5話 ガキ大将との対決
昼の広場には、子供がそれなりに集まっていた。
広場、と呼ぶには手狭で、要は、いくつかの路地が交わるところに、潰れた井戸を中心にして、土が剥き出しになっている、それだけの空間だった。だが、スラムの子供たちにとっては、ここが最大の社交場であり、市場であり、たぶん、いくつかの通過儀礼の場でもある。
私がカイルのところに顔を出して、立ち話をして戻ってきたとき、その通過儀礼の真っ最中に、リナの後ろ姿が見えた。
ちなみに、カイルから今日聞き出せた話は、大したものではなかった。「最近、スラムの子供が何人か、姿を消している」という、それだけ。場所も、消え方も、犯人らしき者の手掛かりも、何もない。カイルの側も、こちらの側も、まだ手の内を見せていない段階だった。
カイルは私を値踏みしていて、私はカイルの口の軽さを測っている。本格的な取引に入るのは、互いの輪郭が見えてからだ。それまでは、世間話の体裁で、相手の出方を確かめあう。情報屋との付き合いの、入口の作法だった。
「もう一度言ってみろ、ガキ」
取り巻きの一人が、リナの腕を掴んでいた。
もう一人が、リナの背後から、首筋に手のひらをかざしていた。手のひらの上に、トリスの炎が小さく揺れている。脅し用の威嚇だ。当てるつもりはない。だが、当てる気がない、ということは、相手にうまく伝わらない種類の脅しだった。
「離して」
リナの声は、低かった。怖がっていない、というよりは、怖がりすぎて感情の振れ幅が小さくなっている声。私はその声を、昨日、小屋の中で一度聞いたばかりだった。
「離さねえよ。お前、最近、変なやつとつるんでるらしいじゃねえか」
「変なやつ?」
「ゴミ捨て場から這い出してきた、薄ぼけた小僧だよ」
——薄ぼけた、は少し心外だな、と私は思った。
声を出さなかったのは、そのほうが面白いと思ったからではない。ただ、自分の足音が、まだ向こうに気づかれていなかったから、それを利用しただけだ。広場の中央へ近づきながら、私は、状況を頭の中で整理した。
取り巻きは、二人。リナを掴んでいる一人と、トリスを構えている一人。
その背後、井戸の縁に腰かけて、両足をぶらぶらさせている、もう一人。
ゲオルグだった。
昨日の路地で出会ったときと、同じ顔。同じ服。ただ、目の中の光だけが、違っていた。あのときは「ゴミ捨て場から這い出した小僧」を見下していた目だったが、今は、もう少し、嫌な熱を持っていた。
昨日、私が彼の「ペンタ火球」を「五重構造」と評した、その後遺症だ。スラムのガキ大将は、自分のメンツに、たぶん、想像以上の重さを置いている。一晩寝て、その「メンツの傷」が膿んだのだろう。
◆
「やあ」と私は言った。
声が、思ったより自然に出た。
取り巻きの二人が、私を見た。リナの腕を掴んでいた一人は、ぽかんと口を開けた。トリスを構えていた一人は、わずかに炎を揺らした。動揺が、構造の脈動に出ていた。素人だな、と思った。
「私を呼んだか、と聞こえたんだが」
リナの目が、私を捉えた。怒りでも、安堵でもなかった。「来てしまったか」という、半分諦めの色だった。
ゲオルグが、井戸の縁から、ゆっくりと立ち上がった。
「来やがったな、薄ぼけ野郎」
「薄ぼけ、というのは——昨日からずっと気になっているんだが、視覚的な意味で言っているのか、それとも比喩か」
「あ?」
「私の目の焦点が合っていないと言っているのか、それとも、頭の働きが鈍いと言っているのか。前者なら医者の話だし、後者なら——たぶん、君は私のことを、ずいぶん観察してくれているのだな」
ゲオルグの表情が、止まった。
取り巻きの二人も、止まった。
止まっている間、私は、リナの腕を掴んでいた取り巻きが、わずかに力を緩めたのを見た。リナはその隙に、半歩、後ろへ下がった。掴まれていた腕を、自分の体の側に引き寄せた。
よし。これで、リナが攻撃の射線から外れた。
あとは、ゲオルグに集中していい。
「お前」
ゲオルグの声が、低くなった。
「昨日のあれ、許してねえからな」
「昨日のあれ、というのは、君の魔法の構造を解説したことか」
