第19話 正解した一問
「今気になってるのは、ちゃんと私の近くにいる人」
美咲の言葉を聞いた瞬間、悠真の胸に二つの感情が続けて生まれた。
一つ目は、僅かな寂しさだった。
天宮レイは、もう美咲の好きな人ではない。
彼女にとって大切な初恋ではあっても、すでに過去の思い出になっている。
天宮レイは自分だ。
それなのに、なぜか自分ではない誰かを選ばれたように感じた。
正体を隠しているのは悠真自身だ。彼女へ何も話さず、天宮レイを過去の存在にしているのも自分だった。
それでも、美咲にとって天宮レイが特別ではなくなったと知り、胸の奥が小さく沈んだ。
そして二つ目は、焦りに似た感情だった。
美咲が今気になっているのは、天宮レイではない別の誰か。
学校の生徒かもしれない。
勉強会で一緒になった男子かもしれない。
悠真の知らない相手である可能性もある。
それを想像すると、胸の内側が妙に落ち着かなかった。
「どのくらい近い?」
気づけば、悠真は確かめるように尋ねていた。
同じクラス。
隣の部屋。
毎朝一緒に登校し、夕食を囲んでいる。
もしそれ以上近い相手がいるなら、悠真には思い当たらない。
ただし、自分のことだと決めつけられるほど、恋愛に慣れているわけでもなかった。
「それ以上は言わない」
美咲は頬を赤くしたまま俯いた。
悠真の手を包む指にも、僅かに力が入っている。
「その人は、同じ学校か?」
「一つだけって言ったでしょう?」
「これは確認だ」
「質問です」
「同じクラス?」
「教えません」
「近くに住んでる?」
美咲の肩が大きく跳ねた。
俯いていた顔が、さらに赤くなる。
「……水瀬くん」
「何だ?」
「分かってて聞いてる?」
「何を?」
悠真は本気で首を傾げた。
美咲はその顔をしばらく見つめる。
やがて、本当に理解していないと気づいたらしい。期待していたような瞳が、少しだけ曇った。
「何でもない」
美咲は悠真の手を離し、ベンチから立ち上がった。
料理本を胸元へ抱え、顔を隠すように悠真へ背を向ける。
「そろそろ帰ろう?」
「ああ」
悠真も立ち上がった。
美咲の手の温もりが消えた指先を、無意識に握る。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「さっきの質問だけど」
美咲が肩越しに振り返る。
「気になる人が誰なのかは、もう聞かない」
「……そう」
「でも、分かったら教えてくれ」
「どうして?」
「気になるから」
美咲の瞳が僅かに大きくなる。
「その人のことが?」
「ああ」
「私が誰を好きになるか、水瀬くんも気になるの?」
「好きかどうかは、まだ分からないんだろ」
「そうだけど……」
美咲の表情に、少しずつ明るさが戻る。
「もし好きだって分かったら、水瀬くんはどうする?」
「相手による」
「どんな人ならいいの?」
「一ノ瀬さんを大切にする人」
悠真が答えると、美咲は目を丸くした。
「それだけ?」
「他に必要なものがあるか?」
「その人が、勉強できなくても?」
「一ノ瀬さんが教えればいい」
「運動が苦手でも?」
「一ノ瀬さんができるなら問題ないだろ」
「料理ができなかったら?」
「……教えてやればいい」
美咲は一瞬だけ口元を緩めた。
「家事が全部苦手で、部屋が散らかってても?」
「それは、本人に直す気があるかどうかだな」
「黒と灰色の服しか持ってなくても?」
「服は関係ないだろ」
「学校を気分で休んでも?」
「一日くらいなら許してやれ」
そこまで答えて、悠真は気づいた。
美咲が挙げているのは、すべて自分のことだった。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「遊んでるのか?」
「少しだけ」
美咲は楽しそうに笑った。
先ほどまでの寂しそうな表情は、もう残っていない。
「でも、水瀬くんは優しいね」
「どこが?」
「私の好きな人が、私を大切にする人ならいいって言ってくれたから」
「普通だろ」
「もし、それが水瀬くんの知らない人でも?」
悠真はすぐに答えられなかった。
美咲の隣へ、自分ではない誰かが立っている。
