第61話 鬼人の赤い瞳
ソフィアのために自身の想いを封印してピュルフォルテになったエマ。
そして聖歴533年。王都に緊急事態を知らせる鐘の音が鳴り響く。
聖歴533年。
王都に緊急事態を知らせる鐘の音が鳴り響いた時、エマとソフィアはちょうど王宮を出て王都の市街地に居ました。
直後、市街地の端の方から大きな粉塵と轟音が鳴り響き、あっという間に王都は炎に飲まれました。
そこからの記憶は曖昧です。
ガルディニア帝国が大軍を率いて攻めてきたのだと完全に理解したのは、王都を捨てて南へと逃げ始めたころです。
エマはピュルフォルテとして多くの公国民たちを守りながら、ソフィアと離れることなく逃げ続けました。
途中で母やヴァレンタイン家の親族と合流し、協力して戦うことになったのです。
エマはソフィアに公国民たちと南に逃げて欲しいと伝えましたが、彼女はエマと一緒に行動する事を望みました。
帝国軍に少しづつ押されながらも、エマは果敢に戦いました。
状況は良くありませんでしたが、それほどでもないと思っていた時です。
それは現れました。
ガルディニア帝国の現皇帝"アルベール・ガルディニア"。
"鬼人"の異名を持つ恐ろしい男。
その男のブロンドの髪は、戦場では非常に目立ちますから、遠くからでもすぐに分かりました。
そして、返り血を浴びても全く表情を崩さない仮面のような顔と、見たものを突き刺すような赤い瞳。
あまりにも異質な存在だったのです。
なぜここまであっという間に公国が押されてしまったのか、"鬼人"の姿を見れば一瞬で理解できました。
あれに太刀打ちできるものはいない。
母の判断はとても早く、一度レグラント王国との国境線の渓谷地帯に身を隠すことにしました。
みなが逃げることができるまでは最前線をヴァレンタイン家が担う。
まだ12歳のエリンもその場にいました。
エマはもう一度ソフィアに逃げて欲しいと伝えましたが、彼女はそれでも一緒に行動する事を望んだのです。
気がつけば母もエリンもその他の親族も、"鬼人"によって土へと葬り去られていました。
エマはソフィアを連れて、渓谷地帯まで辿り着きました。
それは執拗に追ってきました。
エマは命を賭してでもソフィアを守ると決めていました。
後ろは崖、前には"鬼人"。
その時鬼人が口を開きました。
"王族はこれで最後だ"と。
なぜこんなところまで執拗に追ってきたのか、その理由が分かりましたが、その時ソフィアは王族とはとても思えない庶民の服装をしていた為、なぜ分かったのか理解できませんでした。
今考えればおそらく、レイモンドの策略だったのでしょう。
ソフィアの綺麗な亜麻色の長髪は、美しく輝いていて開けた台地では見つけやすいですから。
鬼人のどこまでも冷たい赤い瞳と目が合い、瞬きも忘れるほどの緊張が走りました。
振りかざされた剣に対して自らを盾にしてでも防御しなければと前に出ようとした時、隣にいたソフィアに胸を押されました。
エマの体は後ろの崖へと背中から吸い込まれていき、ソフィアはエマの顔を愛おしそうに見て笑いました。
ソフィアの首に鬼人の振った剣があと数センチで到達すると言う時、彼女が笑顔で何かを言おうとしていましたが聞き取ることができず、エマの記憶はそこでぷつりと途切れたのです。
エマ・ヴァレンタインは生きていました。
運よく木々がクッションとなり、致命傷は負わなかったのです。
自慢の長い髪の毛は、剣で切り裂かれたように無くなっていました。
いつも持っていたピュルフォルテの紋章が刻まれた剣も見当たりませんでした。
残ったのは無様な自分と、ヴァレンタイン侯爵家の家紋が入ったペンダント。
この世の全てがどうでも良くなりました。
大切なものをすべて失いました。
そこからどうしたのかあまり覚えていませんが、気がついた時にはレグラント王国の村にたどり着いていて、村長や国民たちに助けてもらったのだと思います。
レティシアはエマの話を静かに聞いていた。
優しい表情をしたままだったが、顔にはいくつもの涙の跡ができていた。
「そこから先は、おそらく殿下からお話を聞いた通りだと思います…」
エマはそう言うと静かに目を閉じた。
「エマ・ヴァレンタインは3年前に死んだのです、大切なものをすべて失った時に…」
エマは静かに呟くともう一度目を開けた。
「アルキオネ宮で姫様の侍女として過ごした日々は、私にとってとても幸せでした。でも…」
エマは自身の赤煉瓦色の瞳を大きく揺らした。
「あの赤い瞳を見た時、呼び起されたのです。"鬼人"のあの赤い瞳を…」
エマは虚ろな目で地下牢の冷たい床へ視線を落とした。
「頭では分かっていました。ソフィアを奪ったのはこの子ではない。動いてはダメだと。違う感情が沸き上がってきて、体が勝手に動きました」
レティシアは一度深く瞬きをした。
「あの"鬼人"から何かを奪えば、あの仮面のような顔がどう歪むのだろうと…」
レティシアはさらに深く、エマの方へ肩を寄せた。
「恐ろしいことをしてしまったと思った時には遅く…、レイモンドからあの話を聞かされて私は生きているべきではないと思ったのです…」
レティシアはゆっくりとその場に立ち上がると、エマの前に歩いていき静かにその場に座ってエマの顔をしっかりと見た。
「それでも私はエマに生きていて欲しいと思ってる。エマ・ヴァレンタインは一度死んだ。今私の目の前にいるエマは、可愛いものが大好きでいつも優しい、レティシアの侍女。これからは、私と一緒に生きていって欲しい」
エマは虚ろな視線を床からレティシアの顔へ移した。
彼女の薄黄色の瞳は揺るぎなく輝いていた。
エマの脳裏に浮かぶソフィアの笑顔と、目の前で必死に自分を見つめるレティシアの姿が、なぜだか重なって見えた。
エマの瞳はもう生気を失った虚ろな目ではなかった。
彼女の赤煉瓦色の瞳が一瞬きらりと輝く。
「はい…。私は姫様の侍女のエマとして…、もう一度生きてみようと思います」
レティシアはエマの言葉を聞いてとびきりの笑顔で微笑むと、涙を流しながら彼女の胸に飛び込んだ。




