閑話 智慧の館
本日投稿二つ目、アネルマ婆さんと歴史のお話です。
啓吾が初めての狩りを終えた日の翌日。
午後の稽古も終えた夕方の帰り道に、啓吾はヨウシアに連れられて“智慧の館”にやってきていた。
里も外れの方に位置している智慧の館は、ある意味もっとも変わった造形をしている建築である。というのも、里の中に生えている最も大きな、それこそ幅が数十メイルはあろうかという巨大樹をまるごと建物にしているのである。
さすがに既に生を終えた樹を使っているので高さの方はそれほどでもないのだが、一体全体全盛期にはどれほどの偉容を誇っていたのか、啓吾は胸中で感嘆を禁じえなかった。
「とりあえず、中に入ったらおばばと弟子のヘンリクがいるはずだから、ゆっくりしておいで」
「父上は来られないのですか?」
「たぶん、おばばが二人で話したがるだろうしね。帰ってくるのは遅くなっても構わないから、気の済むまで楽しんでおいで」
そう言いおいて去っていくヨウシアに啓吾は首を傾げながらも、大きな樹の洞にそのまま設えたような扉を押し開けて智慧の館へと足を踏み入れた。
館の内部は思いのほか普通であった。樹の中である以上少々の歪さはともかく、造りはヨウシア達と暮らす家となんら変わりはない。違うのは、所狭しと並べられた棚にこれでもかと詰め込まれた巻物や本だろうか。規模だけなら前世の一般的な図書館とも張り合えそうな勢いである。
「なんとも、すごい量だな……」
「当たり前さね。なんたってオーストレームの里はアニム族の集落の中でも最古のものだからね。ま、里としての規模は大したことはないけれどさ」
啓吾の独り言に答えたのは、やはりというかアネルマであった。
半月型の眼鏡を鼻に懸け、烏羽色のローブに身を包んだ老婆の姿は、館の雰囲気とも相俟ってどこか古の魔女のような雰囲気がある。
どこか楽しげに啓吾の顔を見ながら本棚の隙間を縫うようにして歩く速度は思いのほか早い、どこかせかせかしたような感じにも見えた。
「最古ってのは、具体的にはどれくらい古いんだ?」
「伝承に従えば神代の次代の戦争の頃……、つまり数万年以上前には既にオーストレームの名前があるねえ。ま、たぶん前線基地みたいなもんだったんじゃないかい。もっとも、今ある場所とは違うところに居を構えてたかもしれないね」
「ちょっと待て、てことはなにか、ここにある書物には数万年前のものも含まれてるのか!?」
「おや、そういう者の価値を知っているってのは嬉しいねえ。その通りだよ。ここにはそういうものもある。その辺りは先人の筆まめさと魔法の力に感謝だねえ、口伝じゃないってだけでも意味があるからねえ」
満足げに頷くアネルマに、しかし啓吾は二の句が告げられなかった。何万年もの時を越えた書物が文字媒体でちゃんと残っているなどというのは奇跡の賜物である。それも、アネルマの口調からすればほぼ完璧な状態でなのだろう。値段などつけられない価値がこの館には溢れているのである。
「それより坊や、里の連中とは上手く行ってるのかい?」
「あ、ああ、もちろんだ。話してみたら気の良い連中ばかりだしな。最初はもっと煙たがれるかと思ってたが……」
「かかか、そらあんたが“放浪者”だからだよ」
アネルマの言葉に、啓吾は我に帰った。
そもそも、啓吾が智慧の館に大人しく連れてこられたのも、一つには自分自身も深く関わっている“放浪者”について知りたかったからであったのだ。
「なあ、アネルマ」
「よしとくれ! 坊やみたいな若いのに名前で呼ばれちゃむず痒いよ」
「む……、それじゃあ、婆さんでいいか?」
「あはは、新鮮でいいねえ。それで構わないよ」
そう言うと、アネルマは啓吾に背を向けて林立する本棚の方へ歩き始めた。慌てて啓吾がそれを追いかけると、アネルマの足は部屋の一際奥にある本棚の一角で止まった。
「坊やが知りたいことは分かってるよ、放浪者のことだろう? この辺りのがその類いのことを書いてある」
「……多いな」
「そりゃそうさ。放浪者の功績は即ち伝説だからね、自然と伝承の数も多くなる」
