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自称『永遠の二十代』である酉さんが行うプチコンサートは、彼女自身が大切だと思う人を招待して、演奏家としての初心を忘れないために、毎年この時期に開いている。こゝろ屋特製ランチを食べた後、酉さんの演奏を聴くというのが今年のプログラムだ。
カウンター内の調理スペースでは、夢さんと酉さんが料理を進めており、二人の軽やかな談笑が、ホールでテーブルのセッティングをしている僕の耳にも聞こえてきた。たんたんたん、と包丁がまな板を叩く等間隔のリズムが響いている。
糊がパリっときいた白いテーブルクロスを、英太と共に一枚ずつ丁寧にかけ、その上に夢さんお手製の花篭と、丸いキャンドルが入った透明の厚ぼったいグラスを置く。酉さんの演奏中は店の照明を落として、このキャンドルに灯かりをともすそうだ。
「遅れてしまって、すみません……」
カラン、と入り口のベルが澄んだ音で鳴った。耳馴染みのある声が、控えめに聞こえてきた。酉さんが花の中で一番大好きだという赤いバラの花束を持ち、薄紅色のワイシャツに細みのグレイのネクタイを締めた格好で店に入ってきたのは、広小路先生だった。
「瑞希、遅いわよー。すばる君、来れなくなったみたいだし、このまま忘れられちゃったかなって心配したんだから」
湯気がしゅんしゅんと出ているスープの鍋をゆっくりとかき混ぜながら、カウンターの中で夢さんが茶化すように微笑んだ。
「ごめんごめん、そのすばるが滅多に出さない熱を出してさ。アイツ、病気になるとやけに弱気になるんだよ。あの、酉子さん。この花、僕とすばるからです」
「あら、綺麗なお花ありがとう。ふふっ、すばる君ってば、相変わらずね。でも、こゝろ屋の名付け親である瑞希君が遅刻だなんて、ダメじゃない?」
動かしていた手を止めて、カウンターの中から出てきた酉さんは、花束を受け取りながら、からかい口調で言った。それに合わせて軽やかな笑い声があがる。酉さんに言われて、英太が奥の部屋へ花瓶を取りに行った。
和やかな雰囲気が空間に満ちて行く様を見つめながら、「すばる」という言葉に、一人心が凍り付くのを感じた。指先に動揺が走り、手にしたキャンドル入りのグラスが零れ落ちそうになる。話題に取り残された僕は、すっかり蚊帳の外で、曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
「優じゃないか。どうした、そんな顔して? ……そっか、いきなりだしな」
隅の椅子の上に鞄を置きながら、広小路先生は軽やかな口調で僕に声をかける。綺麗に盛り付けられたミモザサラダをお盆に乗せ、夢さんがクスクスと笑いながらホールの方へやって来た。
「瑞希は私が二度目に入った大学で出会ったの。ねぇ、優ちゃん、夏目漱石の後期三部作って知っているかな?」
「あ、はい。『彼岸過迄』と『行人』と『こゝろ』ですよね」
「そうそう、その中でも瑞希は『こゝろ』が大好きでねー。話聞いているうちに影響受けちゃったの、私」
ことん、と皺一つ無いテーブルクロスの上にサラダを置いて、のんびりとした口調で話す夢さんに、呆れ顔の酉さんが腰に両手を当てながら言った。
「まったく、音大で色んな子見てきたけど、文学部受け直した子は初めてよ。しかも最初は『枕草子』を学びたいって言ってたじゃない。罪作りねー、瑞希君って」
「はは、お手柔らかにお願いしますよ、口じゃ勝てないんですから」
降参だと言うように、両手を軽く上げた広小路先生は、肩を竦めて笑う。今度は僕もタイミングを逃さずに笑うことが出来た。英太が消えた扉に目をやるが、彼が戻ってくる様子はなかった。
空になったお盆を手にして、カウンターの中に夢さんが戻った瞬間だった。耳をつんざく音が、穏やかな静けさを引き裂いた。
あっ、と小さな叫びを夢さんが漏らす。最後のキャンドルを置いた指先を跳ねさせて、僕が顔を上げる。
彼女が手にしたお盆が引っかかり、磨かれたワイングラスが、続けて木の床へと吸い込まれた。グラスが鋭利な破片となって、床に散らばって行く。
「もー、夢はいくつになっても相変わらずね。ほら、上はあなたの家でしょ? 新しいワイングラス取りに行くわよ」
コンロの火を消した酉さんは、動けないでいる夢さんの肩を軽く叩いて、奥の部屋へ続く扉を開ける。
動揺を色濃く滲ませた夢さんの口元が、言葉を紡ごうとした。それを横から吹き飛ばすように、からりと明るい口調で、広小路先生が口を開く。
「そうそう、大学の時も、よく曜日丸ごと違う教科書持ってきてたよな」
