名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
鬼足の根 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
静養のため播磨の海辺を訪れた彰子と赤染衛門。だが、豪族の家で兄妹が相次いで死に、残る者は狂気に陥るという怪異に遭遇する。人々は「鬼足の祟り」と恐れるが、彰子は冷静な観察から、その正体が人間の欲望にあると見抜いていく。愛と嫉妬、復讐が絡み合う事件の果てに待つのは、鬼よりも恐ろしい人の心だった。平安の播磨を舞台に、名探偵・中宮彰子が挑む本格歴史ミステリー。
私がこれまで書き留めてきた、彰子さまの御前にまつわる事件の中には、のちに人づてに広まり、話の形を変えて世に出てしまったものもあります。
でも、広まった噂というものはたいてい肝心なところが抜け落ちます。人は面白いところだけを拾い、恐ろしいところを膨らませ、いちばん大切な――人がなぜそうしたのか、というところを忘れるのです。
だから私は、何年かたってから彰子さまご自身に、
「あの海辺の怪異だけは、きちんと書き残しておきなさい」
と仰せられた時、少し驚きました。彰子さまは、ご自分の名が表に出ることを好まれません。功は他へ譲り、手柄の話は退屈そうにお聞きになるのが常でした。
それなのに、よりによってこの一件を「残せ」とお命じになったのは、きっと、あまりに奇怪で、しかも人がすぐに“物の怪のしわざ”で済ませてしまいそうな事件だったからでしょう。
実際、あの春の怪異は、西国の海辺一帯で長く「鬼足の祟り」と呼ばれていました。でも、私は知っています。あれは祟りではありません。人が持ち込んだ、れっきとした悪意でした。
そして、私が見た限りでは、彰子さまが扱われた事件の中でも、とびきりおぞましく、また最後に少しだけ苦いものを残した一件でもありました。
その年の春、彰子さまはひどくお疲れでした。宮中にいれば、心が休まる暇などそうそうありません。見えぬ駆け引き、絶えぬ進物、どこかで起きる争いごと、誰かの失脚、誰かの昇進。
まして彰子さまは、ただ美しく座しておられるだけの方ではありません。人の話を聞き、人の顔色を見て、人の心の綾まで受けとめてしまわれる。それだけに、疲れもまた深く積もります。
御典医の一人が、これ以上はよろしくないと強く申し上げ、しばらく都を離れ、風のよいところで静かにお過ごしくださいと勧めました。おそらく医師は、仕事を止めさせる口実をようやく見つけたつもりだったのでしょう。
そこで私たちは、播磨の海辺にある小さな別業へ移ることになりました。都から見ればずいぶん遠いが、まるきり辺境というほどではありません。けれど、播磨の土地の空気には、都とはまるで違う重さがありました。
白い浜。暗い松。その向こうに、昼でも鉛のように鈍く光る海。岬の先には、古い塚や、何に使われたのかも分からぬ石組みが点々と残り、土地の老人たちは「あれは昔の民の墓だ」とか「海神へ捧げたものだ」とか、思い思いに語っていました。
昼は光が強いのに、夕方がひどく早い。日が傾くと、景色そのものが急に冷え、波の音が一段深くなる。都では人の声に埋もれてしまうような気味悪さが、そこでは、風の中にはっきりと聞こえました。
私は正直に言えば、あまり好きな土地ではありませんでした。けれど彰子さまは、むしろお気に召したようで、近くの古塚や石碑を見に行っては、土地の伝えや古い名をたずねておられました。
「衛門」
と、ある日、波打ち際を歩きながら仰せになります。
「都の人は、何でも分かった気になりすぎますね」
「それはまた、ずいぶんなご感想で」
「ここへ来ると、自分たちより古いものが、当たり前の顔をして残っているでしょう」
「たしかに、それは少し怖うございます」
「そうでしょう。人は、自分の前に積もった時間を感じると、少し慎み深くなります」
そのお言葉どおり、海辺の土地は人を慎ませました。でも同時に、何か古いものがまだそこで息をしているような、妙な想像まで呼び起こすのでした。
