Ⅰ
ひとつだけ開け放たれた窓。そこから鈍色の風が、閉じた時を切り裂くように勢い良く走り抜けた。
突然の風に流されて、カーテンが宙へと攫われる。ピンと堅く張ったカーテンは、元の姿に戻ることを許されず、そのまま忙しない音を立てて、空中に留まり続けた。
その音に僕はようやく開いた本から目を外すことが出来た。重苦しい灰色の空から、一筋の雨がグラウンドの乾いた土の上に音も無く吸い込まれた。
それが始まりの合図だったのだろうか。激しい音と共に雨粒が次々に降りて来た。窓の外から聞こえてくる雨音と、突然襲来した初夏の嵐に騒ぐ人の声が、三階にある図書室まで届けられ、立ちこめていた静寂をさっと掠め取った。
「然し君、恋は罪悪ですよ。解っていますか。」
最後に目に入ったフレーズが耳元で静かに囁かれた気がした。貸出カウンターの椅子に座ったまま振り返るが、この空間には僕以外誰もいない。首を戻して、ぽつりとその言葉を吐息として空気に溶けこます。
湿度も温度も天候も空調によって平らに均された学校の図書室の中では、言葉も乾いて、砂のように零れ落ちる。その粒がガラス片のようにきらきらと輝きながら、ゆっくりと心の深いとこまで落ちて行く。鋭利に尖る想いの破片が、胸の奥を刺した。その痛みに耐えるべく、僕はぐっと表情に力を入れた。
痛いと感じられるようになった自分に驚く。痛みを感じること、生き物としてそれが普通のはずだった。その時初めて、僕は傷の存在を自覚した。
恋が罪悪なものということを、僕は知っている。きらきらとまばゆい光を放ち、否応無しに心をときめかせ、甘い喜びを舌に乗せた上で、薄っぺらな微笑を浮かべながら現実を突きつけて、冷ややかな地面へと一気に叩き落す。
頭だけじゃなくて、身体も知っている。僕にとって、この痛みは、確かに恋だった。
「東桜学園高等部図書室」とスクリーンセーバーのテロップが流れるパソコンの横へと本を置く。今日も図書室には、図書委員である僕以外には誰もいない。安っぽい灰色の椅子の背もたれに、溜め息と共に身体を預けて手の甲を額の上に乗せた。
もう、これで何度目だろう。もう、答えが見つからないって、いい加減諦めたらどうだろう。
放課後の個人面談で、中間テストの成績表を担任の広小路先生から受け取った僕は、今日も教室にいる用がすべて終わると、学校の図書室へ向かった。
本当は、相手は何でも良かったし、場所はどこでも良かった。でも、僕には本と図書室と彼しかなかった。だから『図書委員の図書当番』という理由を持つ僕は、この場所でそっと押し隠していた気持ちと向き合うのだ。僕の淀んだ心に風を開けてくれる彼を待つという、もうひとつの理由を持て余しながら。
いつものように図書室を訪れた僕は、天井につきそうな本棚が林立する中、昨日と同じルートを辿る。文学全集という同じ色の背表紙で埋め尽くされていた本棚の前に行き、足を止める。
夏目漱石の『こゝろ』の背表紙を見つけ、僅かに踵を上げて、人差し指をかける。ゆっくりと指先に力を入れて、本棚からその一冊を抜き取ると、本棚に出来た一冊分の空洞を埋めるようにして、隣の本が音もなく倒れた。踵を下ろすのと同時に、本棚から透明な埃が宙に舞った。
誰もいない図書室のカウンターに座りながら、何度目になるか解らないこの話を、また始めから読みなおす。
高校に入学してまだ二ヶ月も経たないのだが、ずっとこの本ばかり、何度も繰り返し読んでいる。広い図書室には、古典の名作から、書店で平積みされているような人気作家の最新刊も揃っているというのに、僕はまたこの本を手に取ってしまう。本が僕を呼んでいるのだと言ったら、陳腐なおとぎばなしに聞こえてしまうのだろうか。
止まっていた指先を、思い出したように動かして、乾いた音を立てながら本のページをめくる。そんな単調な音に誘われて、記憶がゆっくりと過去へと巻戻しを始める。
