第50話 恋人らしいことの正解
美咲が自分の部屋へ戻ったあとも、悠真はしばらく玄関に立っていた。
扉の向こうから、隣室の鍵が開く音が聞こえる。
その後に扉が閉まり、廊下が静かになった。
美咲とは、ほんの数メートルしか離れていない。
今からもう一度呼び鈴を押せば、きっとすぐに顔を見られる。
それなのに、先ほどまで腕の中にいた温かさが消えた部屋は、普段よりも広く感じられた。
悠真は自分の唇へ指先で触れる。
付き合ってから、何度かキスをした。
最初は触れただけ。
回数を重ねても、上手くできているのかは分からない。
それでも美咲が目を閉じ、自分へ身体を預けてくれた瞬間の感覚は、今も鮮明に残っている。
『明日は、今日とは違う恋人らしいことを考えてね』
「違うこと、か……」
手をつなぐ。
抱き締める。
キスをする。
好きだと伝える。
悠真が思いつく恋人らしい行動は、それくらいしかない。
しかも、そのすべてをすでに美咲としている。
一日目から難易度が高すぎるのではないか。
そう思いながらリビングへ戻ると、テーブルの上に桜色の箸が残されていた。
美咲の箸。
いつもなら食器を洗ったあと、自分で丁寧に水気を拭いて食器棚へ戻す。
今日は帰る直前まで落ち着かなかったため、しまい忘れたらしい。
悠真は箸を手に取り、青い箸と並べて食器棚へ置いた。
二膳が並んでいるだけで、そこに美咲の居場所ができたように見える。
その光景をしばらく眺めていると、ポケットのスマートフォンが震えた。
『ちゃんと鍵を閉めた?』
美咲からだった。
部屋へ戻って、まだ一分も経っていない。
『今閉める』
返信してから、玄関の鍵を確認する。
すぐに次のメッセージが届く。
『湿布は剥がれてない?』
『大丈夫』
『肩は痛くない?』
『大丈夫』
『本当に?』
『今から見に来る?』
少し冗談を混ぜて送る。
既読はすぐについたが、返事が来ない。
やりすぎたかと思ったところで、隣から小さな物音がした。
続いて、玄関の呼び鈴が鳴る。
「本当に来るのか」
悠真は苦笑しながら、扉を開けた。
美咲が立っていた。
先ほど別れたときと同じ制服姿。鞄だけ自分の部屋へ置いてきたらしく、両手には何も持っていない。
「見る」
「何を?」
「肩」
「メッセージは冗談だったんだけど」
「剥がれてないって言ったけど、自分で見てないでしょう?」
「触ったら分かるよ」
「端だけ残ってるかもしれない」
美咲は真剣な表情で言う。
しかし頬は少し赤かった。
本当に湿布を確認するためだけに来たのか、それとも先ほど別れたばかりで寂しくなったのか。
悠真は尋ねようとしたが、答えを聞けば自分まで恥ずかしくなりそうでやめた。
「入る?」
「うん」
先ほどと同じ言葉を交わし、美咲が再び部屋へ入る。
玄関を上がると、悠真の背後へ回った。
「襟を少し下げて」
「ここで見るの?」
「リビングまで行く必要ないでしょう?」
「確かに」
悠真がシャツの襟を少し引く。
美咲の指が、右肩の後ろへ触れた。
湿布の端を確かめるように、肌と布の境目を静かになぞっていく。
「剥がれてないね」
「だから言っただろ」
「ちゃんと確認できたからよかったの」
美咲の指が離れる。
それでも、帰ろうとはしなかった。
悠真の背後に立ったまま、何か言いたそうに俯いている。
「美咲」
「何?」
「他にも用事がある?」
「……ないよ」
「じゃあ帰る?」
「帰った方がいい?」
少し寂しそうな声だった。
悠真は振り返る。
美咲は視線を落とし、自分の指先をいじっていた。
「もう少しいてもいいけど」
「本当?」
「うん」
「でも、さっきおやすみって言ったよね」
「言ってない」
「言わなかったっけ?」
「また明日って言っただけ」
「じゃあ、まだ帰らなくていい?」
「俺に聞くなよ」
「悠真くんにいてほしいって言われたら、いられる」
美咲は顔を上げる。
期待と不安が混じった瞳。
恋人になったばかりだからこそ、どこまで求めてもいいのか分からないのだろう。
その気持ちは、悠真も同じだった。
「いてほしい」
「……うん」
美咲の表情が柔らかくなる。
「私も、もう少し一緒にいたい」
二人はリビングへ戻り、ソファへ並んで座った。
先ほどと同じ場所。
それなのに、一度別れてから戻ってきたせいか、少し特別な時間のように思えた。
「何する?」
悠真が尋ねる。
「特に考えてなかった」
「肩を確認しに来ただけだもんな」
「それも本当だよ」
「それ以外は?」
美咲は膝の上で手を組む。
