第一幕 バレルオルガンが響く水壁(ウォーターウォール)
杉並でコンサート後、阿佐ヶ谷デートを楽しむ陽菜と雅之。実はその場所は雅之の姉である雪とその親友の紗弓えみが劇団で青春を送った思い出の場所だった。紗弓は今でこそ著名なミュージカルスターであるが、しがない演劇研究生の時期も長かった。そんな稽古とバイトに明け暮れる二人には大きな夢があった。それは舞台女優である。
バレルオルガンの音色が響くタイムホールにはまった陽菜と雅之に、思念の意思が受諾されてしまう。閏秒が生んだと思われたタイムホールはオルガンの音の波長と一致して、その雅之の気になっていた時代へとタイムホールをつなげてしまったのだ。なにも知らない雅之たちに「時の迷人」の掟が襲い掛かる。救出を求める時神からのメッセージを託されたピアノの付喪神フランソワ。その知らせを無事に夏見に届けて救い出せるのか。そして実姉と紗弓に向けられた妖精のメッセージを受け取れるのか。サンシキスミレのエキスで作られた媚薬が手違いのもとになる。そんな物語のプロローグだった。
『時神と暦人3⃣ 御厨に流れる時間物語』
「第1話 ♪オールドローズとプレイエルのピアノ」
『時神と暦人4⃣ 伊勢の時間物語』
「 第6話 ♪外伝・幸運のライラックと友情-熱田の出会い-」
『思い出の『潮風食堂』-不思議な味どころ-』
「∞第十一話ダース君とファッジとミュージカル・スター」
『思い出の『潮風食堂』Ⅲ』
「∞第三話 花菱の効力-恵方巻き-」
(以上の四作品からの登場人物で構成された新作です)
弥生陽菜は十二階雅之を待っていた。場所は荻窪駅近くにある音楽堂のロビー。彼のオーディションが受かったお祝いも兼ねたデートで、彼の所属劇団の活動場所に近い荻窪で待ち合わせである。
彼女は音楽堂のエントランス・ロビーに立っていた。ピンクのリボンをあしらったお気に入りの黒いワンピースに、可愛らしいシルバーのピアスをつけての大人コーデである。合わせるように腕にかけたピンクのリボンの白いバーキンのバッグも若い女性らしいアクセントになっている。
このホールでコンサートを聴いて、となり街でお祝いのディナーを食べるというデートコースである。若者文化の交錯場所である杉並は活気に満ちている。
「ごめん、待たせたねえ」と雅之は笑って現れた。中折れ帽にジャケットとジーンズだ。
『これでステッキ持てばまるでジーン・ケリーね』と陽菜は内心思ったが、口にはしなかった。
「大丈夫、まだ時間前よ」と言ってから腕を絡める彼女。
入り口には大きなポスターとセットリストである。美しいドレスを纏った女性ピアニストのアップ写真のポスターだ。
『角川栄華 月を紡ぐクラッシックの夕べ 十六時半開場 十七時開演
ドビュッシー 月の光 (ベルガマスク組曲)
ベートーヴェン 月光
フォーレ 月の光
山田耕筰 荒城の月
ショパン ノクターン 第12番 』
「角川栄華さん?」
雅之には馴染みのない名前である。彼の音楽嗜好はミュージカルかポップスだけである。
「結構有名なクラッシックのピアニストさんでね、たまに潮風食堂にも顔を出すんですって」
「へえ、じゃあ一色さんとも知り合いなのか」
「うん。零香さんからも楽し気にそのことを教えてもらったことを覚えているわ」
ステージは休憩の三十分を挟んだ九十分ほどで、前半後半の四十五分だった。きれいな三十代の女性はその後アンコールも二十分ほど行ってすっかり夕べの時間となる。
プログラムをカバンに片付けて、ロビーに出ると雅之は驚く。
「夏見さん!」
潮風食堂でたまに見かける一色の先輩という夏見粟斗をロビーの椅子で見つける。いつもの黒いジャケットは夏なので着ていない。ワイシャツ姿だ。そしてダレた感じでベンチに寝そべっていた。夏見も知っている顔に声をかけられてうれしい気分だ。上半身を起こす。
「おお、演劇青年! 来ていたのか」
おおよそクラッシックとは縁のないように見える夏見がクラッシック音楽のコンサートの会場にいたことに驚く雅之。
「お知り合い?」と彼女。
「一色さんの先輩でね、夏見さん」と紹介する雅之。
「まあ、潮風食堂と関係のある方ですか」
彼女の言葉に「どうも青砥一色の先輩の夏見粟斗っていいます。お初なのかな?」と言って笑顔を見せる。
そして「今日は妻のコンサートにお越しくださいましてありがとうございました」と会釈する。
