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第十八話 普通の人

「怖いのと、あなたが間違ってることは、別です」


 遼は何も言えなかった。


 水城はまだ右腕を押さえている。


 指先の震えも止まっていない。


 それでも、遼から目を逸らさなかった。


 少し離れた場所では、警察官と探索者たちが倒れている解放同盟の人間を一人ずつ拘束している。


 久我一家もすでに保護されていた。


 倉庫の壁には大きな穴が開き、その向こうには夜の山が見える。


 遼は自分の右手を見た。


「俺、本当に殺すところでした?」


「はい」


「でも、一応止めようとは――」


「止まってませんでした」


「……そうですか」


「そうです」


 遼はもう一度、吹き飛んだ壁を見る。


 あの拳が少しずれていなかったら。


 そこにあったのは壁ではない。


 佐伯の頭だった。


「水城さんがいなかったら?」


「死んでたと思います」


「佐伯さんが?」


「はい」


 水城の答えに迷いはなかった。


 遼はしばらく黙った。


「……そっか」


「今さら実感しました?」


「ちょっと」


「遅いです」


「すみません」


「謝る相手は私じゃありません」


 遼は佐伯を見る。


 すでに両手を拘束され、警察官二人に挟まれている。


 それでも、こちらを見ていた。


 さっきまでの笑顔はない。


 遼は少し迷ってから近づいた。


「佐伯さん」


「はい」


「さっきは、ごめんなさい」


 佐伯が目を見開く。


「殺すところでした」


「……」


「あなたのやったことを許すつもりはないです。でも、俺が殺していい理由にはならなかった」


 佐伯はしばらく遼を見ていた。


「やはり」


 口元が少しだけ緩む。


「あなたは――」


「それ以上言ったら、水城さんに怒られますよ」


「神代さん?」


「ほら」


 遼は水城を見る。


「もう怒ってる」


「誰のせいですか」


「俺ですね」


 佐伯は二人を交互に見た。


 それから、小さく息を吐く。


「神代様」


「その呼び方もやめてください」


「……神代さん」


「はい」


「我々を捕らえても、終わりませんよ」


 遼の表情が僅かに変わった。


「どういう意味です?」


「解放同盟という名前を使ったのは我々です。しかし、あなたを必要としている人間は我々だけではない」


「仲間がほかにも?」


「そういう意味でもあります」


 佐伯は倉庫の外へ目を向けた。


「ですが、それだけではありません。あなたを自由の象徴として見る者。国家より上の存在だと考える者。あなたの力を利用したい者。あなたの敵を、自分の敵だと思う者」


 遼は黙って聞いた。


「もう、我々が消えれば終わる段階ではありません」


「だから何です?」


「何も」


 佐伯は静かに笑った。


「ただ、あなたが望む『普通』は、もう存在しないかもしれないということです」


 遼の眉が寄る。


 警察官が佐伯の腕を引いた。


「行くぞ」


 佐伯は抵抗しなかった。


 遼の横を通り過ぎ、そのまま倉庫の外へ連れていかれる。


 遼はその背中をしばらく見ていた。


「気にしないでください」


 水城が隣へ来る。


「無理ですよ」


「ですよね」


「普通に暮らしたいだけなのに」


「それは知ってます」


 遼は水城を見る。


 そして、さっきから気になっていたことを思い出した。


「そういえば」


「何です?」


「水城さん」


「はい」


「最初から、俺を止めるために担当になったんですか?」


 水城の表情が僅かに変わった。


 否定しない。


 それだけで答えは分かった。


「……やっぱり?」


「最初は、そうです」


 遼は少し黙った。


「最初は」


「はい」


「俺の監視役?」


「監視だけではありません」


「じゃあ?」


「万が一、神代さんが誰かへ危害を加えそうになった場合に、少しでも対応できる人間を近くに置く必要があると判断されました」


「それで水城さん」


「はい」


「最初から俺、危険人物だったんだ」


「能力も分からない。十年間何をしていたのかも分からない。戻ってすぐに黒崎さんの件もありましたから」


「……まあ」


 遼は苦笑した。


「俺でもそうするか」


「でしょう?」


「でも、ちょっと嫌ですね」


「何がです?」


「ずっと監視されてたと思うと」


 水城は少し考えた。


「ずっとではないですよ」


「え?」


「最初はです」


「さっきも言いましたね」


「今は」


 水城は遼を見る。


「面倒な四十二歳の担当です」


「ひどくない?」


「事実です」


「S級相当の人に面倒って言われるの嫌だな」


「対人戦闘だけです」


「そこ大事なんですね」


「大事です。公式のS級探索者と一緒にしないでください」


「でも黒崎さんより速くない?」


「対人なら、たぶん」


「やっぱり強いじゃないですか」


「だから対人だけです」


 水城は自分の右腕を軽く振った。


 まだ動かしにくそうだった。


「私は大型魔物を倒す火力がありません。階層主相手に高速で走り回れても、傷をつけられなければ攻略できないでしょう」


「なるほど」


「探索者の等級は、人間と喧嘩して決まるものじゃありませんから」


「じゃあ俺と戦ったら?」


「逃げます」


 即答だった。


「早いな」


「勝てませんから」


「でも、さっき止めた」


「止めてません」


「まだ言う?」