「部屋に戻ったら、急に寂しくなったの」
小さな声で認めた。
「すぐ隣に悠真くんがいるって分かってるのに。さっきまで抱き締めてもらってたから、一人になったら落ち着かなくて」
「俺も同じだった」
「本当に?」
「美咲が帰ったら、部屋が広くなった気がした」
「そっか」
美咲が少し嬉しそうに笑う。
その身体が、わずかに悠真の方へ近づく。
「でも、毎日こうしてたら、自分の部屋に戻れなくなるよね」
「泊まる?」
「またそれを言うの?」
「冗談」
「本当に?」
「半分くらい」
美咲の頬が赤くなる。
「半分は本気なの?」
「一緒にいられたらいいとは思う」
「でも、泊まるのはまだ早いよ」
「分かってる」
「私たち、高校生だし」
「うん」
「同じ部屋で夜を過ごしたら、きっと緊張して眠れないから」
「美咲でも?」
「悠真くんと一緒なら、当然でしょう?」
美咲は落ち着かない様子で、自分のスカートの裾を整える。
「悠真くんは平気なの?」
「平気じゃないと思う」
「……そっか」
「何で少し嬉しそうなんだよ」
「私のことを意識してくれるから」
「恋人なんだから意識するだろ」
「そういうこと、まだ慣れない」
美咲はそう言いながら、悠真の肩へそっと頭を預けた。
右肩ではなく、怪我をしていない左側。
髪が首筋へ触れ、仄かな香りが近づく。
「これは今日の二回目?」
「ただ一緒に座ってるだけだから、数えない」
「美咲の判定基準が分からない」
「私も分からないよ」
「命令した本人なのに?」
「恋人らしいことを、悠真くんが考えてくれるのが嬉しいの」
美咲の指が、ソファの上に置かれた悠真の左手へ触れる。
最初は小指だけ。
それから一本ずつ、確かめるように重ねていく。
「だから、手をつなぐだけでもいいの」
「前にもしてるから駄目って言わなかった?」
「何をするかより、悠真くんからしてくれることが大切なの」
「先に触ったのは美咲だけど」
「あ……」
美咲の指が止まる。
悠真は笑いながら、その手を握った。
「これで俺から」
「うん」
「それなら今日の分?」
「さっきキスしたから、もう終わってるよ」
「じゃあ、これは?」
「追加です」
美咲は悠真の肩へ、少し深く身体を預ける。
「追加はいくらあってもいいの」
二人はしばらく、何も話さずに座っていた。
テレビもつけていない。
つないだ手の温度と、肩へ預けられた重みだけを感じている。
何か特別なことをしなくても、美咲が同じ部屋にいるだけで心が落ち着いた。
「そろそろ帰らないと」
十分ほど経った頃、美咲が名残惜しそうに呟く。
「うん」
「明日の朝、寝坊しないでね」
「起こしに来るんだろ?」
「合鍵はまだもらってないよ」
「明日渡す」
「本当に?」
「作ってある予備があるから」
「でも、勝手に入らないからね」
「朝は入っていいよ」
「悠真くんが起きなかったときだけ」
「毎日使うことになるかも」
「自分で起きる努力をしてください」
美咲は呆れたように笑い、ソファから立ち上がる。
玄関まで送ると、今度こそ靴を履いた。
「おやすみ、悠真くん」
「おやすみ、美咲」
美咲が扉を開ける。
廊下へ一歩出たあと、振り返った。
「明日の恋人らしいこと、楽しみにしてるね」
「今から考えないと駄目?」
「今日と同じじゃなければ、何でもいいよ」
「難しいな」
「頑張って」
美咲は笑顔で手を振り、自分の部屋へ戻った。
今度は追いかけてこない。
それでも先ほどより、部屋が寂しく感じられることはなかった。
◇
翌日の放課後。
掃除当番を終えた悠真は、教室の窓際で美咲を待っていた。
美咲は菜月と一緒に、委員会の書類を職員室へ届けに行っている。
普段なら先に帰るところだが、今日は二人で買い物へ行く約束をしていた。
「待たせてごめん」
教室の扉が開き、美咲が少し早足で入ってくる。
「今終わったところ」
「肩は?」
「もう痛くない」
「掃除で重いものを持たなかった?」
「机を少し運んだだけ」
「右手で?」
「両手」
美咲は疑うように悠真の肩を見る。
「本当に大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、腕を上げてみて」
「朝もやっただろ」
「掃除のあとだから、もう一回」
悠真は言われたとおり、右腕を上げる。
痛みはなかった。
美咲は動きを確認したあと、安心したように息を吐く。
「もう大丈夫そうだね」
「じゃあ、今日で命令は終わり?」
「駄目。あと二日残ってる」
