分からない?」
しばらくして尋ねると、美咲は唇をわずかに尖らせた。
「まだ分からないとは言ってないよ」
「じゃあ待つ」
「先に進んでていいから」
「同じ問題を見た方が、あとで比べやすいだろ」
「余裕がある人の発言だね」
美咲が悔しそうにノートへ向き直る。
数分後、彼女は「あ」と小さく声を上げ、途中の式を二重線で消した。
「ここを置き換えればいいんだ」
「正解」
「まだ答えを出してないよ」
「考え方は合ってる」
「見ないで」
美咲が腕でノートを隠そうとする。
しかし悠真との距離が近いため、隠しきれない。
「途中式を見せ合うために隣へ座ったんじゃなかった?」
「私が間違えてるときは見ないでほしいの」
「都合がよすぎるだろ」
「悠真くんだって、ずっと実力を隠してたでしょう?」
「それとこれとは違う」
「似たようなものです」
美咲は恥ずかしそうにしながらも、もう一度計算を始めた。
悠真はその横顔を眺める。
分からない問題を前にしても、美咲は諦めない。
自分より先に解かれたことを悔しがりながら、その悔しさを次の一歩へ変えていく。
彼女が学年一位になったのは、才能だけが理由ではない。
誰にも見られていない場所で積み重ねた努力が、今の美咲を作っている。
「できた」
美咲がノートをこちらへ向けた。
「どう?」
「合ってる」
「本当に?」
「ああ。最後まで全部」
悠真が頷くと、美咲は安堵したように息を吐いた。それから悠真のノートと自分のノートを並べ、式を見比べる。
「悠真くんの方が短いね」
「途中を少しまとめただけ」
「私の解き方でも間違いじゃない?」
「間違いじゃないよ。むしろ試験では、美咲の方が安全だと思う」
「どうして?」
「俺の書き方は途中を省略してるから、採点する先生によっては減点されるかもしれない。美咲の方は考え方がはっきり分かる」
「じゃあ、悠真くんも私の書き方にした方がいいね」
「そうする」
悠真が自分のノートへ式を書き足すと、美咲は満足そうに頷いた。
「私も教えられることがあった」
「最初からあるだろ」
「でも、数学では悠真くんの方が上かもしれないから」
「まだ勝負は終わってない」
「絶対に負けないよ」
美咲の瞳に、真っすぐな強さが宿る。
重苦しい期待ではない。
同じ場所に立ち、互いに全力を出したいという気持ち。
「俺も負けるつもりはない」
悠真が答えると、美咲は嬉しそうに笑った。
◇
それから数日間、悠真は学校と自宅で異なる勉強の仕方を続けた。
学校では、授業の進行に合わせてノートを取り、教師に当てられれば必要な範囲だけ答える。
孝太郎から質問されたときも、すぐに答えを教えることはしなかった。
「まず、この公式を使うところまでは分かる?」
「公式の名前なら見覚えがある」
「名前じゃなくて使い方」
「そこから教えてほしい」
昼休みの教室で、孝太郎が情けない顔をする。
悠真は問題集を受け取り、最初の式だけを指で示した。
「ここへ数字を入れてみろよ」
「どれを?」
「問題文に書いてあるだろ」
「数字が多い」
「三つしかない」
近くで見ていた菜月が、堪えきれないように笑う。
「水瀬くん、教えるの上手だね」
「そう?」
「すぐに答えを言わないから。私だったら、たぶん我慢できなくなる」
「実際、俺もそろそろ答えを言いたい」
「待ってくれ。今、俺の頭の中で何かがつながりそうなんだ」
孝太郎は眉間へ深い皺を寄せ、問題を睨んだ。
しばらくして式を書き始めたが、代入する数字を間違えている。
悠真が指摘しようとした瞬間、正面の席にいた美咲の靴先が、机の下で悠真の靴へ軽く触れた。
決めていた合図だった。
悠真は口を閉じる。
ここで細かな間違いまで瞬時に見つければ、教え慣れている印象を与えるかもしれない。
「できた!」
孝太郎がノートを持ち上げる。
「いや、違うね」
菜月が即座に言った。
「何で分かるんだよ」
「問題集の後ろに答えがあるから」
「先に見るなよ!」
「答えじゃなくて、孝太郎がちゃんとできるかを見てるの」
孝太郎が肩を落とし、もう一度ノートへ向き直る。
その隙に悠真が美咲を見ると、彼女は小さく頷いた。
どうやら今の対応でよかったらしい。
放課後や夜、自宅で二人きりになれば、悠真はもう手を抜かなかった。
問題を解き終えるまでの時間も、答えへ至る考え方も隠さない。
美咲も負けじと食らいついてくる。
解けなければ悔しがり、悠真の解き方に納得できなければ遠慮なく指摘する。
二人の点数を競う約束は、いつの間にか悠真にとっても楽しみなものへ変わり始めていた。
勝たなければならないのではない。
勝ちたいと思う。
その二つがまったく異なる感情なのだと、悠真は少しずつ知っていった。
◇
土曜日の夜。
