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「まぁ、そういう感じだったのよね」
指に挟んだボールペンをくるくると回しながら、櫻井佳菜子は言った。右手の中指と薬指に挟まれたペンが回る度、キャップに付いている金具が日の光に反射してきらりと光る。
「何言ってんだよ。大丈夫か」
四人掛けのダイニングテーブルで、佳菜子と向かい合わせに座った櫻井祥太朗は、淹れたばかりのコーヒーに、ミルクと砂糖を入れようかどうしようかとひとしきり悩んだ後、
「もうそろそろブラック飲む年なんじゃねぇの、俺達」と恰好つけていた友人の言葉を思い出し、シュガーポットの蓋に掛けていた手を離した。鼻に近づけて、それらしく香りを楽しむ素振りを見せてからゆっくりと口を付け、その苦さに眉をしかめる。
――ミルクくらい、いいよな。
「ちょっとちょっとぉ! 親に向かって大丈夫かはないでしょうよ。だいたい、アンタが父さんとの馴れ初めを聞かせろって言うから――」
「あのさ、こっちは真剣に聞いてんだっての。宿題なんだよ、しゅーくーだーい!」
やっぱりミルクを入れて正解だった。いや、出来ればもう一つくらい入れたいけど。
でも、眉間にしわを寄せながらゆっくりと苦いコーヒーを啜る姿はなかなか様になっている気がした。
「親の馴れ初めを宿題にするってどういうことよ。小学生の作文じゃあるまいし」
佳菜子は少々気分を害した様子だったが、もともと子どものような女性なのだ。甘いものでも差し出せばたちまちのうちにご機嫌になるだろう。
祥太朗はしぶしぶ、『俺専用・開けるな!』という紙の貼られた戸棚から、秘蔵のチョコレート菓子を取り出し、佳菜子のお気に入りのガラスの器に丁寧に盛って差し出した。
「作文なんかじゃねぇよ。馴れ初めを英訳しろって。なーんかロマンチストな先生なんだよなぁ。あ、新婚だからかな。関係ないか」
「英訳ねーぇ、あら、気が利くじゃない。いただきまぁす」
ほら、ね。
にこにこと嬉しそうな顔で銀色の包み紙を破る母の姿を見て、祥太朗は胸を撫で下ろした。
全く、どっちが子どもなんだか。
「そんなわけで、さ。俺、英語苦手だし絶対時間かかるから、このインタビューの時間は短めにしときたいんだよ。母さんの絵本の話はさ、小さいころから何回も聞かされてんだから知ってっから」
英語が苦手なのは本当だ。ただ、急いでいるのは英訳に時間がかかるから、だけではない。十六時には『友人』の家に行くことになっているからだ。現在十四時。充分余裕はあるが、思春期の男というものは仕度に時間がかかる。
「なーにが『知ってる』よ。これがノンフィクションだって何回言っても信じてくれない癖に!」
「ノンフィクションだって、よっく言うぜ! そもそも母さん視力めちゃくちゃいいじゃねぇか! 二、0以上あるだろ、絶対! これだからファンタジーに生きる絵本作家様はさー」
祥太朗もご相伴にあずかろう(もともと祥太朗のものなのだが)と器に手を伸ばすと、手の甲をぺちっと叩かれた。気付くと菓子は最後の一枚である。すごすごと手を引っ込める。
「視力がいいのは当たり前よ。だって『いだいなる』父さんが作ってくれたのよ?」
そういって佳菜子は黒縁の眼鏡を外して、大きく瞬きをしてみせた。この眼鏡はもちろん伊達だが、昨今はパソコンやスマートフォン等からのブルーライトをカットするレンズがあるらしく、目にいいから、と店員に勧められて購入したのだった。そして「なーんか知的に見えるわねー。作家度アップなんじゃなーい?」と大層気に入っているようだ。
「よーくよーく見てみなさい。右の黒目の端っこの方……薄い茶色のところに……父さんのサインが入ってるから」
「は?」
そう言って佳菜子は目を大きく見開き、ぐっと顔を近づけた。実の母親といえども、こんなに顔を近づけられるとドキッとした。これが千鶴だったら……と考えて頬を赤くする。
「ちょっとー、照れてないで早くしてよーう。乾いちゃうでしょー」
「照れてねぇって!」
まぁ、まぁ、我が親ながら、きれいな方だよな。十九で俺を産んでるから、まだ三十五だしな……って、何だこれ!
「何だこれ!」
「やっと見つけたー? あー、乾いた乾いたー」
そう言って、佳菜子は瞳を潤ませながら何度も瞬きをした。作家度アップのアイテムを再度装着する。
あった、確かにあった。何て書いてるかまでは読めなかったが、サインらしきものが眼球に書いてあった。
いや、でもコンタクトだろ? 眼球に直接サインとか、ハードすぎるだろ、父さん!
「いやいやいやいや、騙されねぇよ、俺。それ、コンタクトだろ」
深呼吸をして、平常心を取り戻す。この母親の悪戯はいろいろと質が悪い。今回のもそうだろう。いつの間にコンタクトを装着していたのかはわからないが、いつか驚かせてやろう、と前々から仕込んでいたのかもしれない。この母ならやりかねない。そういう性格なのだ。
しかし、ここで、祥太朗も予想出来ない出来事が起こる。
「仕方ないなぁ、これなら信じてくれる?」
そう言って佳菜子は右目を抉りだしてしまったのだ。そして、黒目をつるつると撫でた。
「ね、コンタクトなんてしてないでしょ? 祥ちゃんも触ったらわかるよ。サインのところ、ちょっとでこぼこしてるから」
驚きすぎて、声も出ない。
「え? あらら? 祥ちゃん? しょーうちゃーん! ちょっとやーだ、固まらないでよー」
「……っえ? ああいやいや大丈夫。大丈夫だけど。やっぱ大丈夫じゃないかも……。母さん、義眼だったの……?」
そう言うのがやっとだった。心臓はまだバクバクと強く波打っている。深呼吸をして落ち着こうにも、なかなか呼吸が整わなかった。
「ちょっと落ち着いてって。肝っ玉の小さい子ねぇ」
佳菜子はあっけらかんと笑っている。誰のせいだよ。右目はいつの間にか、元のところに収まっていた。
「じゃ、じゃあさ、いいよ、わかったよ。ノンフィクションってことでいいよ。夢見がちな母さんに付き合ってやるよ」そう言って、大きく息を吐く。だいぶ落ち着いてきた。
「なんか棘のある言い方ねぇ」口を尖らせる。子どもか。
「で、何? 父さんが『いだいなる』魔法使いで? 当時盲目だった母さんの目を治して?」
「作って!」すぐさま訂正が入った。大事なところらしい。
「ああごめんごめん『作って』、ね。で、俺が産まれたってことでいいの? ん? そしたら俺も魔法使いなわけ? つうか、父さんは『いだいなる』魔法使いなのに病死しちゃったの? 人の眼球作れるのに?」
『病死』と口にした時、胸がちくっとした。茶化すテンションで出すワードじゃなかったよな。
「祥太朗……さっきの続き、教えてあげようか。『それなら わたしが およめさんになるわ』の続き。あの本は『それから ふたりは すえながく しあわせに くらしました』で締めちゃったけど……。」
やけに真剣な顔で、佳菜子は言った。こんな真面目な顔、久しぶりに見た気がする。