近くの村に、小さな寺が一つありました。住持の寂円という法師が、なかなか話好きで、しかも古い土地の伝えに詳しかったため、彰子さまとはすぐに親しくなりました。
寂円法師の庵は質素でしたが、書物だけは妙に多く、経巻の隣に古い土器の欠片や、掘り出された鏃まで並べてありました。
「法師に似合わず、俗なものがお好きですね」
と私が言うと、
「いやいや、これは俗ではござらぬ」
と寂円法師は笑いました。
「人の死んだあとに残ったものを眺めるのは、坊主の本分にも近いのです」
私はそれを聞いて、妙に納得してしまいました。そして、寺にはもう一人、長く逗留している男がいました。
名を秦景尚といいました。地元の豪族の出ではあるが、若いころから海商に交じって唐や南海まで渡り歩き、珍しい薬や獣の骨や異国の品を集めている人物だといいます。
背が高く、日に焼け、目つきは鋭い。粗野と言うには身のこなしが洗練されているが、都人の柔らかさとはまるで違う。ひと目で、「ここではない遠い土地を何度も見てきた男」だと分かりました。
もっとも、最初のうち、景尚は私たちへ近づこうとはしませでした。別に無礼という訳ではありません。でも、自分の世界へ人を入れたくないのがありありと見えました。
そして、その男が、後には事件の中心へ立つことになるなど、その時の私は夢にも思わなかったのです。
怪異が起きたのは、私たちがその海辺へ移って十日ほどした頃のことでした。
朝餉のあと、寂円法師がいつになく青ざめた顔で飛び込んできました。息が上がり、袈裟も少し乱れている。
「中宮さま、どうか……どうか、お力を」
私はぎょっとしました。普段は達観したように笑っている人が、これほど取り乱しているのを見たことがありません。
彰子さまはすぐに立ち上がられた。
「何がありました」
「近くの荘の、日置家に……夜のうち、とんでもないことが」
「落ち着いて。順に話しなさい」
寂円法師の語ったところによれば、荘主の一族である日置季頼の家で、昨夜、四人兄妹のうち妹が死に、兄二人が揃って発狂したといいます。
私は思わず聞き返しました。
「揃って、でございますか」
「そうです。しかも、誰かに斬られたわけでも、毒を飲まされたわけでもありません。朝、家人が居間へ入ると、妹の千草どのは脇息にもたれて死んでおり、兄の季長どのと季正どのは、その両脇で笑ったり喚いたり、意味の分からぬ歌を繰り返していたとか」
私は寒気がしました。話だけでも十分に気味が悪い。
「夜には何をしていたのです」
と、彰子さま。
「弟の季実どのが訪ねてきて、四人で双六をしていたそうです。季実どのは夜更け前に帰った。その時までは、皆まったくいつも通りであったと」
「そして朝には、そうなっていた」
「はい」
彰子さまは、いつものようにほんのわずかも大げさになさりませんでした。でも、その目は完全に仕事の目になっていました。
「参りましょう」
私は内心、ああ医師の“静養”とは何だったのだろう、と思いましたが、口には出しませんでした。
日置家は、海から少し入ったところにある、広く古い家でした。海辺の豪族らしく、門も庭もゆったりと作られています。
でも、その朝の屋敷には、広さとはまるで釣り合わぬ圧迫感が満ちていました。家人たちは泣き、怯え、誰もが声をひそめています。「物の怪だ」「海の祟りだ」と囁く声まで聞こえました。
私たちはまず、きょうだいの末弟である季実から話を聞きます。季実は三十に届くかどうか。色の浅黒い、痩せた男で、目だけがやけにぎらついています。
猫背気味で、座っていてもどこか落ち着かない。昨夜のことを話す声も、悲しんでいるというより、むしろ恐怖で乾いていました。
「昨夜、私はいつものように兄たちを訪ねました。四人とも機嫌は悪くありませんでした。夕餉のあと、火を起こし、双六を始めたのです」
「火を?」
と、彰子さま。
「昨夜は冷えましたから」
「なるほど。続けなさい」
「私は、戌の刻を少し回った頃に帰りました。その時も、兄たちは盤を前にしておりましたし、千草も笑っておりました。何一つ、おかしなところなど――」
そこで季実は、急に言葉を切った。
「いえ、一つだけ……」