「逸らしただけです」


「本気で戦っても?」


「逃げます」


「〈迅雷〉使って?」


「全力で」


「それなら追いつけるかな」


「追ってこないでください」


「やってみたいな」


「絶対嫌です」


 遼は少し笑った。


 水城はため息を吐く。


「本当に反省してます?」


「してますよ」


「その顔で?」


「ちゃんと」


 遼は笑うのをやめた。


 少し間を置く。


「水城さん」


「はい」


「今日、俺……本当に危なかったんですね」


「はい」


「殺さないって約束したのに」


「はい」


「忘れてたわけじゃないんです」


「分かってます」


「頭にはあった」


「はい」


「でも、止まらなかった」


 水城は何も言わなかった。


 遼は右手を見る。


「地下では、それでよかったんですよ」


「……」


「殺さないと自分が死ぬ時もあった。考えてる時間なんてない時もあった。だから、身体が先に動く方が生き残れた」


「はい」


「でも地上だと」


 吹き飛んだ壁を見る。


「同じじゃ駄目なんですね」


「そうですね」


 遼は少し俯いた。


「俺、地上に戻ってきて大丈夫だったのかな」


 水城はすぐに答えなかった。


 遼が顔を上げる。


「そこは『大丈夫です』じゃないんだ」


「分かりませんから」


「正直ですね」


「神代さんが間違ったら全部私が止めればいい、という話でもないですし」


「でも今日止めた」


「毎回できると思わないでください」


 水城は右腕を見せた。


「まだ痺れてます」


「ごめんなさい」


「だから」


 水城は遼を見る。


「間違った時に誰かから止めてもらえばいい、じゃなくて」


「はい」


「自分で止まれるようになってください」


 遼は黙った。


「四十二歳なんですから」


「十年分引いたら三十二ですよ」


「引きません」


「地下にいたのに?」


「年齢は進んでます」


「厳しいな」


「普通です」


 その言葉で遼の表情が少し変わった。


「普通」


「何です?」


「いや」


 遼は倉庫の外を見る。


 赤色灯。


 警察官。


 武装した探索者。


 手錠をかけられて連れていかれる人間たち。


 壁に開いた大穴。


 どう考えても普通ではない。


「難しいですね」


「何が?」


「普通に暮らすの」


「最初から簡単だとは言ってません」


「でも、やりたいんですよ」


「なら練習してください」


「普通って練習するもの?」


「神代さんの場合は必要かもしれません」


「ひどいな」


「事実です」


 遼はまた少し笑った。


 事情聴取が終わった頃には、空が明るくなり始めていた。


 久我一家は病院へ運ばれ、解放同盟の人間たちは警察へ引き渡された。


 遼も家へ戻ることを許された。


 水城は別の車で協会へ向かうらしい。


「じゃあ、また後で」


「今日くらい寝てください」


「水城さんも」


「私は仕事があります」


「ブラックですね」


「誰のせいで増えたと思ってるんです?」


「……俺?」


「正解です」


「ごめんなさい」


「本当に思ってます?」


「半分くらい」


「最低です」


「また?」


 水城は呆れたように車へ乗り込んだ。


 遼はその場で見送った。


 家へ戻る。


 玄関を開ける。


 昨日までと何も変わらない自分の家だった。


 ソファ。


 テーブル。


 冷蔵庫。


 まだ少ない家具。


 遼は靴を脱ぎ、ソファへ座る。


 そこで初めて、身体の力を抜いた。


 眠い。


 かなり疲れた。


 魔物と戦った時とは違う疲れ方だった。


 スマートフォンをテーブルへ置こうとして、画面が光った。


 通知。


 大量に来ている。


「……嫌な予感するな」


 開く。


 すでに動画が出回っていた。


【神代遼、解放同盟を単独制圧】


「単独じゃないけど」


 映像は倉庫の外から撮られたものらしい。


 警察が到着した後の戦闘。


 煙の中から出てくる遼。


 武器を折る遼。


 何人もの探索者を次々に倒していく遼。


 そして最後。


 倉庫の壁が吹き飛ぶところまで映っていた。


「これ水城さん映ってないの?」


 何度か見返す。


 速すぎるのか、一瞬何かが横切ったようにしか見えない。


「……すごいな、あの人」


 コメント欄を開く。


《二十人以上相手に無傷》


《これ人間なの?》


《S級でも無理だろ》


《やっぱり神代が世界最強》


《解放同盟とか最初からいらなかったじゃん》


《神代一人いれば全部終わる》


《もう国より強いだろ》


《神代さんが世界管理した方が平和じゃね?》


《誰がこいつ止められるんだよ》


《神じゃん》


《神代遼はもう人間じゃない》


 遼の指が止まった。


 最後のコメントを見る。


《神代遼はもう人間じゃない》


 いいねの数が増えていく。


 数百。


 千。


 さらに増える。


 遼はしばらくその文字を見ていた。


 世界最強。


 神。


 法律。


 王。


 今度は。


 人間じゃない。


 スマートフォンを伏せる。


 誰もいないリビングが静かになった。


 遼はソファへ背を預け、天井を見る。


「……人間だよ」


 誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。

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