「お前、ガキのくせに、ガキのくせに!」
ゲオルグは、自分の言葉が見つからなくて、同じ単語を二回繰り返した。その時点で、彼の語彙の限界が露呈していた。怒っているとき、人の語彙は、その人の本来の幅まで縮む。
「だから、何だ」
「ガキは、ガキらしくしてろ、ってことだ!」
ゲオルグが、右手を上げた。
手のひらに、ペンタ火球が浮かんだ。
昨日見たものより、ずっと大きい。直径は私の頭ほど。色は青より白に近く、表面の脈動が、より鋭く、より速くなっている。本気の方の、ペンタ火球。彼が「スラム最強」を自称する根拠の魔法。
私は、それを見た。
ふむ、と思った。
ふむ、と思った瞬間、私は、自分が緊張していないことに、気づいた。
緊張していない、というよりも——前世で見ていた数学の問題と、目の前のペンタ火球が、私の頭の中では、同じカテゴリに属していた。両方とも、構造を持っていて、構造を持っているものは、解析できる。解析できるものは、対処できる。
怖くないわけではない。あれが当たれば、たぶん、私の体は燃える。だが、当たらなければいい。当たらないように、私は、私の手札を切ればいい。
手札は、十分すぎるほどある。
使う札を、頭の中で選んだ。
ペンタで返せば、「同格」のメッセージになる。それは、たぶん、彼を救う。だが同時に、彼は次もまた来る。「もう一度やれば勝てるかも」という希望を残してしまうから。
双子素数で返せば、「次元が違う」のメッセージになる。これは、彼を救わない。だが、彼に「もう来るな」と理解させられる。広場で見ている子供たちにも、同じことが伝わる。
残酷だな、と思った。
だが、ここで遠慮して、リナや、見ている子供たちが、明日もこの広場で同じ目に遭うのは、もっと残酷だ。
私は、大人ではないが、子供でもなかった。大人の頭で、子供の体で、子供たちの世界に、口を出している。それが正しいかどうか、わからない。わからないが、選ばないわけにはいかなかった。
◆
「行くぞ、薄ぼけ!」
ゲオルグが、ペンタ火球を投擲した。
火球は、空気を裂きながら、まっすぐに私の胸を狙ってきた。早い。だが、軌道が、まっすぐすぎた。前世で言うなら、変化球の存在を知らない投手の、力任せのストレート。
私は、半歩、左に動いた。それだけだった。
火球は、私の右肩のすぐ横を、熱い風だけ残して通り過ぎた。後ろの土壁に当たって、爆ぜた。土埃が舞った。
ゲオルグの顔が、引き攣った。
「な——」
私は、彼に視線を返した。
そして、口を開いた。
二つの真名を、同時に。
「ディオス——ディオン」
声に出した瞬間、空気が、左右から、引き絞られた。
私の左右の手のひらに、二つの何かが現れた。一方は、青白い雷光の塊。もう一方は、それと同じ色で、しかし回転の向きが逆の塊。双子の兄と弟。離れているが、互いに対になっている。互いを補完しあって、初めて完成する魔法。
絡みあいながら、二条の雷が走った。
一条は、ゲオルグの左の取り巻きの足元を抉って、彼を尻もちつかせた。もう一条は、右の取り巻きが構えていたトリスの炎を、空気ごと吹き飛ばして、彼の手のひらから消した。
二人の取り巻きは、戦意を喪失するというよりも、戦意を持つこと自体を忘れたように、地面に座り込んだ。
ゲオルグは、まだ立っていた。
立っていたが、彼の両手は、自分の意志に反して、震えていた。
私は、彼の方に、もう一歩、踏み出した。
ゲオルグの周囲の空気が、ぴりぴりと帯電していた。雷が、まだ、彼の周りを巡っていた。攻撃ではない。ただ、そこに在るだけ。在るだけで、ゲオルグの皮膚の表面が、薄く焦げる程度の電圧。
それで、十分だった。
ゲオルグは、ペンタ火球を作ろうとして、失敗した。手のひらに浮かんだ青白い光が、形を保てずに、ぱしっ、と弾けて消えた。集中が、できなかった。怖がっていたから。
彼は、口を開いた。
「な……なんだ、それは……」
声が、震えていた。
私は、自分の左右の手のひらの雷を、ゆっくりと消した。ディオスとディオンが、空気の中に溶けていった。彼らは私の合図を待たずに、勝手に消える。出番が終わったとわかれば、引き上げる。優秀な兄弟だった。