「何です」
「双六をしている最中、長兄の季長が、私の肩越しに庭を見て、“今、何か動いたぞ”と申したのです」
「庭に?」
「はい。私は振り返りました。でも、暗うございましたし、ただ木立が揺れただけかと思って、そのままに……」
「縁側の戸は開いていた?」
「いえ、閉じておりました。ただ、格子は下ろしておりませんでした」
彰子さまは、それだけ聞くと、もうそれ以上何も言いませんでした。
家の者に案内されて居間へ入った時、私は思わず足を止めました。
部屋は整っています。いえ、整いすぎていて、逆に不気味でした。双六盤がそのまま。賽もそのまま。燈台の油皿はすっかり乾ききり、夜中まで灯っていたことを示しています。
火鉢の炭は白く崩れ、しかし昨夜遅くまではしっかり燃えていたようです。座に敷かれた円座の乱れもなく、急に誰かが立ち上がった形跡はありません。
千草殿の亡骸はすでに別室へ移されていました。でも、二人の兄が座っていた位置だけはそのままにしてあります。
私はそこへ立っただけで、妙に胸が重くなりました。湿っているわけではありません。匂いも、目立って変ではありません。それでも、長く閉ざされた香炉の中に頭を突っ込んだような、どこか淀んだ圧を感じるのでした。
「衛門」
「はい」
「どう感じますか」
「……うまく申せませんが」
「ええ」
「空気が、よろしくありません」
私がそう答えると、彰子さまは小さくうなずかれた。やはり、お感じになっていたのだ。
そこへ、近隣から呼ばれた医師もやって来ました。医師は青い顔で千草殿を見たとたん、胸を押さえ、しばらく座り込んでしまった。それを見て、私は昨夜の部屋の空気がただの気のせいではないと、はっきり悟りました。
彰子さまは部屋の中を何度も行き来された。縁側へ立ち、双六の席につき、火鉢をのぞき込み、床を調べ、天井を見る。そして、一度だけこう言われました。
「なぜ、昨夜に限って火を起こしたのでしょうね」
季実は、さきほどと同じ答えを返した。
「冷えましたから」
「そうでしょう。ですが、三月の夜に、この狭い居間で、あれほどしっかり炭を熾すものかどうか」
私ははっとしました。たしかに、海辺で湿る夜とはいえ、火鉢の炭は必要以上によく燃えていました。
「姫様、まさか」
「まだ分かりません」
と言われたが、その言い方で、もう何かをつかみかけておられるのは明らかでした。
その日は、ほとんど手がかりらしい手がかりを得られぬまま終わりました。帰り道、私はつい不満を漏らしました。
「庭に誰か潜んでいたという話は、結局どうなのでございましょう」
「さあ」
と、彰子さま。
「本当かもしれないし、そう思わせたいだけかもしれません」
「季実が嘘を」
「意識してか無意識にかは別として、人は自分に都合のよいものを“見たことにする”ことがあります」
「では、あの人を疑っておられる」
「まだ誰も疑ってはいません。ただ、“庭に何かいた”という話に、いちばん利があるのが誰かは考えています」
私は口をつぐみました。たしかに、その話が本当なら、怪異は外から来たことになります。そして最後にその場を去った季実は、ずいぶん楽になる。
別業へ戻ってからも、彰子さまは長く黙っておられました。私は勝手に、今日はもうお考えになるだけだろうと思っていました。ところが夕暮れも近くなった頃、彰子さまは突然立ち上がられた。
「少し出ます」
「どちらへ」
「寂円法師のところへ。それから、秦景尚の住まいも」
「お一人で」
「はい」
「それはずるうございます。私は」
「衛門は休みなさい」
「こういう時に限って」
「あなたがついてくると、話が丸く済まぬこともあります」
「それは私が口をはさむからで?」
「ええ」
否定していただきたかった。結局、その夜、彰子さまはかなり遅くなってから戻られました。顔色は疲れておられるのに、目だけが不思議に冴えています。
「いかがでした」
「材料は少し増えました」
「景尚は何と」
「自分は事件に興味がある、と。そして、千草どのとは古い縁がある、と」
「縁?」
「ええ。かなり深い」