「悪いが、搔い摘んで説明してくれないか」
啓吾の申し出に、予測していたのかアネルマは間断なく頷くと幾つかの絵巻物を広げながら説明を始めた。
智慧の館の蔵書に従えば、最初の放浪者、というのは一万年よりは昔に登場している。
その頃はもっと神代に近い時代で、アルバスやイミル、ベルクリシといった今では伝説上の存在となった種族も現存しており、戦もより激しいものであったらしい。
最初の放浪者、エドガー・ユンカースは精強で勇名を馳せた古代セオド王国の勃興に寄与し、暗王と呼ばれた闇の勢力との戦いは伝説として広く膾炙している。
次に現れた放浪者は自らをジンと名乗った。
時は戦乱の様相を呈しており、種族入り交じった混迷期にあったのだが、ジンは少数の仲間達と大陸中を旅して多くの命を救い、とりわけ虐げられていた小人族やアニム族を護ったことで名が知られている。
その後も、戦乱の世になる度に放浪者は現れており、その度になにがしかの業績を残している。総数は十にも満たないのだが、歴史の節目に現れて何がしかを残している彼らは皆ほとんどが伝説の英雄のように讃えられている。
とりわけ、人間に虐げられる歴史を持つ種族はアニム族を含めて幾度となく滅亡の危機から救われており、世代を超えて彼らへの恩は語り継がれているというのだ。
「直近だと数十年前にも居たねえ」
「居た、なのか」
「数年前の戦いで死んだそうだ」
アネルマの言葉に、少なからず啓吾は落胆を覚えた。叶うならば、同郷の者に会えればと思わないでは居られなかったのだ。
「名前はモンドって言ったかね。ちなみに、クリスタの言ってる“勇者さま”は彼の伝承を元に作られた子供向けの絵本さね」
その言葉に、啓吾の片眉がぴくりと反応する。
あれほどにクリスタが気に入って、そして啓吾を助けた一助にもなった勇者の物語、気にならない訳がなかった。
「ちょっと待っとくれよ、確かこの辺りに……。あぁ、これだこれだ」
アネルマから受け取った絵本を啓吾は丁重に開くと、そこにはなんとも可愛らしい絵柄で書かれた勇者の物語が平易な語り口で書き連ねられていた。
濃緑のローブを身に纏った銀色の髪の男が、同じく銀色に光る長剣を振りかざして弱きを助け強きを挫き、人間に虐げられているアニム族を救うという筋書きだ。
全体の出来としては中々に良いと思われるのだが、ふと啓吾は嫌な予感を覚えた。
「まさか、この絵を描いたの婆さんじゃ……」
「馬鹿なことをお言いよ。そいつは弟子が描いたのさ、後で会わせてやるから文句があるならそいつに言っとくれ」
妙な安堵を胸に、しかし啓吾の胸中は穏やかならざるものであった。
啓吾が不思議に思っていた“放浪者”という存在も、なぜアニムの人々が自分に優しいのかも分かった。けれどもそれは、自分の功績でもなんでもない。ただ、他人の栄光を借りているようなものである。
自分が、それに相応しい人間かどうか。啓吾にはその自信が無い。
「ふ、ふふ、やっぱり坊やは坊やだね」
「どういう意味だ?」
「若者らしい悩みだって言いたいのさ」
全てを見透かすようなアネルマの瞳に、思わず啓吾は息を飲んだ。
「大方、坊やの悩みは分からないでもないけどね、いらぬ心配というやつさ。皆、あんたが放浪者であることに思うことはあっても、坊やは坊やとしてちゃんと見ているさ。だから、あんたは自分の思うように生きれば良い。他人の評価なんて後から勝手についてくるんだよ」
瞬間、啓吾の脳裏に昨日のクリスタの言葉が甦った。
『私ね、いつか絵本の勇者さまに会ってみたいって、ずっとずーっと思ってたの。だから、ここでお兄ちゃんを見つけたとき、夢が叶ったって思ったの』
『でもね、あの日一緒に話して、お兄ちゃんが泣くのを見て、お兄ちゃんは絵本の中の勇者なんかじゃなくって……、なんて言えば良いんだろう』
『あのね、とにかくお兄ちゃんはお兄ちゃん、勇者さまとは違うって分かったの』
自分でも気付かぬうちに肩肘を張っていたらしい、そう気付かされて啓吾は思わず苦笑を漏らした。情けないとも思うし、皆の温かさがありがたいとも思う。
