第10話:段ボールの中の奇跡
第10話:段ボールの中の奇跡
あの拘置所火災から数ヶ月。季節は冬へと向かい、刺すような冷気がコンクリートの壁を伝って独居房の体温を奪っていた。しかし、刑務課長・及川の松山寛に対する眼差しは、冬の寒さとは対照的に、劇的な変化を遂げていた。
自分の命を賭して、自分を冷遇していた看守を救った死刑囚。火傷の痕が痛々しく残る寛の大きな手を見るたび、及川の胸は万力で締め付けられるような激痛に襲われた。
「国家の番人」として、自分は真実から目を背けていたのではないか。法の名の下に、この世で最も純粋な「聖者」を死刑台に送ろうとしているのではないか。その疑念は、もはや消しようのない確信へと変わり、及川の夜の眠りを奪っていた。
「松山、お前に……特別な贈り物をしたい」
ある日の午後、及川は周囲の目を盗み、作業の合間の寛にそっと耳打ちした。
本来、死刑確定囚の面会は厳格に制限されている。アクリル板越しに、看守の立ち会いのもと、わずか15分程度の会話が許されるのみだ。ましてや、身を隠して生きている親族との接触など、通常のルートでは不可能に近い。
しかし、及川は決意していた。この男に、どうしても報いなければならない。それは、法を司る側の人間として、犯してしまった「不義」に対する、彼なりのたった一つの償いだった。及川は、もし発覚すれば自身の職を失うだけでなく、懲戒解雇や刑事罰さえ免れない「究極の規律違反」を計画した。
「あさちゃんに、会わせてやる」
寛はその言葉を聞いた瞬間、目を見開いて硬直した。
「……あさちゃん? パパ、あさちゃんに会えるの? でも、パパ、お外に出ちゃダメって……」
「いいから、俺を信じろ。お前が掃除を担当している奥の備品倉庫だ。そこで待っていろ」
2001年、12月。
月に一度、拘置所に運び込まれる大きな備品用の段ボール箱。トイレットペーパーや清掃用具が詰まっているはずのその箱の中に、10歳になった麻子が息を潜めて隠れていた。
及川は「新年度の備品点検だ。ここは私一人でやる」と言って、他の看守たちを遠ざけた。彼は、まだ重いその箱を、台車に乗せて静かに奥の倉庫へと運ばせた。
カチッ、と倉庫の鍵が閉まる音。
薄暗い倉庫の隅で、寛は不安そうに、そして期待に胸を膨らませて、その大きな箱を見つめていた。
及川が、静かにガムテープを剥がす。その「バリバリ」という音が、静寂に包まれた倉庫内に、まるで福音のように響き渡った。
「パパ……」
箱の中から、鈴の音のような、小さな震える声がした。
ゆっくりと中から立ち上がったのは、寛の記憶にある6歳の少女ではない。見違えるほど背が伸び、少し大人びた表情をし、けれど父と同じ「ひまわりのような瞳」をした、10歳の麻子だった。
「あ、あさちゃん……? あさちゃんなの?」
寛の大きな瞳から、瞬く間に大粒の涙が溢れ出し、煤けた作業服を濡らした。彼は、かつてのように駆け寄って抱きしめようとして、ふと自分の足元を見た。そこには見えない重り――「死刑囚」という消えない烙印が繋がれているかのように、彼は立ち止まった。
(自分は人殺しだと言われている。こんな、お洋服も心も汚れてしまったパパが、綺麗な、大切なあさちゃんに触れていいのだろうか)
「パパ!」
麻子は躊躇することなく、箱から飛び出し、寛の胸に全力で飛び込んだ。
「パパ、パパ! 会いたかった! ずっと会いたかったよ!」
寛の大きな、火傷の痕が残る手が、震えながら麻子の小さな背中に回された。力いっぱい抱きしめたい。けれど、壊れ物を扱うように、彼は優しく、優しく娘を包み込んだ。
「ああ……あさちゃん、本物だ。あったかい……。パパ、いい子にしてたよ。火事のとき、おじさん助けたよ。あさちゃんとの約束、『困ってる人を助ける』、パパ守ったよ」
「知ってるよ。及川さんから聞いたよ。パパが世界で一番優しくて、世界で一番かっこいいパパだってこと、私はずっと前から知ってるから」
二人は、冷たいコンクリートの床に座り込み、積み上げられた段ボールの影で身を寄せ合った。
麻子は、パパの大きな手のひらを自分の頬に当てた。
「パパ、お手々が痛そう。火傷したんでしょ?」
「だいじょうぶ。もう痛くないよ。あさちゃんに会えたから、魔法で治っちゃった」
及川は、倉庫の入り口で、廊下に異変がないか神経を尖らせながら背を向けて立っていた。
背後からは、父娘の囁き声が聞こえてくる。「パパ、学校でね、算数がんばったよ」「そうか、あさちゃんはすごいね。パパはね、ひまわりの絵をいっぱい描いたよ」。
それは、どこにでもある、あまりにも平凡で幸せな親子の会話だった。しかし、ここが「死刑台の隣」であることを思い出すたび、及川は己の無力さに唇を噛んだ。
(この光景を奪う権利が、一体誰にあるというのか)
この「秘密の面会」は、麻子にとって、地獄のような日常を生き抜くための唯一の救いとなった。
親戚の家での「殺人犯の娘」という冷遇も、学校での執拗な陰口も、月に一度、こうして父の大きな胸の温もりを確認することができれば、彼女は耐えられた。絶望という名の闇の中で、この段ボール箱だけが、彼女を繋ぎ止める命綱だった。
「パパ、聞いて。私、決めたの。私、弁護士になる」
麻子が、父の目を見つめて力強く言った。10歳の少女が口にするには、あまりにも重い言葉。
「べんごし? よくわかんないけど、あさちゃんなら何でもなれるよ。魔法使いにだってなれるよ」
「弁護士はね、嘘をつかれて困っている人を助ける魔法使いなの。私が一生懸命勉強して、法律という魔法を覚えて、パパをおうちに連れて帰る。……絶対だよ」
「パパ、ここでひまわり描いて待ってるね。あさちゃんが迎えに来てくれるまで、ずっと『いい子』で待ってるよ」
寛は、麻子がこっそり持ってきた黄色いクレヨンを一本だけ受け取り、宝物のように大切にポケットにしまった。
一時間の短い逢瀬。
「……時間だ。麻子ちゃん、箱に戻れ」
及川の、苦渋に満ちた声が響く。
別れの時、麻子は再び狭い段ボールの中へと戻る。蓋が閉まる瞬間まで、二人は互いの指を離さなかった。
「また来月ね、パパ。大好きだよ」
「うん。パパも、大好き。世界で一番、大好きだよ」
ガムテープが再び貼られ、箱は無機質な荷物へと戻る。及川の手によって運ばれていくその箱を、寛は姿が見えなくなった後も、ずっと、ずっと手を振って見送っていた。
倉庫に残されたのは、冷たい空気と、麻子の涙が落ちた床の小さなシミだけだった。
しかし、この小さな段ボール箱は、絶望の淵にいた父娘にとって、世界で最も温かい「我が家」であり、唯一の「聖域」だった。
そして、この時倉庫の片隅で交わした「弁護士になる」という少女の誓いが、30年の時を超え、2026年のあの法廷を震わせる再審無罪判決へと繋がる、唯一にして最強の希望の糸だったのである。
及川は箱を運びながら、心の中で誓っていた。
(松山、麻子ちゃん。いつか必ず、君たちをこの暗闇から光の下へ引きずり出してやる。俺の全人生を賭けてでも)