私はそこでようやく察しました。つまり、あの異国帰りの荒々しい男は、亡くなった千草殿に想いを寄せていたのです。
「それで、季実との仲は」
「よくありません」
「理由は」
「財です」
それだけで十分でした。家の財。配分。相続。人が人を憎む理由として、あまりにもありふれていて、しかも強い。
「では、やはり季実が」
「まだ分かりません」
彰子さまは疲れたように首を振られた。
「ただ、あの家の中には、昔からくすぶっていたものがあります。それが昨夜、表に出た――そこまでは見えます」
翌朝、さらに悪い知らせが来ました。まだ朝靄の残るうちに、寂円法師が今度はほとんど転がり込むようにして現れたのです。
「中宮さま、季実どのが……!」
私は胸がどきりとした。
「どうしたのです」
「死にました。それも、兄たちとほとんど同じ顔で」
私は思わず立ち上がっていました。
「同じ、とは」
「恐怖でひきつった顔のまま、部屋で絶命しておりました。昨夜は寺の一角を借りて眠っていたのですが、朝になっても起きぬので家童が見に行ったところ……」
彰子さまは何も言わず、ただすぐに歩き出された。私も後に続く。
寂円法師の寺へ着くと、空気そのものが張りつめていました。季実が使っていたのは、客用の離れの一室で、庭に面した静かな部屋でした。
部屋へ入った瞬間、私は思わず鼻を押さえました。何か重たいものがまだ淀んでいます。
戸は、家童が開けたばかりだといいます。でも、それでもなお、昨夜の日置家の居間よりはっきりと、嫌な匂いが残っていました。
甘い、と言えば甘い。けれど線香とも香とも違う。どこか獣じみた、むっとする匂い。
季実は文机の前に座ったまま、死んでいました。顎髭をつんと前へ出し、目は見開かれ、まるで死ぬ寸前に何か信じられぬものを見たかのような顔でした。手の指は強くこわばり、爪が掌へ食い込んでいます。
私は、その顔を見るだけで喉が渇きました。彰子さまは、昨日とは比べものにならぬほど鋭く動かれました。寝所を見、廊下を見、蔀戸の外の芝生へ出て、また部屋へ戻る。油皿を持ち上げ、匂いを嗅ぎ、縁についた灰のようなものを紙へ掻き取る。
「ありました」
ぽつりと仰せになる。
「何がでございます」
「昨日の部屋に足りなかったものです」
「それは」
「燃やされたものの名残です」
私はぞっとした。
「では、やはり火鉢か灯りに」
「ええ。何かをくべた、あるいは落とした。それが熱で揮って、部屋に満ちた」
「毒……」
「おそらく。ただし、飲む毒ではありません。吸わせる毒です」
その瞬間、昨日の居間で感じた胸の重さ、そして今この部屋に残る嫌な匂いの理由が、一本につながりました。
「季実は、それを使って兄と妹を」
「可能性が高い」
「けれど、その季実自身が、同じもので」
「ええ」
彰子さまは油皿の縁を見つめたまま言われた。
「誰かが、同じ手で報いたのでしょう」
別業へ戻ると、彰子さまはすぐに秦景尚へ文を送られました。夕刻、その男はやって来ました。
前に見た時よりもさらに痩せて見えます。顔の色も悪い。何より、その目にはひどい緊張が宿っていました。
「お召しと聞いて」
「ええ。お聞きしたいことがあります」
景尚は、じっと彰子さまを見た。
「日置の家で起きたことは、ただの物の怪ではありませんね」
「そうです」
「吸えば心を砕かれるような、異国の薬がこの世にありますか」
その問いを受けた瞬間、景尚の顔色がはっきり変わりました。驚き。そして、それ以上に、覚悟した者の諦め。
「……どこまで」
「だいぶ」
と、彰子さま。
「ですが、まだ確証はありません。あなたが話してくださるなら別ですが」
景尚は長い沈黙ののち、懐から小さな包みを取り出しました。紙を開くと、中には赤茶けた細かな粉が入っていました。
「南海の島で手に入れたものです」
と男は低く言った。
「向こうでは、これを鬼足の根と呼んでいます。根の形が、人とも獣ともつかぬ足に似ているからです。粉にして熱へ落とすと、立ちのぼる気を吸った者は、心のいちばん深いところにある恐怖を一気に見ます。量が少なければ発狂。多ければ、恐怖そのもので心が止まります」
私は思わず身震いしました。そんなものが、この世にあるのでしょうか。