異常に高い周りの評価に困惑し、だからこそそれに答えようとどこかで考えていたのだ。そう思った途端、啓吾は無駄な力がすっと抜けたのを自覚した。
「気付かない間に、皆に心配をさせてたみたいだな」
「おや、嫌に素直だね。ふふ、たっぷり反省しときな、それも若さだよ」
「婆さんも、ありがとな。あんた、見た目以上に親切なんだな」
自然と口を突いて出た啓吾の言葉に、アネルマは眼を大きく見開くとふてたような顔でそっぽを向いてしまった。
それが照れ隠しなのか、不本意さからくる嫌みなのかは啓吾には分からなかったが、確かに啓吾はローブの下で小さく揺れる猫の尻尾を目撃した。
(そうだな。俺は、俺らしく生きれば良いんだ。何かになる必要なんて、どこにもない)
そう思えば、啓吾にとって難しいことなど何もない。
戦う術を磨くこと、戦いに身を置くことこそが啓吾にとって生の充足を得る唯一の道なのだ。
「ふん、すっきりしたみたいだね」
「まあな。それよりもっと里のことを教えてくれないか? アニム族のことに興味が湧いてきた。魔法についても知りたいことがあるしな」
「それなら……。ヘンリク! お客さんがお呼びだよ、ちんたらせずに出ておいで!!」
アネルマの怒声が終わるか終わらぬかの内に、部屋の隅に設えてある階段を転がるように降りてくる人影があった。
背丈は啓吾より少し高いくらいだろうか、絹鼠色の髪の毛はボサボサで鼠の耳と尻尾が印象的な男性である。割と整った顔立ちではあるが、その眠たげな目元がなんとも脱力感を与える雰囲気の持ち主である。
「はいはい。そんなに叫ばなくても聞こえてますってば、何の御用です?」
少々息を弾ませながら一口に言い切ったヘンリクは、啓吾を視線に捉えた瞬間に硬直し、直後に恐ろしいまでの勢いで啓吾に詰め寄ると強引に両手を取ってぶんぶんと握手を交わした。
「貴方が噂の放浪者さんですね! 私、この里のリベラスを努めているヘンリクと申します。いやあ私が生きている間に放浪者に出会う幸運に恵まれるとは! あ、何かお知りになりたいことがあれば何でも仰ってください。それが私の仕事ですので!」
「あ、ああ、ありがとう」
あまりの勢いに眼を白黒させながらそう返すのがやっとの啓吾を、アネルマは意地悪そうな笑顔でニヤニヤと眺めている。
どうにかヘンリクが落ち着くのを待って、啓吾はとりあえず気になったことを訊ねることにした。
「早速で悪いんだが、そのリベラス、というのはなんなんだ?」
「ええと、簡単に言いますとこの館にある書物の保全と子供達の教育、それに館にいらした方が求める情報を説明する仕事ですね」
「ん? じゃあ婆さんはなにしてるんだ?」
「あぁ師匠は私の先代に当たります。仕事としては首長の補佐と思い出した時に色々私に教えてくれるぐらいですかね」
「思い出した時にってのは余計だよ、この減らず口めが」
ヘンリクはアネルマの罵声を物ともせずにせかせかとどこかに行くとすぐに一本の巻物を持って戻ってきた。
啓吾の前で広げられたその巻物には何百にも渡る人名が書き連ねられている。どうやら、歴代のリベラスの名前が載っているらしい。
「他には何か?」
「あ、ああ、それじゃあ地理とか……」
「地図ですね! 少々お待ちを!!」
まさに打てば響くという感じである。
本棚の向こうへと消えていくヘンリクを啓吾は半ば呆然と見送った。
「あーあ、こうなるとしばらくは解放させてくれないよ。あの子は時々猪みたいになるからね。おばばは先に上がらせてもらうよ」
「あ、おい。婆さん!?」
さっさと階段の方へと去っていくアネルマを呼び止めようとした啓吾はしかし、直後にヘンリクに捕まってしまう。
どこかクリスタに通ずるキラキラとした瞳を見ると啓吾もヘンリクを無下には扱えなかった。
結局、啓吾が家に帰ったのは日が完全に落ちてからになってしまった。
二週間の訓練の末、実力を認められた啓吾は精霊魔法を使えるようになるためにクリスタ、サンテリと共に短い旅に出ることになる。それが全てのはじまりとも知らずに……。
次回、『いざ精霊の峰へ』、明日の夜をお楽しみに!