毎朝一緒に学校へ行くのも、夕食を囲むのも、その相手になる。
自分の知らないところで、美咲がその誰かに笑顔を向ける。
想像しただけで、胸の奥に鈍い痛みが生まれた。
「……あまり嬉しくはないかもしれない」
悠真は正直に答えた。
美咲の瞳が大きくなる。
「どうして?」
「分からない」
「私が桜井さんのことを嫌だと思ったのと、同じ?」
「たぶん」
美咲は胸元へ料理本を抱きしめた。
頬を赤くしながら、嬉しさを隠せないように目元を緩める。
「そっか」
「何だ?」
「水瀬くんも、少しは嫉妬してくれるんだね」
「嫉妬だと決まったわけじゃない」
「でも、嫌なんでしょう?」
「少しだけだ」
「私は、もう少し嫌だったよ」
美咲は照れくさそうに笑った。
「だから今は、私のほうが少しだけ水瀬くんを気にしてるのかもね」
意味を尋ねる前に、美咲は先に歩き出した。
「帰ろう、水瀬くん」
「ああ」
悠真はその隣へ並んだ。
美咲の気になる相手が、誰なのか。
答えは目の前にあるはずなのに、悠真はまだ確信を持てなかった。
◇
週が明けた月曜日。
登校した悠真は、自分の席で本を読んでいた。
前の席では、孝太郎が落ち着きなく身体を揺らしている。
「答案、今日返ってくるよな」
「たぶんな」
「水瀬は怖くないのか?」
「何が?」
「点数だよ。赤点だったらどうする?」
「そのとき考える」
「余裕だなあ」
孝太郎は机へ突っ伏した。
「俺、数学は絶対に赤点だ」
「最後の問題以外は、半分くらい解けただろ」
「どうして知ってる?」
「終わったあとに言ってた」
「覚えてるのかよ」
孝太郎は顔だけを上げた。
「水瀬は、最後の問題も書いたんだよな?」
「一応」
「答えは?」
「覚えてない」
「絶対に嘘だろ」
孝太郎が疑わしそうに目を細める。
そのとき、教室の扉から美咲が入ってきた。
友人たちへ挨拶をしながら、自分の席へ向かう。
途中で悠真と目が合うと、その表情が柔らかくなった。
「おはよう、水瀬くん」
「おはよう」
「お弁当、鞄に入ってた?」
「ああ」
今朝、部屋を出ると、美咲が弁当の入った紙袋を渡してきた。
中には今日も小さなメモが入っているらしい。
まだ内容は見ていない。
「今日も一ノ瀬の手作り弁当かよ」
孝太郎が呆れたように言う。
「完全に夫婦じゃん」
「ち、違うよ」
美咲の顔が赤くなる。
「ただの隣人だから」
「ただの隣人は、毎日弁当を作らないだろ」
「私の分を作るついでなの」
「二つ作ってる時点で、ついでじゃなくない?」
美咲は言葉を詰まらせた。
助けを求めるように悠真を見る。
「放っておけ」
悠真が孝太郎へ言う。
「一ノ瀬さんが困ってる」
「はいはい」
孝太郎は椅子へ座り直した。
「水瀬は一ノ瀬にだけ優しいよな」
「そうか?」
「そうだよ」
孝太郎が答えるより先に、美咲が嬉しそうに頷いた。
悠真が顔を向けると、彼女は慌てて表情を整える。
「今、嬉しそうだったな」
「気のせいだよ」
「笑ってた」
「水瀬くんが私を守ってくれたから、少しだけ嬉しかったの」
美咲は恥ずかしそうに髪を耳へかけた。
「ありがとう」
「礼を言うほどじゃない」
「それでも、ありがとう」
美咲は柔らかく微笑み、自分の席へ向かった。
◇
一時間目の数学。
教師が教室へ入ってくると、教卓の上へ答案用紙の束を置いた。
教室の空気が一気に重くなる。
「試験を返すぞ」
生徒たちの間から、小さな悲鳴が上がった。
「平均点は六十八点。最後の問題は正答率が三パーセントだった」
「三パーセント?」
孝太郎が絶望したように呟く。
「解けなくても気にする必要はない。あれは満点を取らせないために入れた問題だ」
教師は答案を出席番号順に返していく。
「一ノ瀬」
「はい」
美咲が前へ出る。
「九十八点。惜しかったな」
「ありがとうございます」
教室内から感嘆の声が上がった。
美咲は少し悔しそうに唇を結びながらも、教師へ頭を下げて答案を受け取る。
自分の席へ戻る途中、一瞬だけ悠真へ視線を向けた。
「水瀬」
名前を呼ばれる。
悠真は席を立ち、教卓へ向かった。