「日置家の件に、心当たりが」
「あります」
景尚は目を伏せた。
「この粉を、私は一度、季実に見せたことがあります。ほんの興味本位でした。あれが唐物や異国の話を好んだから。どんな効き目か、どう使うかも、話してしまった」
「そして粉を盗まれた」
「そうとしか思えません」
「季実に、千草どのと二人の兄を害す動機があった?」
「……財です」
彰子さまはうなずかれた。やはり、そこですか。
景尚はさらに声を沈めました。
「ですが、それだけではありません」
「何です」
「私は、千草と夫婦になるつもりでした」
私は息を止めた。
「家には反対されました。私は海を渡り歩く男で、都風の家から見れば粗野で危うい。でも千草は待つと言った。私は今回、難波からそのまま再び南海へ向かうはずでした。ところが出立の前に、寂円法師から早馬が届いたのです。千草が死んだ、と」
男の声は平たく抑えられていた。それなのに、その奥に噴き出しそうな何かがある。
「私は戻った。それで、季実の顔を見て、分かりました」
「何が」
「やつは怯えていました。兄妹の死を悲しんでいる顔ではありませんでした。自分が見たものに怯え、しかもそれがまた返ってくるのを恐れている顔でした」
「だから、あなたは」
私がそこまで言うと、景尚は私をまっすぐ見た。
「ええ」
それだけで十分でした。でも、彰子さまはなお、一つ確かめるべきことがあると仰せになりました。
「この粉が、本当にあなたの言う通りの働きをするのですか」
景尚が顔を上げる。
「中宮さま、それは」
「分かっています。危険です。だから少しだけ」
私は全力で止めました。
「おやめくださいませ!季実の顔をご覧になったでしょう。あのようなものを、確かめるためにお使いになるなど」
「衛門」
「はい」
「あなたはここで待っていてもよいのですよ」
「……その言い方は卑怯でございます」
結局、私は折れました。折れたというより、置いていかれるのが怖かったのだと思います。
部屋の一つを空け、遣戸をすべて開け、私たちは向かい合わせに座りました。
中央には小さな油皿。景尚の差し出した粉をごくわずか、針の先ほどだけ、彰子さまは火へ落とされた。
最初、何も起きぬように思えた。だが次の瞬間、甘くむっとする匂いが鼻へ入りました。私は、たった一息で、それがただならぬと知りました。
視界の端から、何か黒いものが染み出してきます。いえ、実際に見えていたのか、自分の心が勝手に描いたのか、今でも分かりません。
ただ、得体の知れぬ影が幾重にも寄ってきて、そこに“いる”としか言いようのない恐怖が、胸の奥から噴き上がってきました。
冷たい。嫌だ。来るな。何が来るのか分からぬのに、全身がそれを知っています。
私は叫ぼうとして、声が出ませんでした。唇は開いているのに、喉が凍りついたようになります。目の前の彰子さまのお顔も、瞬く間に死者のように蒼ざめ、見開かれた目に恐怖が宿っていました。
その顔を見た瞬間、私の意識は逆に戻りました。このままではいけない、とただそれだけを思いました。
「姫様!」
声にならぬ声で叫びながら、私は立ち上がり、よろめいて灯皿を蹴倒し、彰子さまの腕をつかんで外へ引きずった。
庭へ転がり出た時、ようやく肺へ新しい空気が入ってきました。私は地面へ膝をつき、しばらく何も考えられませんでした。吐き気と震えが止まりません。
隣では彰子さまも荒い息をしておられた。長い、ひどく長い時が過ぎてから、あのお方はようやく言われました。
「……衛門」
「はい……」
「本当に、申し訳ないことをしました」
「そう思われるなら、二度となさらないでくださいませ……」
「約束はできません」
「そこは約束してくださいませ!」
私は半泣きで抗議した。でも、あの実験で一つだけ、疑いようのないことが確かになりました。
あれは祟りではありません。人の手で持ち込まれた、現実の恐怖です。
その夜、彰子さまは景尚を再び呼ばれた。今度は広い座敷ではなく、海の見える小さな対面所へ。他に人を入れず、私だけが同席しました。
景尚が現れると、彰子さまは単刀直入に言われた。