ああ、まただ、と思う。また、記憶に巻き込まれて、暫く戻って来られなくなってしまう。嫌だな、と思う。でも、本当は嫌じゃないことは、自分が一番知っていた。
少し前のことだ。季節で言うと過ぎ去ってしまった冬で、時刻で言うと今と同じ夕暮れ時だった。それは、さよならのはじまりだった。
高校受験の対策のため、家庭教師として来てくれた大学院生のすばるさんが、この本を鞄に入れていたのを目にしたことがある。
夏目漱石という人物が、旧千円札の肖像になるほど有名な日本の文豪で、とっくの昔に死んでしまっているということは知っていた。
受験用の知識以外は気にしたことがなかったし、さほど興味を持てない話を書く人だと思っていた。『こゝろ』なんて「夏目漱石の著作」ということ以上の知識を持ち合わせていなかった。
ただ、なぜだか、その本が心の片隅に引っかかってしまっていた。物だろうが人だろうが、何事においても粗雑な扱いをするすばるさんが、まるで生まれたての雛を包み込むような、優しく、慈しみに溢れた手付きで、その本に触れていたのだ。僕はその時初めて、彼の繊細な指先を知った。それは、僕には決して向けられることのないあたたかさを湛えていた。
僕はその時に感じた「何か」を突き詰めるため、答えを探して何度も何度もこの本に目を走らせた。でも、まだそれが「何か」は見つからないままだ。
多分、この本を書いた作者だって、僕の疑問が「何か」は解るはずはないだろう。僕自身、何が解らないのか解らない。だから僕は、僕の疑問も、僕の答えも「何か」知りたいと思った。勝手な思いこみをされても、と一世紀近く前に逝った作者から、困った表情を浮かべられるかもしれない、と有り得ない妄想を浮かべる自分に薄い笑みが漏れた。
ふぅ、と軽く息をつき、しおりの紐を挟んで本を閉じる。恋は罪悪なものだなんて、わざわざ言われなくたって知ってるよ、と何度目になるか解らない、苦い笑みを頬に滲ませながら、表紙を指先でなぞった。すばるさんには、もう会うことなんてないと思っていた。あんなことがあったから、もう諦めていた。いや、諦めることが出来たと思いたかった。
僕の好きな人は、すばるさんという男だった。
彼と過ごした日々は、自分でも掘り下げられない程、心の奥深くに眠らせたはずだった。それを、思春期の一過性のものだったと、早々に結論を出してしまえれば良かった。でも、僕は原石のように淡い光を放つ過去を掘り出して、都合の良いように研磨を重ねて磨き上げてしまった。
輝きを含ませた宝石のような想い出。どれだけ遠ざけようとしても、捨て去れなかった想い出。それを、塵一つ被らないよう、記憶の宝箱の中にしまっておけば良かった。たまに取り出して、きらきらと幻想を反射する想い出を覗き込んでは、あの時、僕は幸せだったと、彼が本当に好きだったと、甘い郷愁に浸れる方がよっぽど良かった。
それでも僕は彼を好きだったことを、心の奥にしまい込むことが出来なかった。ずっとずっと、今でもずっと好きだから、彼を思い出すことなんて出来なかった。僕は、彼を今でも想い続けている。
それなのに、運命とは皮肉なものだ。ズキズキと痛む心の傷がまだ癒えない僕は、入学した高校で彼と再会してしまった。今度もまた、先生と生徒という遠い距離で。
――初めまして、新任の錦すばると申します。一年生の英語を担当します。
高校の入学式の時、一年生を担当する教員の紹介があった。確か、広小路先生の次だったと思う。真新しい紺色のスーツを着て、薄い銀縁の眼鏡をかけたすばるさんが、壇上でにこやかに挨拶している姿を見て、正直、息が止まるほど驚いた。
もしも、他人で溢れている高校の入学式じゃなかったら、僕はきっとその場で泣き崩れていたに違いない。懐かしさと、愛しさと、切なさが、キリキリと硬い音を立てて胸を絞めつけた。それをごまかすように、まだ肌に馴染まない制服のズボンを握り締めた。