その言葉に「えっ?」と驚く陽菜。
「今なんて?」と訊ねなおす彼女。
夏見は笑うと「ああ、あの……角川栄華は僕の妻です」と言い直す。
その言葉に彼女はパンフレットのプロフィール欄を確認した。『本名夏見栄華』とある。
「えええっ」とまた驚く。
そして「とても良い演奏だったので、よろしくお伝えください」という。
「はい、承りました」と夏見。
「それでお二人はこれからどこへ?」
夏見の質問に彼女が答える。
「散歩がてら隣町の阿佐ヶ谷までブラブラします。ちょうど旧暦で七夕祭りをやっているので」
「ああ、そうですか。風流でいいですね。お気をつけて」と言って一礼すると夏見はまた椅子に座って伸びをした。
二人はそのまま線路際を歩きながら駅へと向かう。電車に乗るというわけではなく、地図なしに歩けるルートで阿佐ヶ谷に向かうという算段だ。阿佐ヶ谷駅も南阿佐ヶ谷駅も荻窪駅からほぼ同じ距離で、徒歩で行ける。二人は地下を走る丸の内線より地上を走る中央線の方が目印になって分かりやすいと踏んで、中央線の高架下、線路わきの道を散歩がてら歩き出した。空にはそろそろ赤金色の月が出始めていた。
再びホールのロビーでウトウトする夏見の袖を引っ張る誰かがいる。半ばまどろんでいる彼は『今度は誰だ』と思い目を開けた。
そこにはオールドローズのコサージュを胸につけて、褐色のワンピースを着た若い女性の姿があった。
「夏見さん!」
「おお、今度はフランソワか。どうしたの?」
「時神さまが時空の変化を感じているらしくて、今夜の阿佐ヶ谷付近で注意してほしいって。そのことを暦人たちに知らせてほしいとおっしゃっています」
「時空変化……。時神さまが……」
夏見はとっさに気付いた。
「それって、普段は埋まっているゲートが開くってこと。いつぞやの『閏秒オチ』じゃないよな」と立ち上がる。
「はい。その可能性も否めません」とフランソワ。
嫌な過去の記憶が夏見の脳裏をかすめた。かつての『閏秒オチ』がこの近くで再発するのだ。
「何の話?」と夏見の横に出てきたのが、キッチンワゴンのクレープ屋を生業とする勘解由小路歌恋だった。彼女は暦人の西洋版という立ち位置の役目、カレンダーガールであり、修行を積んだその上の立場である時魔女を兼務している。
「おお、歌恋ちゃん。いいところに」
「この近くに出店していたら、栄華ちゃんのコンサートがあるって聞いたので当日券でもぐりこんでました」と笑う歌恋。
夏見は話題を戻して歌恋に現状を伝える。
「『閏秒オチ』が起きるんだって、この辺りで」
「『閏秒オチ』か……。タイムホールに落ちる人がいなければ、何事もないんだけどねえ」と歌恋。
「『閏秒オチ』って、結局どうなってしまうの。なんなの?」とフランソワ。
「時間のひずみが時間穴となって、この世界に現れてしまい、落とし穴のようになってしまう現象よ。たまにあるの。規模の小さいものはけっこう年に一二回は起きているわ。運悪く一般の人が落ちると『時の迷い人』になって時間の狭間を永遠にさまようことになるわ」
「そんなの危ないじゃない。時間のひずみなんてどう存在するの?」とフランソワは訊く。
フランソワの言葉に歌恋は説明を始める。
「閏年や閏日って、何のためにあるか分かる?」
「割り切れない地球の公転時間や自転時間の補正でしょう」
宇宙論から切り出すフランソワ。
「あたり、正解。例えば、正確には自転周期は約二十三時間五十六分だし、公転周期は約三六五・二五日で、通常は四捨五入して学校などでは教わることが多いから、知らない人もいるけど、二十四時間でも、三六五日でもないのよ。でも暦や日付を小数点表記するわけにもいかない。だから日々微妙に実際の地球の運動とは、数字上ズレが生じる。当たり前だよね。暦はそんな宇宙の法則に近い数字を我々人間が勝手に割り出して、上手く当てはめた作りものだから」
「そうよね」
「そんな小さなズレも何か月、何年もすると、毎日、毎年のズレ分が徐々にたまっていく。やがてちりも積もれば山となり、まとめて大きなズレになる。それを補正するのが閏月や閏日の役割なのよ。現行の暦法では四年に一度の二月の閏日設置で補っている。そこでプラマイを補正しているのよね」
「うん」
