第一話 君の言葉に恋をした。
君は文字で、僕は声で。
君が詩を書いて、僕が詩う。
たったそれだけの違いだった。
けれど僕たちの世界はひどく違っていた。
君は言葉を紡ぐことで誰かの心に触れようとした。僕は誰かの言葉を声にすること、その心を届けようとしていた。
そんな僕たちが出会ったのは三年前。
僕が高校一年生だった春の終わりのことだった。
「今日からこの部に入ることになりました。一年の僕です。よろしくお願いします」
放課後の教室。
窓から差し込む西日が、机の上に長い影を落としていた。
僕が入部したのは、文芸部。
本を読むのが好きだったわけでも、文章を書くのが得意だったわけでもない。
ただ、昔から声に出して文章を読むことが好きだった。
小説の一節でも、誰かが書いた短い詩でも。
文字だけでは伝わらない感情を、自分の声に乗せて届けることに、言いようのない楽しさを感じていた。
そんな僕を見て顧問の先生が勧めてくれたのがこの文芸部だった。
「よろしくね。私は二年の先輩。ここの部長をしてるの」
そう言って彼女は小さく微笑んだ。
肩にかかるくらいの髪。
少し眠たそうな目。
机の上には何冊ものノートと書きかけらしい原稿用紙が置かれていた。
第一印象は静かな人。
それから少しだけ寂しそうな人。
もちろん、初対面の僕に彼女の何が分かるわけでもなかったけれど。
「よろしくお願いします、先輩」
「うん。こちらこそ」
それが僕たちの最初の会話だった。
このときの僕はまだ知らなかった。
これから毎日のようにこの人の言葉を待つことになるなんて。
「ねえ、後輩くん」
入部して三日目の放課後。
部室で本を読んでいた僕に先輩が声をかけた。
「はい?」
「君って声に出して読むのが好きなんだよね?」
「え、ああ、はい。好きですけど」
「じゃあこれ。読んでみてくれない?」
そう言って差し出されたのは一枚の原稿用紙だった。
そこには整った文字で短い詩が書かれていた。
『君が笑った。
それだけで
今日という日を
好きになれた気がした。』
僕はその詩をじっと見つめた。
短い。
けれど、優しい言葉だった。
「これ、先輩が書いたんですか?」
「うん。昨日の夜にね」
「……すごいですね」
「え?」
「あ、いや。なんか、いいなって」
慌てて言い直すと先輩は少しだけ目を丸くした。
それから照れくさそうに笑った。
「ありがとう。じゃあ、読んでみて」
僕は原稿用紙を持ち直した。
一度、深く息を吸う。
そして文字を声に変えた。
「君が笑った。それだけで今日という日を好きになれた気がした」
読み終えると部室は静かになった。
先輩は何も言わなかった。
僕の読み方が気に入らなかったのだろうか。
そう思い始めた頃、彼女がぽつりと呟いた。
「……不思議」
「何がですか?」
「自分で書いた言葉なのに君が読むと違う言葉みたいに聞こえる」
僕は首を傾げた。
「同じ言葉ですよ?」
「うん。でも、私が書いたときにはなかった気持ちが君の声にはある気がする」
その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなった。
誰かの言葉を読むことが誰かの心を届けることになる。
僕はその瞬間、初めて自分がこの部活に入ってよかったと思った。
「……また、読んでもいいですか?」
気がつけばそんなことを口にしていた。
先輩は少し驚いたあと嬉しそうに笑った。
「もちろん」
その笑顔を見たとき。
僕はもう一度この人の詩を読みたいと思った。
いや。
この人の書く言葉をもっと知りたいと思った。
それから僕たちの日課ができた。
放課後、部室に集まる。
先輩は窓際の席で詩を書く。
僕は向かいの席でその詩ができあがるのを待つ。
ときどき、先輩がペンを止めて窓の外を眺める。
僕はそんな横顔を何となく目で追ってしまう。
「……何?」
不意に目が合って慌てて視線を逸らした。
「い、いや、何でもないです」
「変なの」
先輩は笑ってまた原稿用紙に目を落とした。
その横顔を見るたびに僕は思う。
この人はいったい何を考えているんだろう。
どんな気持ちで言葉を選び、
どんな思いを詩に閉じ込めているんだろう。
そして。
どうして、ときどきこんなにも悲しそうな顔をするんだろう。
ある日の放課後。
先輩が書き上げた詩にはこんな言葉が並んでいた。
『誰かの特別になりたかった。
けれど、
誰かの一番になれるほど、
私は綺麗じゃなかった。』
読み終えた僕は思わず顔を上げた。
先輩はいつものように微笑んでいた。
けれど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「……先輩」
「ん?」
「この詩、悲しいですね」
先輩は少しだけ目を伏せた。
「そうかな」
「はい。僕は、そう思いました」
「そっか」
それきり先輩は何も言わなかった。
僕もそれ以上は聞けなかった。
先輩がどんな思いでこの詩を書いたのか。
本当は誰に向けた言葉なのか。
知りたいと思った。
でも、聞いてしまえば今の関係が変わってしまう気がした。