眼鏡越しの瞳は、僕に酷い違和感を覚えさせた。僕の記憶の中にいるすばるさんは、眼鏡なんてかけていなかった。スーツだって、着ている所を見たことがない。知っているはずの人なのに、全然知らない人みたいだと思った。「錦すばる」という同姓同名の赤の他人だと、思ってしまった。そっちの方が、よっぽど良かったのかもしれない。
世界で一番逢いたかった人。でも、もう二度と逢いたくなかった人が、そこにいた。
大きな音を立てて、雨粒と共に強い風が開いたままの窓から吹き込んできた。カーテンが音を立てながら、バタバタと宙に踊り狂う。駆け足に早まっていく雨脚が、図書室の床を湿らせる。その風の勢いに促されるようにして、再び心が現実へと帰ってきた。
心が記憶に攫われていたことをようやく気付いた。悪い夢を見て、目覚めた瞬間のようだ。「怖かった」という記憶だけがぼんやりと僕を覆って、実際に起こった事に関する記憶は、ふっとどこかへ音も無く消えていってしまう。何が「怖かった」のかは忘れてしまったのに、恐怖という感覚だけが胸の内で燻って、僕の心を不安で暗くする。知らず知らずのうちに握り締めていた拳を解きほぐすと、鈍い痺れを感じた。
本当に、あの時の事が全部夢だったら良かったのに。目が覚めたら、すべてがなかったことになっていたら良かったのに。泣きたい衝動に駆られる。でも、この記憶を手放せるほど、僕はまだ強くはなれない。爪痕が赤くついた手のひらに、視線と共に溜め息を零した。
「ごめんっ、優! 遅くなった!」
突然、英太が息を切らしながら、入り口の引き戸を勢いよく開けて飛び込むようにやってきた。開いた扉へもたれかかるように手をかけた彼は、先生がお前の三倍時間かけて面談した、という言葉を荒い息と交互に吐き出していた。
体力に自信がある彼が肩で息をしている姿を、僕は始めて見た気がした。体育の時間だって、僕がヘばりながらどうにか持ちこたえているのを、笑って励ましてくれるのが常だったから。
目を丸くして驚いた僕の表情から、凝り固まった強張りがほころんでいく。過去に攫われてしまった笑みがゆっくりと頬に舞い戻ってきた。ぎこちない笑みを浮かべると、彼から包み込むような大きな笑顔が返って来る。やっぱり、君はいつだって僕に笑顔を届けてくれる。心の中に、あたたかな光がポッと灯った。
僕と彼は同じクラスの図書委員だ。帰宅部の僕等は、誰も来ない図書室の貸出カウンターに横並びで座って放課後を過ごす。サボるという行為が出来ない性分の僕はともかく、サボることに躊躇いを感じない英太が、サボれて楽だと評判の図書当番の仕事を投げ出さずに僕と一緒に続けているのは不思議な話だ。現に名簿に名前が書いてあるだけの『図書委員』は、四月の頭にあった委員の集まり以来、一度も顔を見ていない。
最終下校時刻を知らせる放送がかかるまで、話題が尽きずにずっと口を動かしている日もあれば、僕が本を読み、英太はケータイを弄って、言葉なく終わる日もある。何か面白いことを喋らなければいけないという強迫観念に近い焦りを感じるどころか、殆ど二人きりの図書室で、沈黙が当然というような安心感があり、黙っていても苦にならない。
何も喋らなくても気にならない相手と、僕は始めて出会った気がする。他愛もない世間話でも、英太と話すと言葉が弾むように響いて、楽しくて仕方ない。人付き合いが苦手な僕にとって、英太はとても大切な友達だ。
「雨降ってるじゃん! 窓閉めねぇと!」
いつのまにか外はバケツを引っくり返したような土砂降りになっていた。雨を含み、重苦しく暴れ回るカーテンの方へ視線をやった英太は、げっ! と声を漏らしながら、足早に窓際へと駆け寄った。幸いなことに、雨に濡れているのは本棚のない場所であった。