「でもほんの稀にだけど天体も計算外の動きをすることもある。宇宙も規則正しくデジタルのようには、切りよく動いてくれないの。すると一秒や一分単位でズレが生じる。そんなときに補正をするのが、暦人たちが言う『暦法計算』ってわけ。この小さなズレを放っておくと異次元トラブルが発生するのよ。それらの時空の歪みを押さえるのも私たちカレンダーガールや暦人の仕事のひとつって訳」
要点をうまく説明する歌恋。お見事である。
「すごい、そんなことまでやるのね」と感心するフランソワ。
「昔、暦人総出で時空穴の埋め立てなんてのをやった経験もあるの。数十年に一度、それのでっかいやつが来るのよ」と歌恋。
「そうだ時空病の原因にもなった大規模処置。何度も現代と過去の時間を行き来することとで『刻越病』の原因になったっていう工事だった。本当に落し穴みたいなタイムホールがたくさんできたんだ」と夏見。
時守の里の本草御厨で取ってきたラベンダーティで解決したときを思い出した夏見だ。
「そう、そしてそれの小さいやつが、またこの時代で起きようとしているって事がこの話の内容だよ」
フランソワは「結構深刻かも」とため息だ。
「沢山の人が落ちてしまうような大きなものではないんだろう」と夏見。
「うん。でもね、そこから現代の何かが落ちれば、結構未来や過去を変えちゃうのかも、って思った」
「そうだね。仕方ないね。もしすごい大きなものだったら、助っ人を誰かを呼びますか?」という夏見に、
「私だけじゃご不満ですか?」と笑っている歌恋がいる。
夏見は少し赤ら顔で「いやいや知識的には十分なんだけど、人手の方がさあ」とこぶしで口元を抑える。深刻そうだ。
「まあ現地のホールに行ってみて、穴の規模を知ってみて、人手がいるのかどうかを考えてみては?」と歌恋が提案する。
「まあそれもそうか……」と夏見。コンサート中の栄華を引きずり込むのも良くないし、なによりもっと緊急事態なら時神が託宣として、時を止めるはずである。
夏見は歌恋とフランソワという、なんとも奇妙な三人で中央線の高架下の道を雅之たちを追うように阿佐ヶ谷方面に歩き出した。繁華街というのは明るくて賑やかである。人通りも途切れないし、まさかこんな場所でタイムリープが起きるのは考えにくい。突然人が消えたら大騒ぎになる。
一方の雅之と陽菜は久しぶりのデートに少し浮かれ気分だ。
夕暮れの街には、美食の香りが漂い、飲食店の軒下では割引券を配るなどの賑やかさが始まっていた。
そこに不思議なオルガンの音が聞こえてくる。懐かしい様な、癒されるような童心に戻る音色。それでいて優しさを含む旋律である。
「『花のワルツ』よね、チャイコフスキーだわ」
「舞台では花の妖精の踊るシーンだな」と雅之。
「どこから聞こえてくるのかしら?」と陽菜。
「こっちの路地裏だね」
二人の足は自然にその音のする方へと向かっていた。
その曲がった先の路地の入口が二人に不思議な感覚を与える。濡れない水のようなベールを潜り抜けた感触を体に感じる。
「えっ?」と陽菜。
「なんだ?」と顔をぬぐう雅之。だが特に濡れた気配もない。
オルガンの音は相変わらず聞こえている。そして中央線のガードの音が路地の奥まで響く。少し違和感を感じたのは雅之だけではなかった。
「ねえ、雅之? なんか街の様子が少し変じゃない?」
言われた雅之も辺りを見回す。
『じぇ、じぇ、じぇ』と書かれた貼り紙が辺り一面を覆う。
「これって東北地方舞台にした昔の朝の連ドラのやつよね。小学校のとき見たことあるわ」と陽菜。
「それにしてはやけに新しいような、このポスター。新品同然だ」
眉をひそめた雅之が胡散臭そうに見る。その貼り紙は海潜りの海女さんの格好をした若手の女優のポスターだ。そしてその横には東北新幹線の320キロ運転開始の記事が書かれた雑誌が売られていた。
相変わらずオルガンの音はずっとなり続けている。いったいどこの誰が弾いているのだろう。
二人は路地の先にあるさらに細い路地に入る。音はその先から出ているようだった。
一方の夏見と歌恋もまた雅之たちが歩いた高架橋脇の商店街を歩いていた。フランソワも恐る恐るついてくる。本体であるピアノから離れることを特別に許された高貴な付喪神になったフランソワなのだが、弱気な気分で二人の陰に隠れるように歩く。
すると彼らの耳にも、あのバレルオルガンの『花のワルツ』が聞こえてきた。