翌日の勉強会に備え、美咲は必要な教材をテーブルへ並べていた。
「数学と英語と古典。あとは孝太郎くんが苦手なところ次第かな」
「全部苦手だって言いそうだけど」
「そのときは範囲を絞るよ。一日で全部は無理だから」
美咲は付箋の色ごとに問題集を分け、鞄へ入れていく。
悠真はその隣で、明日持っていくノートを選んでいた。
美咲との勉強で使っているノートには、本気で解いた式が残っている。
それを孝太郎たちへ見せるわけにはいかない。
「こっちを持っていく」
悠真が普段学校で使っているノートを持ち上げる。
「うん。その方がいいと思う」
「美咲との勝負用は置いていくよ」
「なくさないように、私の部屋で預かろうか?」
「そこまでする必要ある?」
「大切な証拠だから」
「証拠って言い方はやめてくれ」
悠真が苦笑すると、美咲は楽しそうにノートの表紙を撫でた。
そこには、悠真が隠すことなく書いた数式が並んでいる。
他人に見られればただの勉強用ノートだが、美咲にとっては別の意味を持っているのだろう。
「明日は、私も気をつけるね」
「何を?」
「悠真くんに難しい問題を振らないようにする。いつもの癖で聞いたら、二人に不思議に思われるかもしれないから」
「助かる」
「それと、わざと変な間違いをしないこと」
「分かってるよ」
「本当に?」
「美咲の指導どおり、得意な範囲だけ少し分かる生徒を演じる」
「演じるって言うと、また完璧に作り込みそう」
美咲の表情が少し曇る。
「できれば、演じることばかり考えないでほしいな」
「でも、秘密にするなら必要だろ?」
「必要だけど……孝太郎くんたちは悠真くんの友達でしょう? 一緒に勉強する時間まで、全部嘘にしなくていいと思う」
悠真は返事をせず、美咲を見る。
「教えてあげたいと思ったら、教えてあげればいいの。少しくらい正解しても、それだけで全部が知られるわけじゃないよ」
「そうかな」
「少なくとも私は、悠真くんの点数だけで気づいたんじゃないから」
「確かに」
「ずっと見てたから、分かったの」
美咲は静かに微笑む。
教室での様子。
問題を見る目。
勉強していないはずなのに焦らない態度。
そうした小さな違和感を拾い続けたからこそ、美咲は悠真の隠していた実力へたどり着いた。
孝太郎や菜月が、一日の勉強会だけで同じところまで迫る可能性は低い。
「少し考えすぎてたかもしれない」
悠真が呟くと、美咲は柔らかく頷いた。
「明日は普通に楽しもう?」
「勉強会を?」
「友達と一緒に過ごすことを」
「孝太郎は楽しむ余裕がなさそうだけど」
「それは本人の勉強不足です」
美咲はきっぱりと言い切り、教材を入れた鞄のファスナーを閉じた。
準備を終えて立ち上がる。
「明日の朝、九時半に出れば間に合うよね」
「駅前までなら十分だと思う」
「遅刻したら飲み物を奢る約束だから、九時二十分にしない?」
「美咲が遅刻することはないだろ」
「悠真くんが寝坊するかもしれないでしょう?」
「起こしに来るつもり?」
美咲は少し考えるように視線を上げたあと、鞄から鍵を取り出した。
悠真から渡された合鍵が、部屋の明かりを受けて銀色に光る。
「必要なら、これを使います」
「寝室まで入ってくるのか?」
「呼び鈴を鳴らしても起きなかったらね」
「それなら寝坊しても安心だな」
「安心しないで、自分で起きてください」
美咲は呆れたように息をつく。
それから合鍵を大事そうに鞄へ戻した。
「じゃあ、明日」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
美咲が自分の部屋へ戻ったあと、悠真はテーブルに残された二冊のノートを見下ろした。
学校へ持っていく、平均的な答案が並ぶノート。
美咲の前でだけ使う、本当の実力が記されたノート。
これまでは、その二つを完全に分けていれば安全だと思っていた。
けれど美咲は、すべてを嘘にする必要はないと言った。
友人に問題を一つ教えること。
一緒に答えを考えること。
それだけで、過去も秘密も明かされるわけではない。
悠真は学校用のノートを鞄へ入れた。
明日の勉強会で、どこまで普段どおりに振る舞えるかは分からない。
それでも、失敗しないように演じ続けるより、友人たちと過ごす時間を少しは楽しんでみようと思えた。
日曜日の図書館。
美咲と二人だけではない、初めての勉強会。
悠真にとって難しいのは、試験範囲の問題ではなかった。
実力を隠しながら、誰かと自然に過ごすこと。
そして、秘密を守ることばかり考えずに、友人を信じてみることだった。
読んでくださってありがとうございます。
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