第8話:閉ざされた扉、揺るがぬ愛
第8話:閉ざされた扉、揺るがぬ愛
2000年代初頭。
日本中が新しいミレニアムの到来に沸き、IT革命の波が押し寄せ、世界が急速にデジタルへと塗り替えられていく中で、時の止まった場所があった。
東京拘置所。その分厚いコンクリートの壁の向こう側では、一人の男の運命が、司法という名の巨大な歯車によって冷酷に、そして確実に粉砕されようとしていた。
松山寛の無実を信じる人々は、決してゼロではなかった。国選弁護人を務めた、まだ理想に燃える若手弁護士の田中や、数人の人権団体のメンバーで構成された「松山寛さんを救う会」の面々は、絶望的な暗雲が立ち込める中で、再審請求(裁判をやり直すための手続き)の準備を不眠不休で進めていた。
「寛さん、もう一度だけ、あの日のことを詳しく話してくれないか? どんな小さなことでもいいんだ」
面会室のアクリル越しに、田中が身を乗り出して問いかける。しかし、寛は怯えた小動物のように視線を泳がせ、自分の大きな掌を落ち着きなく擦り合わせるだけだった。
事件から数年。取り調べの密室で植え付けられた「自白」という名の呪縛は、彼の柔らかい心を深く傷つけ、今や「真実」を語ろうとすると、当時の恐怖がフラッシュバックしてパニックに陥るようになっていた。
「パパ……パパ、いい子にしてた。でも、怒られたの。怖いおじさんが、パパが悪い子だって言ったの……。あさちゃんに会うには、悪い子だって言わなきゃダメだって……」
寛の言葉は断片的で、法的な「証拠」としての価値を認めさせるにはあまりにも脆かった。
田中ら弁護団は、現場に残された足跡の不自然さや、寛の知能指数では到底不可能な複雑な犯罪計画、そして何より、目撃証言の曖昧さを執拗に訴え続けた。
「裁判長! 被告人は、人を殺めるような人間ではありません。彼は、心優しき6歳の子供なのです。自分の服が汚れることさえ気にせず、倒れた少女を助けようとした。その無垢な善意を、警察は『返り血』という言葉ですり替えたのです!」
法廷で田中が喉を枯らして叫ぶ。しかし、司法の壁は、冬のシベリアの氷のように高く、冷たかった。
「再審の請求を、棄却する」
裁判所が下した結論は、残酷なまでに無慈悲だった。
新しく提出された証拠は「明白な無罪」を証明するには至らないと、紙切れ一枚の論理で切り捨てられた。最高裁でもその判断は維持され、200X年のある日、ついに松山寛の**「死刑」が確定した。**
それは、国家が「この男を死なせる」と最終的な宣告を下したことを意味していた。
「死刑確定」の報は、拘置所の雑居房にも、まるで毒ガスのように重苦しく流れ込んできた。
日本の矯正施設において、死刑が確定した囚人は、それまでの雑居房生活から即座に「独居房(独房)」へと移される。外部との接触は、弁護士やごく限られた親族を除いて、事実上完全に遮断されることになる。
「ヒロ……」
リーダー格の大滝が、声を詰まらせて寛を見た。
寛は何が起きたのか、その法的な重みを正確には理解していなかった。ただ、「もうここにはいられない」「大好きだった大滝さんやみんなとはお別れだ」ということだけを、看守たちの、昨日までとは明らかに違う冷淡な態度から、動物的な直感で察していた。
「大滝さん……パパ、どっか行くの? あさちゃんのところへ帰るの? 電車、乗るの?」
無邪気に問いかける寛に、房の男たちは誰も答えることができなかった。
詐欺師も、窃盗犯も、傷害犯も、この一年間、自分たちの荒んだ心に一筋の陽光を灯し続けてくれたこの「6歳のパパ」との別れに、胸を締め付けられていた。
大滝は、震える手で寛の逞しい肩を力いっぱい抱きしめた。
「いいか、ヒロ。よく聞け。これからお前が行く場所は、一人ぼっちで寂しいかもしれない。でも、お前はどこへ行っても『いい子』でいろ。あさちゃんは、賢い子だ。必ず、世界中を探してでもお前を見つける。それまで、絶対に、絶対に諦めるな」
寛は、房の男たち一人ひとりの顔を、忘れないようにじっと見つめた。
「みんな、ありがとう。パパ、おうちに帰る練習、頑張るね。あさちゃんに褒めてもらえるように、パパ、泣かないよ」
看守に促され、寛は数少ない自分の荷物――麻子からもらった、あちこちが破れた折り紙のコマと、大滝たちが平仮名を教えてくれた古びた自由帳――を大切に胸に抱えて歩き出した。
重い鉄格子の扉の向こうへと消えていく彼の背中は、35歳の男のそれとは思えないほど小さく、守ってくれる親を求めている子供のように、あまりにも無防備だった。
そのニュースを、麻子は親戚の家の、煤けたリビングにある古いテレビで見ていた。
画面の中で、アナウンサーが感情を排した無機質な声で「埼玉県幼女殺害事件、松山被告の死刑確定」というニュースを読み上げている。
親戚たちは、テレビの前で安堵の溜息をついていた。
「やれやれ、これでようやく終わったね。名字を変えておいて本当に良かった。これで厄介払いができたというもんだよ」
「あんなのが親類にいたなんて、一生の恥だよ。死刑になれば、世の中も少しは静かになる」
その言葉は、麻子の耳には届かなかった。
彼女は泣かなかった。泣くことさえ忘れていた。
麻子はただ、唇を噛み切り、血が滲むほどに拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。その痛みだけが、自分はまだ生きていること、そしてまだ戦えることを証明していた。
(終わらせない……絶対に、終わらせない)
麻子はその夜、親戚たちの目を盗み、古い学習机の奥深くに隠していた「ひまわりの絵」を取り出した。
あの日、ひだまり荘で父が描いた、歪で、不格好で、けれど太陽よりも眩しい笑顔をした、大好きなひまわりの花。
司法が、父を「死刑囚」という記号で呼ぶのなら。
世界が、父を「悪魔」として葬り去ろうとするのなら。
自分は、そのすべてをひっくり返す「正義」そのものになってやる。
麻子は、それまで学校で集めていた、同級生たちと同じキラキラとした文房具やノートをすべて整理し、段ボールに詰め込んだ。代わりに、近所の古本屋で見つけてきた、持ち上げるのも苦労するほど重く分厚い、一冊の「六法全書」を机に置いた。
まだ小学生の彼女にとって、そこに書かれている言葉は呪文のようで、一文字も理解できなかった。
けれど、彼女はページを捲り続けた。
父が、自分を守るために「いい子」でいると約束したように。
自分も、父を迎えに行くために、この世界で最強の武器を手に入れると決めた。
「パパ。私は、パパの子供だよ。お留守番、ちゃんとできるよ。……でもね、いつか必ず、私がそのドアを壊して、パパを外に連れ出してあげるから」
200X年。
ひまわりの種が、冷たい絶望の底で、硬い殻を破り始めた。
一人の少女が、折れたクレヨンの代わりに「法」という名の剣を取り、国家という巨大な怪物に挑む、30年に及ぶ孤独で壮絶な「逆襲」が、この瞬間に静かに、しかし熱く始まったのだ。
窓の外では、冬の星座が冷たく光っていた。
それはまるで、パパが「お星様」だと教えてくれた、あのピカピカのボルトのように、麻子の行く道を静かに照らしているようだった。