「日置季実を殺したのは、あなたですね」
男は少しも驚かなかった。ただ、深く息を吐いた。
「そこまでお見通しでしたか」
「朝、寺の離れの縁側の下に残っていた砂利が、この別業の庭のものと似ていました。このあたりの土とは違う色です。海辺の小径を通ると、よく履物の裏につきます」
私は、その時初めて気づきました。前日、彰子さまがわざと庭に水を撒かせておられたのは、そのためだったのです。
「さらに、あなたは出立の荷を難波へ先に送っていたのに、知らせを受けて引き返した。そして季実の死んだ朝、寺の周りに現れた形跡がある。加えて、鬼足の根を持ち、その効き目を知っていた。もう十分です」
景尚は、しばらく黙っていた。やがて懐から、一枚の小さな似絵を取り出して卓へ置きます。そこには、日置千草殿の姿が描かれていた。
「私はこの人を、長く想っておりました」
男の声は低く、しかしよく通った。
「向こうもまた、私を待ってくれていた。都人らしくはなくとも、互いにそのつもりだった。寂円法師もご存じでした」
「ええ」
「だが季実は、それを快く思っていなかった。財のこともあれば、兄たちとの長年のいさかいもあった。おそらくやつは、兄妹をまとめて狂わせ、自分だけが残れば、家の実権を握れると踏んだのでしょう。だが、千草だけは死んだ。あの粉は、人によって効き方が違う。私が教えた通りです」
「それで、あなたは同じように報いた」
「はい」
「なぜ律に委ねなかったのです」
景尚は、そこで初めて激しく顔を歪めた。
「委ねられると思われますか」
その言葉には、怒りだけでなく、深い諦めがあった。
「異国の粉を火へ落とせば、人は恐怖で狂い死ぬ――そんな話を、誰が信じますか。季実が自白したわけでもない。ただ私だけが、真相を知っていた。そして、千草はもう戻りません」
私は何も言えませんでした。
「だから私は、朝まだき、寺の離れへ行きました。小石を窓に投げて、やつを起こした。居間へ降りさせ、刃を見せて座らせた。そして、あの女にしたことを、同じように味わえと告げたのです」
「季実は、何と」
「最初は否定しました。やがて、怯えました。兄たちの顔と、千草の顔を思い出したのでしょう。私は灯へ粉を落とし、外へ出て戸を閉めた。それから、やつがあの顔になるまで待った」
静かな声でした。けれど、その静けさこそ恐ろしかった。
「あなたは、それで満足したのですか」
と、彰子さま。
景尚は、長く沈黙した。
「……いいえ」
「そうでしょうね」
「ですが、そうするより他にありませんでした」
彰子さまは、その言葉を否定も肯定もなさらなかった。しばらく海の方へ目を向け、寄せては返す波音だけが聞こえました。
やがて、彰子さまは言われた。
「明日、難波へ立ちなさい」
私は息を呑んだ。
「姫様」
「あなたは、ここにいてはなりません。この件は、わたくしからは公にはしません」
景尚が、初めてはっきり動揺しました。
「なぜ……」
「あなたのしたことが正しいとは言いません。ですが、日置季実のしたことを、この国の律がきちんと裁けたかと言えば、難しかったでしょう。そして、あなたはもう十分に罰を受けています」
「私は」
「愛する人を失い、復讐を成し遂げても何も戻らぬことを、よく知った顔をしています」
景尚は、顔を伏せました。大きな体が、初めて少しだけ縮んで見えました。
「行きなさい。海の向こうでもどこでも、あなたの残りの人生を使ってください」
「……承りました」
男は深く頭を下げました。そして似絵を手に取ると、振り返らずに去ってゆきました。
景尚が去った後、私は長いこと黙っていました。胸の中に、どうにも定まらぬものがあります。
「姫様」
「何です」
「これで、よろしかったのでございましょうか」
「分かりません」
即答でした。
「わたくしは、律を司る者ではありません。ただ、何が起きたかを見て、どう収めるかを決めただけです」
「ですが、季実は」
「千草殿と兄たちにしたことを、同じ形で受けた」
「ええ」
「景尚は、律で救われると思っていなかった」
「それも、ええ」
「ならば、この件で唯一確かなことは」
彰子さまはそこで少し言葉を切られた。