「あはは、瑞希君の所でも? うちの音大でもそうだったわ。グラスのことは、二人で行った方が速いと思うから。悪いけど、優ちゃんと瑞希君。ここの片付けと、シルバーを並べてもらえないかしら」
一瞬にして朗らかな雰囲気が戻ってくる。泣き笑いを浮かべた夢さんは、広小路先生に軽く頭を下げ、酉さんに促されるようにして扉の奥へ消えて行った。
ぱたん、と扉の閉まる音がして、何も出来なかった自分の存在に気付く。悔しさと情けなさに、僕は口元を引き結んだ。
静けさが戻った店内に、僕と広小路先生の二人が取り残された。立ち尽くす僕をそのままに、広小路先生はカウンターにあった小さなビニル袋を広げて、砕けたガラスの傍らにしゃがみこんだ。透明な破片を彼は指先で摘み、袋の中へと入れていた。
何を言ったら良いか解らずに、凄惨な現場になったカウンターの方へと足を向かわせる。建物の年齢を想わせる音が、歩く度に靴裏から伝わってくる。先程と何も変わらず、窓から差し込む木漏れ日が、床にちらちらと光の模様を描いていた。
口を開くことはせず、僕は彼からの言葉を待った。彼の前で足を止めた僕は、色素の薄い頭を見下ろした。
「随分と驚いたみたいだな。まさか、いるとは思わなかっただろ? しかもバラの花束を手にして」
「ええ、まぁ、驚きました。本当に、色々と。先生、バラなんて買うんですね」
ははっ、と軽い笑いが広小路先生の口元から漏れ出る。テーブルの上に置かれたバラの花束に目をやり、次の言葉を吐き出すことを諦めた僕は、無言のまま、彼と向かい合わせにその場へしゃがみこんだ。
彼に倣って、グラスの破片を一つ一つ拾い上げ、ビニル袋に入れる。彼の左手と僕の右手が生みだす空っぽの澄んだ音が、僕等の間に響いていた。
「大学時代は、夢と、すばると、よく三人で一緒にいたんだ。たくさん、喧嘩もしたけど、たくさん、笑ってた。ちょうど、お前と久屋みたいな感じだよ」
思い出したように、彼が口を開いた。お互いに瞳をあわせることはなく、散らばったガラスの破片に、視線を落としていた。
彼の左手が尖った破片を摘むのを見つめながら、僕は言葉を返す。
「僕と英太ですか? 違うと思いますよ。……すばるさんは、広小路先生を、愛しているんですから」
問いかけではなく、それは、確信に満ちた呟きだった。彼の表情が見たくて、僕は顔を上げる。
彼も顔を上げていた。静謐な空間に、ガラスの破片がぶつかる音が冷たく響く。彼の指先から歪曲したガラス片がすり抜けて、砕け散った破片の中へと吸い込まれた音だった。
小さく息を飲んだ広小路先生は、何も言葉を返して来なかった。それが、僕の放った言葉に確信を抱かせた。
その事実から逃れようと、僕は彼の瞳から視線を外す。彼の左手に眼を落とすと、一滴の朱が人差し指に浮かんでいた。それがみるみるうちに膨れ上がる様を見て、何故だか雪の日を思い出した。真っ白な指先と、真っ赤な鮮血が、南天の実をつけた雪兎のようだった。
彼の左手の薬指に、シンプルな白金の指輪が見えた。窓から注がれる木漏れ日が、きらきらとリングに光って反射する。真新しいそれは、まだ彼の指に馴染んでいないようだった。
表情に力が入るのを感じ、僕はそれをごまかすように慌てて立ちあがった。カウンターの後ろの棚に置いてあったティッシュを数枚抜き取って、俯いたまま無言で彼に差し出す。ありがとう、と彼が言い終わる前に、隅に立て掛けてあった箒とちりとりを掴んで、ガラスの破片が飛び散ったその場を急いで掃き清める。
僕が片づけを終えたのを見計らって、ゆっくりと広小路先生が立ち上がった。横に置いてあるシルバーの籠からナイフを一本抜き取って、読めない表情を浮かべながら、僕にそれを差し出した。
「もしも……僕がすばるを好きだと言ったら、これで、僕を刺すか?」
何の装飾も施されていないナイフの柄を真っ直ぐに向けられ、僕は苦い笑みを浮かべながら肩を竦めて、曖昧な返事の代わりにした。広小路先生は、冗談だよ、と軽く言いながらナイフを籠に戻して、口元だけでふっと淡い笑みを描いた。
「愛しているよ、すばるのこと。ただ、僕が臆病だったせいで、たくさんの人を傷付けた。『男しか愛せない出来損ない』だって、激昂した父さんにナイフ突き付けられたこともあったかな。まあ、昔の話だけどね」
「出来損ない、って……」
「それが現実なんだよ。単なる一過性の感情なら、普通に女の子と恋した方がいい。割り切れずに自殺を選ぶ奴も少なくない。同性愛を気持ち悪いと思うのは、普通のことだからさ」
壁際の柱時計が、深い音を静寂に染み入らせる。英太と駅で待ち合わせしてから、時計の長針がぐるりと一周してしまったようだ。時の流れの速さに足元をすくわれ、現実が遠のいてしまいそうになる。