「怪我は治ったのに?」
「罰の期間は別です」
「厳しいな」
「昨日、恋人らしいことをしてくれたから、一日減らしてもいいよ」
「元から一日に一回する約束だろ」
「そうだった」
美咲は残念そうに呟く。
「減らしたくないの?」
「だって、命令できる間は毎日してもらえるでしょう?」
「終わったあともしないとは言ってないよ」
「本当?」
美咲の表情が明るくなる。
「毎日してくれる?」
「毎日違うことは無理かもしれないけど」
「同じでもいいよ」
「昨日と言ってることが違う」
「考えてくれたことが嬉しいって分かったから、もう十分なの」
美咲は教室に誰もいないことを確かめ、悠真の手へ自分の指を重ねる。
「今日は何をしてくれるの?」
「それを今から買いに行く」
「買うものなの?」
「行けば分かる」
悠真は美咲の手を握り、そのまま教室を出た。
◇
駅前の商業施設は、平日の夕方でも多くの人で賑わっていた。
制服姿の高校生。
買い物袋を持った家族連れ。
仕事帰りらしい大人たち。
二人は人混みの中を、手をつないで歩いた。
誰かに見られることを心配していた美咲も、学校で交際を認めてからは以前ほど周囲を気にしなくなっている。
それでも知り合いと擦れ違いそうになると、少しだけ悠真の後ろへ隠れた。
「どこに行くの?」
「雑貨店」
「何を買うの?」
「着いてから」
「昨日からずっと秘密ばかり」
「楽しみは後に取っておいた方がいいだろ」
「待つ側は大変なんだよ」
美咲は少し不満そうに頬を膨らませる。
雑貨店へ入り、悠真はアクセサリーが並んだ一角へ向かった。
指輪を見に行く約束をしたことを覚えていたからだ。
「もしかして……」
「前に欲しいって言ってただろ」
「覚えててくれたの?」
「忘れるわけない」
細いリングがいくつも並ぶ棚の前で、美咲は目を輝かせた。
高価な宝石がついたものではない。
高校生でも手の届く、シンプルなアクセサリーだ。
「どれがいい?」
「悠真くんが選んで」
「美咲がつけるものだろ」
「悠真くんに選んでもらったものをつけたいの」
「難しいな」
「私は悠真くんのを選ぶから」
「お揃いじゃなくていいの?」
「全く同じでもいいけど、少しだけ違うのも可愛いと思う」
二人は棚を眺めながら、いくつかのリングを手に取った。
銀色の細い輪。
内側に小さな模様が入ったもの。
青い石と薄桃色の石が、それぞれ一つだけついている組み合わせ。
「これ、美咲に似合いそう」
悠真が薄桃色の石がついたリングを取る。
「可愛い」
「試してみる?」
「うん」
美咲が左手を差し出す。
自分でつけようとはせず、悠真を待っていた。
「俺が?」
「選んでくれたんだから、つけて」
「どの指?」
「……薬指」
美咲が小さな声で答える。
「左?」
「それは、まだ早いよ」
「じゃあ右?」
「うん」
悠真は美咲の右手を取った。
細い薬指へ、リングをゆっくり通す。
少しきつい。
「小さいね」
「一つ大きいものにしよう」
「うん」
美咲はリングを外そうとする。
しかし途中で指の関節へ引っかかり、動かなくなった。
「あれ?」
「取れない?」
「少し待って」
美咲が引っ張るが、リングは抜けない。
力を入れすぎたせいで、指先が赤くなっていく。
「貸して」
悠真は美咲の手を両手で包む。
「力を抜いて」
「うん」
指へ負担をかけないよう、リングをゆっくり回す。
美咲の手は小さく、緊張しているのか少し冷たかった。
「痛くない?」
「大丈夫」
「もう少し」
悠真が顔を近づけ、指先を見つめる。
美咲はリングではなく、真剣な表情をした悠真の横顔を見ていた。
「取れた」
リングが指先を抜ける。
悠真が安心して顔を上げると、美咲と目が合った。
「どうした?」
「ううん」
「指、痛い?」
「平気」
美咲は赤くなった薬指を胸元へ引き寄せる。
「ただ、悠真くんにつけてもらったとき、少しだけ変な想像をしちゃった」
「変な想像?」
「言わない」
「気になるんだけど」
「ずっと先のこと」
それだけ言うと、美咲は照れくさそうに笑った。
悠真は一瞬遅れて意味を理解する。
指輪。
左手の薬指。
ずっと先の未来。
胸が大きく鳴った。
「まだ付き合って二日目だぞ」
「分かってるよ」
「気が早くない?」
「想像しただけ」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
美咲は一つ大きいサイズのリングを手に取る。
「むしろ、そうなったらいいなって思った」