教師はすぐに答案を渡さなかった。
紙面へ目を落としたまま、何かを考えている。
「水瀬」
「はい」
「お前、この点数でいいのか?」
「どういう意味ですか?」
教師が答案を裏返し、悠真へ差し出した。
得点は八十二点。
予想していた範囲内だった。
平均より十四点高いが、注目されるほどの点数ではない。
ただし、答案の内容には不自然な点がある。
「前半の基本問題を三つ間違えている」
教師は赤い印がついた部分を指さした。
「そのうち二つは、途中式すら書かれていない。ところが――」
答案をめくり、最後の問題を見せる。
「正答率三パーセントの問題は、完璧に解けている」
教室内が静かになった。
孝太郎が驚いた顔で悠真を見ている。
美咲も、答案を持ったまま動きを止めていた。
「偶然です」
悠真が答える。
「偶然で解ける問題じゃない」
「似た問題を見たことがあったので」
「試験前に勉強はしていなかったと聞いたが?」
「昔、問題集で見たのかもしれません」
教師は悠真を真っすぐ見つめた。
疑っている。
けれど、証拠はない。
「まあいい」
教師は小さく息を吐いた。
「ただ、前にも言ったように、俺はお前がもっとできると思っている」
期待している。
前回と同じ言葉が続くかもしれない。
悠真の身体が僅かに強張った。
しかし教師は、それを口にしなかった。
「次は基本問題も落とすな。席へ戻れ」
「はい」
悠真は答案を受け取り、自分の席へ戻った。
美咲の横を通り過ぎる。
彼女は何も言わなかった。
ただ、机の下で小さく親指を立てていた。
その表情は、誇らしそうに緩んでいる。
◇
休み時間になると、孝太郎がすぐに振り返った。
「水瀬! 最後の問題、正解だったのか?」
「ああ」
「どうやって解いた?」
「普通に」
「普通に解ける問題じゃないって先生も言ってただろ」
「運がよかっただけだ」
「運で途中式まで完璧にはならないだろ」
孝太郎は悠真の答案へ顔を近づけた。
「本当に数学得意なんじゃないか?」
「八十二点だぞ。学年一位は九十八点だった」
「でも、最後の問題は一ノ瀬も間違えたんだろ?」
孝太郎の言葉に、美咲の手が僅かに止まる。
「うん」
美咲は自分の答案を持ち、悠真の机へ来た。
「私は、途中で場合分けを一つ忘れてたの」
答案には、大きな丸が並んでいる。
最後の問題だけ、途中式の終盤から赤い線が引かれていた。
「水瀬くんの答案、見せてくれる?」
「嫌だ」
美咲は目を丸くした。
「どうして?」
「一ノ瀬さんなら、自分で間違いを直せるだろ」
「それはできるけど」
美咲は少し考えたあと、悠真の耳元へ顔を寄せた。
「私との約束の一問でしょう?」
周囲に聞こえないほど、小さな声だった。
「ああ」
悠真も小声で答える。
美咲の表情が、柔らかく緩んだ。
「見せて」
「それでも嫌だ」
「どうして?」
「恥ずかしい」
悠真が正直に答える。
美咲は何度か瞬きをした。
「水瀬くんが?」
「悪いか?」
「ううん。少し意外だっただけ」
美咲は嬉しそうに笑った。
「それなら、あとで二人のときに見せて」
「それも嫌だ」
「お願い」
美咲は胸の前で両手を合わせ、僅かに首を傾げた。
「水瀬くんが書いた、本当の答えを見たいの」
断っても、諦めないだろう。
「分かった」
悠真は小さく息を吐いた。
「帰ってからだ」
「うん」
美咲は嬉しそうに頷いた。
「今日の夕食のあとに見せてね」
孝太郎が、二人の顔を交互に見る。
「何の約束だ?」
「何でもない」
「二人だけの秘密?」
美咲の頬が僅かに赤くなる。
けれど、今回は否定しなかった。
「うん」
彼女は答案を胸元へ抱き、柔らかく笑った。
「水瀬くんと私だけの秘密」
その言葉を聞いた悠真の胸が、静かに高鳴った。
秘密なら、他にもある。
美咲はまだ知らない。
悠真がかつて天宮レイだったこと。
彼女の初恋の相手が、今目の前にいること。
それでも、二人だけで共有できる秘密が初めて一つ生まれた。
それが悠真には、少しだけ嬉しかった。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




