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6歳の父へ『あさちゃんと、約束の空』  作者: 水前寺鯉太郎


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第9話:炎のなかの「いい子」

死刑が確定してから、さらに数年の月日が流れていた。

 2000年代に入り、世界はより速く、より複雑に動いていた。しかし、東京拘置所の奥深くに位置する独居房は、外界の喧騒から切り離された、まるで真空地帯のような場所だった。

 寛は一日の大半を、畳三畳ほどの狭い部屋で過ごしていた。高い窓から差し込み、壁にゆっくりと映し出される太陽の影。彼はその影が刻一刻と形を変えるのを、まるで時計の針を数えるようにじっと見つめていた。外界では季節が巡り、麻子が制服を着て、教科書を抱え、大人へと成長していく。その一方で、寛の時間はあの夏の日のまま、凍りついていた。

 彼は毎日、独房の隅で、もう色褪せて端がボロボロになった折り紙のコマを大切そうに回した。

「パパ、いい子にしてるよ。あさちゃん、パパ頑張ってるよ……」

 見えない娘に語りかけるその声は、独房の冷たい壁に吸い込まれて消えていく。彼にとって「いい子」でいることだけが、いつか訪れるはずの「おうちに帰る日」への唯一の条件だった。

 その平穏が、あまりにも唐突に、そして暴力的に破られたのは、湿った風が廊下を吹き抜ける秋の午後だった。将来に絶望した別の受刑者が起こした、自暴自棄な反乱だった。

「どうせ俺の人生、ここで終わりなんだよ! 誰もかも、道連れにしてやる!」

 自室の布団に火を放った男の、獣のような絶叫が静まり返った廊下に響き渡った。古い拘置所の設備は、一度火が出れば火の回りが驚くほど早い。床のワックスや古い木材が火を煽り、瞬く間に目に染みる黒煙が、迷路のような通路を支配した。

「火事だ! 全員避難させろ! 鍵を開けろ!」

 非常ベルが狂ったように鳴り響き、赤色灯が回る。看守たちは怒号を上げ、腰に下げた大量の鍵をじゃらじゃらと鳴らしながら、各房の扉を次々と開けて回った。パニックに陥った受刑者たちが、我先にと煙から逃れるべく、誘導に従って運動場へ向かって雪崩れ込んでいく。

 その喧騒の中心に、刑務課長の及川がいた。

 及川は、拘置所内でも指折りの厳格な男として知られていた。死刑囚である寛に対しても「規則は規則だ」と冷徹に接し、一切の特別扱いを許さなかった。法廷で「死刑」と断じられた者は、等しく社会の敵であり、管理すべき対象だ——それが、彼の揺るぎない信念だった。

 しかし、その彼を絶体絶命の事態が襲った。避難誘導の最終確認を行っていた及川のすぐ背後で、熱に耐えかねた天井の大きな梁がバリバリと音を立てて落下したのだ。爆発的な炎が噴き出し、瞬く間に退路を断った。

「うっ……! げほっ、げほっ!」

 及川は肺を刺すような煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。足元は崩れた瓦礫で塞がれ、行く手は猛烈な勢いで迫りくる火の海だった。

「誰か……誰かいないのか! 助けてくれ!」

 普段の冷徹な威厳はどこへやら、及川の声は恐怖に震え、酸素の薄れゆく中で足がすくんだ。熱気に視界が歪み、死の予感に体が硬直した、その時だった。

「おじさん! だいじょうぶ?」

 煤煙の向こう側から、この世の終わりのような状況には全く不似合いな、場違いなほど穏やかな声が聞こえた。

 松山寛だった。

 看守に扉を開けられ、他の受刑者と同じように避難するはずだった寛は、逃げる途中で瓦礫に挟まれ立ちすくむ及川の背中を見て、反射的に火の中へと戻ってきたのだ。

「松山……!? バカか、逃げろ! 戻るな! ここはもう落ちるぞ!」

 及川は必死に叫んだ。しかし、寛は困ったように、けれど迷いのない笑顔を見せると、熱を帯びた瓦礫を大きな手で力任せにどかし始めた。

「あさちゃんがね、言ってたの。困ってる人がいたら、パパが助けてあげるんだよって。パパ、あさちゃんといい子にするって約束したから。おじさん、助けるよ」

 寛の手が炎に焼かれ、指先に火傷を負うのも構わず、彼は及川の腕を自分の太い肩に回した。

「……重いぞ、松山。俺はいいから、一人で行け! 死刑囚のお前が、刑務官の俺を助けてどうする!」

「だめ。みんな一緒におうちに帰るの。あさちゃん、待ってるから。パパ、一人で帰ったら、あさちゃんに叱られちゃう」

 寛の言葉は、相変わらず子供っぽかった。しかし、及川を支えるその腕の力強さは、これまでの人生で出会ったどんな屈強な男よりも頼もしかった。

 寛は煙を吸わないよう、自分の囚人服の裾を力任せに引き破り、及川の口元に当てた。

「これ、使って」

 自分はむき出しの喉で黒煙を吸い込み、激しくむせ返り、膝をつきながらも、一歩、また一歩と炎の壁を突き破っていく。

「あついね。でも、だいじょうぶ。パパ、強いもん。あさちゃんを守るパパだもん」

「松山……お前……。どうして、こんな……」

 及川は震える手で、寛の泥だらけの、火傷で皮の剥けた手を握った。

 激しい眩暈が及川を襲う。かつて取り調べの密室で、泣き叫ぶこの男を机を叩いて怒鳴りつけ、あらかじめ用意された「自白調書」に無理やり指印を押させたのは、他でもない自分だった。あの時、国家の正義を信じて疑わなかった自分が「悪魔」と断じた男は、今、自らの命を投げ出して自分を救ってくれた。その瞳には、一点の曇りも、かつて自分を陥れた男への報復の意志も、減刑を狙うような計算もなかった。

 この時、一人の冷徹な検事の心の中で、傲慢な司法の城壁が音を立てて崩れ去った。

(私は、取り返しのつかない過ちを犯したのではないか。自分の命よりも他人の命を優先するような男が、あの日、あんな残虐な嘘をつくはずがない――)

 遠くから、無数の消防車のサイレンが近づいてくる。

 寛は、煙の向こうに沈んでいく、あの日の夕暮れによく似た夕日を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「パパ、頑張ったよ。あさちゃん……見ててくれた?」

 数日後。

 「死刑囚、火災から検事を救う」という、およそ前代未聞の奇妙なニュースが、新聞の社会面の片隅に小さく掲載された。

 そのわずか数行の記事を、遠く離れた街の、薄暗い部屋でじっと見つめる少女がいた。

 大きく成長した麻子は、ボロボロになった黄色のクレヨンを握りしめたまま、父の生存と、その変わらぬ魂の純粋さを確信する。

(パパ、生きててくれた。……待ってて。もうすぐ、私がそこへ行くから)

 国家が隠蔽しようとした火災の裏の真実は、静かに、しかし確実に外の世界へと漏れ出していく。

 それは、及川という男の魂を激しく揺さぶり、やがて麻子の前に現れる「最強の味方」へと変えていく、逆襲劇の本当の号砲だった。

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