「双子素数だ」と私は言った。
言ってから、しまった、と思った。
また、解説してしまった。
戦闘の最中ではなかったから、まだ良かった。だが、本来、こういうのは、説明しないほうが、相手の畏怖を持続させられる。前世のミステリ小説でも、推理を全部明かす探偵より、最後まで黙っている探偵のほうが、たぶん、人気がある。
私は、自分の頭の悪い癖を、改めて自覚した。
そして、もう、口を閉じても遅いことも、わかっていた。
◆
広場に、静寂が降りていた。
いつの間にか、広場の周囲には、子供たちが集まっていた。十人、十五人、いや、もっと。スラムの子供たちが、路地の入口や、潰れた家の軒先から、こちらを見ていた。
全員の視線が、私に集まっていた。
怖いものを見る目、というのとは、少し違った。理解できないものを見る目、というのに、近い。普段、自分たちが「ペンタ火球を撃てる奴がスラム最強」と思っていた、その世界の地図が、たった今、書き換えられた。書き換えた当の本人——つまり、私——が、目の前の地面に立っていた。
その視線の重さに、私は、わずかに居心地が悪くなった。
前世で、誰にも見られなかった三十年。それが終わって、今度は、急に、全員に見られている。両極端だった。
リナが、私の隣まで来た。
彼女は、何も言わずに、私の隣に立った。それから、ゲオルグの方に、少しだけ顎を上げた。挑むような顎の動きだった。
ゲオルグは、もう、私たちを見ていなかった。地面を見ていた。膝が、わずかに震えていた。彼のメンツは、たぶん、もう一晩寝ても、回復しない。
彼は、何も言わずに、踵を返した。取り巻きの二人を、振り返ることもなく、引きずるように連れていった。広場から、ゲオルグ一派の三人が、見えなくなった。
残されたのは、私と、リナと、それから——。
私たちを取り囲んだ、十数人の、子供たち。
彼らは、まだ、私を見ていた。誰も、声を出さなかった。
長い沈黙が、土埃の匂いと一緒に、広場の上に積もった。
最初に口を開いたのは、リナだった。
彼女は、子供たちに向かって、ぽつりと言った。
「うん。あたしの、知り合い」
そして、私の方を、ちらりと見た。
「変なやつだけど、悪いやつじゃない、たぶん」
「たぶん、は余計じゃないか」
「事実だからね」
リナは、短く、息で笑った。
子供たちの中の、一人が、おそるおそる、声を出した。
「……兄ちゃん、強い、の?」
私は、その子供の顔を見た。たぶん、五、六歳。さっきまでの戦闘を、最後列で、こっそり見ていた一人。
強い、と訊かれた。答えるべきだった。だが、私は、自分が「強い」のかどうか、まだ、自分でわかっていなかった。
「……強い、というのは、何のことだろうな」
子供は、首を傾げた。
リナが、横で、深い、深いため息をついた。
他の子供たちも、似たような顔で、私を見ていた。「変な質問返しをするな」という顔。「素直に『強いよ』って答えればいいんだよ」という顔。
私は、慌てて、補足した。
「いや、つまり、強さの定義による。腕力なのか、魔法の規模なのか、戦術の完成度なのか、それとも、単に勝ったか負けたかという結果論なのか。さっきの戦闘で言えば、結果論としては私が勝ったが、戦術的には——」
「もういいよ」
リナが、私の袖を引っ張った。
「もういいから、帰ろう」
「だが、子供が訊いてきたのだから、誠実に答えるべきだろう」
「誠実な答えは、『強いよ』の三文字で済むの」
「それは、誠実とは——」
「ユーリ」
リナが、私の名前を、いつもよりわずかに低い声で呼んだ。
私は、口を閉じた。
子供たちの何人かが、笑っていた。さっきまでの畏怖の視線は、半分くらい、別のものに変わっていた。「強い兄ちゃん」を見る目から、「変な兄ちゃん」を見る目へ。
それは、たぶん、悪い変化ではなかった。
畏怖だけで人と人の関係を築こうとすると、長続きしない。前世の本で読んだ。だから、私は、リナに袖を引かれるままに、広場をあとにした。
背中で、子供たちのざわめきが、少しずつ、戻っていった。