窓のサッシへ両手をつけて身を乗り出し、英太は外の様子を覗き込んだ。小さな子供みたいな彼の姿に、ふっと淡い笑みが零れた。
初夏の嵐に襲われた外の様子を見回した後、カウンターにぼんやり座っている僕の代わりに、開け放たれた一つの窓を彼が閉めてくれた。雨音が耳から遠ざかり、いつもの静寂が戻ってくる。
忘れられない過去の箱がひとりでに開き始め、見ないふりをしていた想いが連鎖反応のようにして、次から次へと開いてしまう。窒息しそうな息苦しさに取り囲まれている僕が、声を押し殺して一人耐えていると、いつの間にかやって来て、酸欠状態に喘ぐ僕の世界へ風穴をあけてくれる。いつもと変わらない笑顔で、特別な冗談をこっそりと持って。
「……ありがとう」
小さな声で想いを口にした。窓の鍵を閉め終えた英太がこちらをくるりと振り向く。破顔一笑という言葉は彼のためにある言葉だと思ってしまう。そんな明るい笑顔を真っ直ぐに向けられて、僕は照れたように俯くことしか出来なかった。視力の良い彼には、僕の頬が赤らんでしまったことを気付かれてしまっただろう。
心の奥に隠した想い。拭い去ることの出来ない過去。そういったものの存在を、多分英太は気付いているだろう。彼は勘が良い人間だし、僕は嘘をつくのが下手くそだ。
でも、触れて欲しくない心の奥へは、絶対に無理やり土足で入って来ようとはしない。今だって、僕の様子がいつもと違うことに気付いているのに、しらんぷりしてくれている。僕が彼に対して口を開かない限り、決して深い所まで入ってこない。
軽い表面的な付合いで、お互いが傷付かない距離をとって接するのは、単なる逃げなのだろうか。でも、そういった優しさや友情に、僕はいつだって救われている。
「どーいたしまして。優はぼんやりしてるからなぁ。変なおじさんに連れ去られるなよー」
窓の外から戻した視線を僕の方に向け、にっと冗談を交えながら笑う英太の表情が余りに優しくて、僕は涙ぐみそうになる。
「そんなに子供じゃないよ、英太のばか……」
照れ隠しにプイっと顔を横に反らせて、憎まれ口を叩く。悔しい、本当に悔しいけど、彼には敵わない。
「バカって言った奴の方が、バカなんだぜ」
「英太のほうが、一回多く言ってるよ」
「う……。優のバッ! ……あ、違う。バカじゃなく……って! 違う違う! 俺、バカなんて……!」
慌てふためく英太の様子を一目見ようと、含み笑いを浮かべた僕は、気付かれないようにして視線だけを彼の方に向ける。多少の距離はあるけれど、焦りがありありと浮かんでいる彼の表情を確認できた。気まずそうに口元を手のひらで覆いながら、視線を泳がせている。
英太のそんな様子が面白くて、何だか可愛くて、僕はクスクスと笑いを漏らした。その様子に憤慨した英太は、椅子に座る僕のもとへと走り寄り、ムキになって止めようとするのだが、それがまた可笑しくて、堪え切れず声を上げて笑ってしまった。
向かい合うように僕の両手首を掴んで、説教を始めようとしていた英太と目が合った。暫く見詰め合って、沈黙が流れた後、僕は思わず笑いを零してしまう。しかめっ面をしていた英太も、それにつられるように笑い出す。
どちらか一人が笑いを止めることが出来ても、もう一人が笑っているからそれが伝わって、結局二人して笑うことになる。呼吸が苦しくなるまで、僕等は向き合ったまま、ひたすらに笑い合っていた。もし、誰かが図書室に入ってきたら、この珍妙な光景に言葉を失ってしまうだろう。
息するたびに感じた不毛な渇きが消え去り、溢れ出す笑い声が、乾いた図書室の中、弾むように満ちていった。僕の視界も思考も、すべてを暗雲のように重苦しく覆っていた『こゝろ』が、単なる紙の連なりである一冊の本になって、笑い声を上げる僕の視界の端に映っていた。