たっぷりと十一回、空間を揺らす音が鳴り終わるのを待って、残響が耳奥で鳴るのを感じながら、僕は口を開いた。
「常識的に考えたら、おかしいだなんて解ってます。それでも、僕は、すばるさんのこと、愛しています。ただ、それが、愛情なのかは、解りません。単なる執着なのかもしれません」
広小路先生は目を丸くしながら僕をじっと見つめた後、視線を遠くに向けて、自嘲するように言った。
「……本当、嫌味なくらい、僕と同じことを言ってるよ」
「去年は、大変だったみたいですね。『氷の女王』の噂は耳にしてますよ」
「あー、やっぱ学校って狭いもんだな。……でも、男同士とか、家の事情とか、周りの反応とか、一回全部取っ払ってみてさ。本当に好きだったから、そんなの関係なかったんだな。遠回りして、自分の中、空っぽにして、やっと気付いたよ」
「そうですか。でも、僕は、もう少し考えていたいです。まだ、彼が僕の好きな人なんで」
「解った。でも、すばるは渡さないからな。一度離れて、すごく後悔したんだ」
「ははっ、それ、すばるさんに直接言ってあげて下さいよ。あの人、あれでも寂しがり屋なんです」
寂しいから、僕という代用品を求めたんです、とひっそり口にした。
誰かと身を寄せ合うことしか孤独に耐える術がないことを、僕は知っていた。誰かが傍にいなきゃ寂しいのに、誰かが傍に居ても寂しい。そんなわがままを恥ずかしげもなく心に浮かべていた。僕もすばるさんも、そして広小路先生も、寂しい人だった。そして、その寂しさが、毒のように僕等の心を蝕んで、想いを罪悪なものにしてしまった。
社会の枠組みの中で、自分自信の存在を弾き飛ばされないようにしていた。いかにまっとうに生きているかを確認するため、寂しい作業を繰り返していた。それを重ねるほどに、虚しさは募るばかりだということを知っていたはずなのに、何度も繰り返し行ってしまう。
広小路先生とすばるさんの間に起こったことを僕は知らない。ただ、男同士の恋愛というのが、社会に出たらどれほど中傷の餌食になるかは、ぼんやりとだが想像することが出来た。それは、余りにも哀しいことだった。
愛した人が同じ性別だったという理由で、どうしてこんなにも傷付けられなければならないのだろう。ただ、一人の人を愛したというだけで、死を選んだ方が楽だと思わなければならないのだろう。
「幸せになってください。二人とも、僕の大好きな人ですから。……ただ、もう少しだけ、彼を好きで居させてくれませんか?」
唇から零れ落ちたのは、単なる保身のための言葉だったかもしれない。或いは、嘘偽りを平然と紡いだのかもしれない。終着点を見失った僕の恋心は、歪んだ曲線を描いて迷走してしまっている。それでも、口にした言葉は疑いようのない真実だった。
「ああ、解った。……それが、優しい嘘だって、僕等は知ってたよ」
「酉さーん、花瓶これでいい?」
奥の物置で花瓶を探していた英太が、滞った静寂を破るように戻って来た。背の高いカットグラスの花瓶を手にして、勢い良く扉を開く彼の表情は、いつもと変わらないものだった。
その瞬間、胸の内にわだかまっていたもやもやが、雨上がりの空のように爽やかな空気の中へと散っていく。晴れた青空を想わす笑顔を浮かべた英太が、花瓶と共に現実を引きつれて戻って来た。それは、不思議と心地良い感覚だった。
一瞬の躊躇いを表情から消し去った広小路先生は、口元に笑みを浮かべて、普段と変わらぬ口調で言った。
「今、酉子さん、夢と上に行ってるから、花はそれで頼むよ」
「はいよ、瑞希センセー」
いつもの調子で、英太は明るい返事を返す。広小路先生はシルバーの入った籠を手にして、何事もなかったかのように、テーブルのセッティングを始めていた。
突然、動きを取り戻した空間をぐるりと見回しながら、僕は広小路先生の言葉を胸の内で反芻した。「それが、優しい嘘だって、僕等は知ってたよ」と、たった一言だけを、傷の入ったCDみたいに、繰り返し繰り返し。
英太がカウンター内の水道を勢い良くひねって、花瓶を水で満たす。その音を背中で聞きながら、僕はバラの花束の置いてあるテーブルの前に向かった。自分の中に沸き起こった動揺を見透かされてしまいそうで、僕は英太と視線を重ねることが出来なかった。複雑に絡み合った花束のリボンを解きながら、彼に気付かれないように、ほっと胸を撫ぜ下ろした。大丈夫、僕等の話は英太に聞かれていない、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
蛇口がきゅっと締められて、静かな空間が戻って来る。一刻一刻、丁寧に時を刻んでいる柱時計の音だけが、静寂をとかすように響いていた。