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逃亡の報

「――これ以上は、死人でございます」

天正十四年、初秋。岡崎城の隅に置かれた井伊隊の陣屋には、冷え冷えとした沈黙が立ち込めていた。木俣守勝の前に膝をつき、絞り出すような声で訴えたのは、疲れ果てた表情の組頭であった。

主である井伊直政がいなくなった隙を突くような、決死の直訴であった。

守勝は、手元の兵糧割当の算用状を置き、男の顔を正面から見た。その目は赤く充血し、数日で数歳老いたかのような形相だ。

「また、兵部殿より仕置を受けたか」

「仕置などという生易しいものではございませぬ……」

男の拳が、膝の上で白く震える。

「昨日の行軍の折、わずかに列が乱れた者がおりました。兵部少輔様はそれを目ざとく見つけるや、全軍を止め、その者の前に馬を寄せられました。そして、『その足並みの乱れは、徳川への不忠である。戦場でその一歩がどれほどの死を招くか考えぬのか。貴様に武士を名乗る資格などない。今すぐ刀を置き、土にまみれてくわでも振っておれ』と……。全兵の前で、これ以上ない辱めを受けたのです」

守勝は奥歯を噛みしめた。武士にとって「帰農しろ」という言葉は、死ねと言われるよりも残酷な宣告だ。

「……それだけか?」

守勝が静かに問いかけると、男はさらに深く首を垂れた。

「いえ。今朝は書状の筆跡が乱れていると、文官までもが『この乱れは心の乱れ、徳川の政を汚す不浄だ。百姓にすら劣るその指、切り落として去れ』と苛烈な叱責を……」

まだあるのか、と守勝は内心で呻いた。

武のみならず、文、果ては日常の些細な振る舞いに至るまで。兵部が要求する「完璧」という名の刃は、全方位に、そして無差別に向けられている。兵たちが耐えきれず、心が決壊していく音が守勝の耳には聞こえるようだった。

「守勝様、兵たちの間では、影でこう囁かれております。あのお方は敵を斬る赤鬼ではなく、身内を斬り刻む『人斬り兵部』であると」

人斬り兵部。

その忌まわしい呼び名が守勝の胸を突く。敵に恐れられる武名ではなく、味方に絶望を与える汚名として、その名は陣屋の隅々にまで毒のように回っていた。

「その逃げ出した者たちの行先、心当たりはあるか」

「……本多様か、あるいは榊原様の隊へ向かったとの噂にございます。あちらならば、まだ『人』として扱ってもらえると、皆が……」

守勝は男を下がらせると、独り陣屋の柱に背を預けた。

守勝は徳川家康の家臣であり、直政を監視し、支えるために家康から直接付けられた身だ。

井伊の生え抜きではない。いわば「他所者」の目付け役であった。

だが、守勝の妻・景は、かつて今川の追手から幼い直政を救い、育て上げた恩人・新野親矩の娘であった。親矩は直政の母の兄にあたるため、守勝と兵部は駒を通じて義理の従兄弟という関係にある。

直政より年上で、姉代わりとして彼を慈しんできた駒は、夜更けに守勝へ漏らしたことがある。

『お虎は、ただの焦りであのような振る舞いをなさるのではありません。井伊の血を絶やさず、徳川様の一番槍であり続けねば、明日をも知れぬ淵に沈む……。そう信じて、一寸の休みもなく己を削っておられるのです』

「お虎」という幼名で兵部を呼ぶ駒の瞳には、弟への深い憐憫があった。その言葉を思い出すたび、守勝の胸には、家康の臣としての冷徹な視線と、親類としてのやりきれない情が混じり合った。

かつて没落し、這い上がるようにして家名を再興させた直政。彼にとって、部下は「共に戦う仲間」ではなく、一点の曇りも許されぬ「家康への献上品」でなければならなかった。献上品に傷は許されない。その思いが、彼を狂気へと駆り立てている。

(兵部……貴殿の正しさは、いずれ貴殿自身を殺すぞ)

主のいない陣屋は不気味なほど静まり返り、残された兵たちは息を潜めて、赤鬼の帰還を恐れている。守勝は、重い腰を上げた。他家へ逃げ込んだ者を連れ戻すためではない。その「差」を、自分の目で確かめなければ、自分自身の心もまた、この陣屋の冷気に呑み込まれてしまいそうだったからだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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