「なんだこのオルガンの音」といった夏見に対して、歌恋とフランソワの慌てぶりが対照的だった。女性二人は身構えたような前傾姿勢であたりを見回す。
その様子を不審に感じた夏見は「歌恋ちゃん、なんか知っているの?」と訊ねる。
「ものすごく知ってます。人魚が船を座礁させるような妖力に近い妖気を感じます。多分、妖精パックの仕業かと思います」
「わたしもそう思います」とフランソワ。
「妖精パック?」
夏見は傾げた首のまま、鼻の上で偏光グラスの位置を人差し指で正す。
「シェークスピアの『真夏の夜の夢』にも登場していたいたずら好きで、あわてんぼうの妖精です」
「ほう、そんな妖精がなんでまた阿佐ヶ谷にやって来たんだろう?」
するとフランソワが合点がいったように「だからこそ時神さまは私を選んで伝言したんだわ。だって普通なら時巫女に頼むはずだもの。これは暦法や閏秒オチとは関連はなさそうですね」と言う。
「というと?」と夏見。
「西洋の妖精と西洋の魔法だからです。時間の自然現象ではありません」
「なるほど。ここは日本だから日本流の対処法が必要だけど、根本が西洋の妖精なので、ということか。ならば時魔女の歌恋ちゃんが俺の近くにいたことも決して偶然ではないということだな。大体本来なら閏秒の修正作業だけなら時巫女たちがさっと片付けてしまうはずだからな。洋物の妖精じゃ、彼女たちも手出しできないってわけか」
夏見は腕組みをして合点のいった顔で頷いた。
すると歌恋が道路のアスファルトに標定速度や「止まれ」の表示をしたかのように、不思議な円陣が描かれているのを見つけた。
「あれ見て。交通表示じゃないわよ、あの図形」
「本当だ」
「あの円陣の先は亜空間の香りがするわ」
「これは我々暦人の知っているような純和製の金色の御簾じゃないなあ。どっちかっていうとカレンダーガールたちが使うタイムホールの雰囲気を感じる」
夏見は長年の勘からそう結論付けた。
「その通りね。これは八百万の神の香りはしないわ」とその意見を肯定する歌恋。
「ゲートの向こうからこのオルガンの音は鳴っています」といったあと、「それに私たちと同じ時代の人がゲートに入った香りがします」とフランソワ。
その気配は歌恋にもわかったようで「尋ね人はこの扉の向こうに行ったようだわ。音の出所もこの中だし入りますか?」と夏見に問う。
夏見はニヤリと笑って「もちろんだよ、雅之君や陽菜ちゃんを迷い人にはできないでしょう」と言って、率先するようにその水壁に足を踏み込んだ。
「この音色と弾き方ってバレルオルガンとか、ストリートオルガンとかいう台車付きの箱型オルガンのように思います」
歌恋の言葉にフランソワも「うんうん」と頷く。
「それはどんなオルガンなの?」
夏見の質問に歌恋は、「夏見さんの奥様の方が詳しいかもしれないけど、一口で言うとオルゴールと同じ原理で動く手回しオルガンです」と簡潔に述べた。
「オルゴールと同じってことはドラム式の軸に突起物をつけて、それに引っかかると発音するっていう自動演奏の楽器かな?」
夏見の言葉に「さすが理解力ありますね。全くもってその通りです。オルゴールやピアノロールはゼンマイの発明によって動力の基本はそこにありますが、それより少し古いバレルオルガンはゼンマイのない時代のものなので取っ手ハンドルを回して手で動かしています。いわば完全手動です。その作業で鞴に空気を入れて足踏みの原理と同じ空気圧の方法でオルガンを発音させています。音階をドラムの突起物、発音を空気圧で調達した半自動演奏楽器です。よく十九世紀や二十世紀初頭には遊園地や移動サーカス、旅劇団などの人たちが使っていたようです。昔見た『ペリーヌ物語』というアニメ作品でヨーロッパを巡る旅の一座が使っていました」と説明を入れる歌恋。
「へえ、さすがだね。やっぱり時魔女は勉強家なんだね」と夏見。
褒められて少し頬を赤らめる歌恋。好意を持つ人物からの誉め言葉は特にうれしいものだ。
「でも小型のものだと突起爪のついたドラムロール式ではなく、穴の開いたくぼみを利用するカード式のものもあって、これがリードに伝わり発音するみたい」
さりげなく歌恋は付け足した。
「OK。予備知識をありがとう。じゃあ、いっちょ、久しぶりに人命救助と行きますか」とまじめな顔で夏見は自ら率先して、その水壁に足を踏み入れた。
<つづく>