悠真はすぐに答えられなかった。
将来のことなど、考えたこともなかった。
明日を無事に過ごす。
誰にも気づかれず、平凡なまま卒業する。
それだけを考えていた。
けれど今は、その先を想像する相手がいる。
「もう一回、つけてもいい?」
悠真が尋ねる。
「うん」
美咲が右手を差し出す。
今度のリングは、薬指へちょうどよく収まった。
薄桃色の小さな石が、店内の照明を受けて淡く輝く。
「似合ってる」
「ありがとう」
「これにする?」
「うん。悠真くんも選んで」
美咲は隣に並んでいた、青い石のリングを取る。
悠真の右手を持ち上げ、薬指へ通した。
「これなら、お揃いに見えるね」
「本当に買う?」
「買いたい」
「学校にはつけていけないぞ」
「帰ってからと、休日だけでいいよ」
美咲は二人の右手を並べる。
薄桃色と青。
同じ形の小さな石が、隣り合っている。
「二人だけのときにつける方が、秘密みたいで嬉しい」
「交際はもう秘密じゃないけど」
「キスと指輪は秘密です」
「誰かに聞かれても?」
「絶対に言わないで」
「分かった」
悠真は自分のリングを見下ろす。
初めて身につける、恋人と揃いのもの。
「これが、今日の恋人らしいこと?」
美咲が尋ねる。
「そのつもり」
「すごく嬉しい」
「昨日より?」
「比べられないよ」
美咲は右手の薬指を大切そうに撫でる。
「でも、指輪を選んでくれたのと、つけてくれたので二回分じゃない?」
「明日の分にする?」
「それは別」
「やっぱり判定が厳しい」
悠真が苦笑すると、美咲も声を立てて笑った。
◇
会計を済ませ、二人は店を出た。
リングは小さな箱へ入れてもらったが、美咲はすぐにつけ直したいと言った。
商業施設を出たところで、互いの指へもう一度リングを通す。
「これで、もっと恋人らしく見えるかな」
美咲が自分の右手を眺める。
「手をつないだら、見えにくいけど」
「でも、二人には分かるよ」
美咲はリングをつけた手を、悠真へ差し出す。
悠真もその手を握った。
触れ合った指の間で、二つのリングが僅かに当たる。
「ねえ、悠真くん」
「何?」
「今度の土曜日、どこへ行く?」
「水族館じゃなかった?」
「うん。でも、他にも行きたい場所があるの」
「どこ?」
「新しくできた屋内プール」
美咲は少し恥ずかしそうに答える。
「菜月から、すごく綺麗だって聞いたの。流れるプールもあるみたい」
「美咲は泳げる?」
「もちろん。悠真くんは?」
「一応」
「また手を抜く?」
「プールで本気を出す必要ある?」
「私と競争して」
「怪我が治ってからな」
「その頃には大丈夫でしょう?」
「たぶん」
美咲は嬉しそうに頷く。
しかし、すぐに何かを意識したように視線を落とした。
「水着……買わないと」
「持ってないの?」
「学校用ならあるけど、遊びに行くものは持ってない」
「今日見る?」
「今から?」
「売ってる店、上の階にあっただろ」
悠真が館内案内を示す。
美咲は頬を赤くし、少し迷ってから首を横へ振った。
「今日はやめておく」
「どうして?」
「悠真くんと一緒に選ぶの、恥ずかしいから」
「俺が選ぶわけじゃないだろ」
「どんな水着を選んだか、すぐ知られるでしょう?」
「当日には分かるよ」
「それまでは秘密にしたいの」
美咲は照れくさそうに笑う。
「楽しみにしてて」
「分かった」
「でも、あまり期待しすぎないでね」
「期待していいって言ったのは美咲だろ」
「そういう期待じゃないよ」
「じゃあ、どういう期待?」
「もう知らない」
美咲は顔を赤くし、つないだ手を引くように歩き出した。
悠真はその隣へ並ぶ。
プールへ行く。
ただそれだけの約束なのに、美咲の水着姿を想像した瞬間、胸が落ち着かなくなる。
付き合ったばかりの相手を意識するのは、当然なのかもしれない。
だからこそ、距離の取り方を間違えないようにしなければならない。
美咲が安心して隣にいられる自分でありたい。
そう思いながらも、期待するなという方が無理だった。
「悠真くん」
「何?」
「今、変なこと考えた?」
「考えてない」
「本当に?」
「プールが楽しみだと思っただけ」
「私の水着じゃなくて?」
「……少しは」
「正直すぎるよ!」
美咲は顔を赤くして抗議する。
それでも手を離すことはなく、リングの触れる小さな音を鳴らしながら、悠真の隣を歩き続けた。
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