だから僕は詩を丁寧に原稿用紙へ戻した。
そしてひとつだけ伝えた。
「でも、僕は好きです。この詩」
先輩が顔を上げた。
「……どうして?」
「悲しいけど、嘘がない気がするから」
少し考えてから僕は続けた。
「それに、先輩の言葉って、誰かに届いてほしいって思って書かれてる気がするんです。だから僕は、ちゃんと声にして届けたい」
先輩は何も言わなかった。
ただ、僕を見つめていた。
やがて小さな声で言った。
「……君って、ずるいね」
「え?」
「そんなこと言われたらもっと書きたくなっちゃうじゃん」
そう言って笑った先輩の目は少しだけ潤んでいるように見えた。
そのときの僕にはまだ分からなかった。
先輩がどんな思いでその言葉を口にしたのか。
けれど、ひとつだけ分かったことがある。
僕は先輩の笑顔が好きだった。
詩を書いているときの真剣な顔も。
言葉を探しているときの横顔も。
自分の書いた詩を、少し恥ずかしそうに僕へ差し出す仕草も。
全部、好きだった。
……いや。
このときにはもう気づいていたのかもしれない。
僕は先輩のことが好きなのだと。
六月の初め。
雨が降っていた。
部活が終わる頃には校庭も、渡り廊下もすっかり雨に濡れていた。
「うわ、結構降ってるな……」
昇降口で空を見上げると隣にいた先輩が小さく笑った。
「傘、持ってきてないの?」
「はい。朝は晴れてたので」
「天気予報見なかったの?」
「見てないです……」
「もう。仕方ないなあ」
そう言って先輩は自分の傘を開いた。
「駅まで一緒に行こ?」
「え、いいんですか?」
「うん。後輩を雨に濡らして帰したら部長失格でしょ?」
冗談めかした口調だった。
僕は少しだけ迷ってから傘の下に入った。
近い。
いつも向かいの席に座っている先輩が今はすぐ隣にいる。
雨音が傘を叩く。
濡れたアスファルトの匂いがする。
肩が触れそうになるたび僕は変に緊張してしまった。
「ねえ」
「はい?」
「君はさ、どうしてそんなに声に出して読むのが好きなの?」
またその質問だった。
僕は少し考えた。
「……言葉って書いただけじゃ伝わらないこともあると思うんです」
「うん」
「同じ『好き』でも、嬉しそうに言うのと、泣きそうに言うのじゃ意味が違うじゃないですか」
先輩は黙って聞いていた。
「だから僕は声にしたいんです。書いた人が伝えたかったことを、少しでも誰かに届けられたらいいなって」
話し終えてから少し恥ずかしくなった。
何だか格好をつけたことを言ってしまった気がした。
けれど先輩はからかうこともなく静かに頷いた。
「……そっか」
そして、少しだけ間を置いて。
「じゃあ、いつか私の声も聞いてみてよ」
僕は思わず先輩を見た。
「先輩の、声?」
「うん。私、詩を書くのは好きだけど、自分で読むのは苦手なんだよね」
先輩は雨の向こうを見つめていた。
「自分の気持ちを自分の声にするのって何だか怖くて」
その言葉は雨音に溶けそうなくらい小さかった。
僕は何も言えなかった。
先輩にも声にするのが怖い言葉がある。
いつも誰かの心に触れようとしている人なのに、自分の心を届けることは簡単ではないのだ。
だから僕は約束した。
「……いつか、絶対に聞かせてください」
先輩は少し驚いたあと柔らかく笑った。
「うん。約束」
その笑顔を僕はきっと忘れない。
雨が降るたびに思い出すのだろう。
あの日傘の下で交わした約束を。
駅に着くと雨は少し弱まっていた。
「じゃあ、また明日ね。後輩くん」
「はい。ありがとうございました、先輩」
先輩は改札へ向かって歩き出した。
僕はその背中を見送りながらふと思った。
明日も会える。
明日も先輩の詩が読める。
たったそれだけのことがこんなにも嬉しい。
スマートフォンを取り出すと、部活の連絡用に交換したばかりの連絡先が目に入った。
先輩からメッセージが届いていた。
『今日は傘に入れてあげたから次は君の番ね』
思わず笑ってしまった。
『じゃあ、次は僕が傘を持っていきます』
そう返すとすぐに返信が来た。
『ふふ、期待してる』
その短い文章を見つめながら僕は思った。
先輩のことをもっと知りたい。
先輩の好きなものも嫌いなものも。
嬉しいときにどんな顔をするのかも
悲しいときにどんな言葉を選ぶのかも。
いつか、先輩が自分の気持ちを声にできる日が来たら。
その声を誰よりも近くで聞きたい。
そのとき僕はまだ知らなかった。
先輩が書く詩の中に僕の知らない悲しみが隠れていることを。
いつか僕の声が先輩を笑顔にするだけではいられなくなることを。
そして。
先輩の本当の気持ちを知ったとき、僕は自分の声で何を伝えられるのだろう。
君は文字で。僕は声で。
僕たちはまだお互いの心の入り口に立ったばかりだった。
それでも。
あの日から僕の世界にはひとつの楽しみが増えた。
放課後、君に会うこと。
君の書いた言葉を僕の声で届けること。
そして、君が笑うこと。
たったそれだけで明日が少しだけ待ち遠しくなった。
僕はまだ、君の言葉に恋をしたばかりだった。
第一話 了。