「人は、愛している時も憎んでいる時も、思う以上に残酷になれる。それだけです」
私は、返す言葉を持たなかった。
たしかにそうだ。季実は財と嫉妬で兄妹を地獄へ落とし、景尚は愛ゆえに、同じ地獄を季実へ返した。どちらも、人の心から出てきたものです。
物の怪ではありません。鬼でもありません。鬼のようなことをするのは、結局いつも人なのです。
事件は、表向きにはこう片づきました。
日置家での最初の怪異は、原因不明の発狂と急死。季実の死もまた、恐慌のあまり心臓が止まったようなものだろうと。兄二人は長く正気を失い、家は結局、親族の別筋へ渡りました。
誰も、鬼足の根という異国の粉のことを知らなかった。いえ、たとえ聞いたところで、多くは信じなかったでしょう。人は、理解できぬものを、すぐ祟りとか神罰とかいう袋へ放り込みたがります。
けれど私は、この件だけは、きちんと書き留めておかねばならないと思いました。彰子さまが、後にあえて「残せ」とおっしゃったのも、同じお気持ちだったに違いありません。
この事件で、私は三つのことを覚えました。
一つ。恐怖は、それそのものが人を殺すこと。刃もなく、毒杯もなく、ただ心の底へ手を突っ込まれるだけで、人は死にます。
二つ。怪異に見えるものほど、まず人の手を疑えということ。鬼足の根などという名を聞けば、いかにも妖しげです。でも、あれを運び、盗み、火へ落としたのは、みな生身の人間でした。
三つ。復讐は、たとえ成就しても失ったものを返さないということ。景尚は季実に同じ恐怖を味わわせました。でも千草殿は帰らず、その男の顔に残ったのは、勝利ではなく、ただ深く疲れた虚しさだけでした。
私は今でも、あの春の海の色を思い出します。白い浜の先で、重たく鈍く光る水。そして、庭へ転がり出た時に肺へ入ってきた、生き返るような冷たい風。
あの時もし、私が彰子さまの腕をつかんで外へ引かなかったなら。いえ、それ以上に、もし彰子さまがあの部屋の匂いと灰を見逃していたなら。日置の怪異は、本当に“鬼の祟り”として終わっていたかもしれません。
けれど、そうはならなかった。石の中宮は、目に見えぬ恐怖の中から、人のしたことを見抜かれた。
救えなかった命はあります。止められなかった復讐もあります。それでも、何が起きたのかを正しく知ることだけは、できました。たぶん、それがせめてもの供養なのでしょう。
後年、私は、香炉へ何か見慣れぬものがくべられるのを見ると、ほんの少し身構えるようになりました。都の人は、香を嗜み、匂いを愛し、香りに優劣をつけます。
けれど私はもう知っています。匂いほど、心の奥へ早く届くものはありません。そして、ときにそれは、歌より先に、理性そのものを奪います。
だから、この物語を読む人には、どうかこう覚えておいていただきたいのです。
鬼の足など、この世に本当にあるかどうかは分からない。でも、鬼のような足取りで人の心へ忍び込むものなら、たしかにあります。
それは嫉妬であり、欲であり、失うことへの恐怖であり、愛を奪われた怒りです。そして彰子さまは、いつもそれをご覧になる。目の前の怪異の形ではなく、その奥で動いている人の心を。
あの春、海辺の別業で起きた一件も、結局はそういう話でした。
祟りではなく、鬼ではなく、人が、人を壊した話です。
〜出典〜
The Devil's Foot (悪魔の足)
作:Arthur Conan Doyle 訳:枯葉
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card3392.html
〜舞台背景〜
『悪魔の足』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイル本人がシリーズ正典4長編+56短編の中で「陰惨で新味がある」と評価し、9番目に挙げた作品(1927年の雑誌インタビュー)で、現代の「名探偵シャーロック・ホームズ」解説記事では「これはかなりダークで実験的なホームズです。普通の犯人探しより、異常現象の正体に迫る怖さが前に出ます。」と評されています。




