1チーズ目:始まりはチーズ
チッチッ…と、時計の針が動く音だけがしているこの部屋。僕は木製のイスに座って、一人穏やかに本を読んでいた。机の上のコーヒーに手を伸ばし、一口啜ると、苦さが口の中にじわりと広がる。さすがにまだ高校生にブラックはきついみたいだ。読んでいた本を閉じ、僕はイスから立ち上がると、小さな窓から顔を出した。空はすっかりオレンジ色に染まって、家の目の前のスーパーから夕暮れ時の子供と母親が楽しそうに歩いているのが見えた。トントンと指で窓枠をつつきながら、気づいたら僕はその親子が見えなくなるまで、窓に座っていた。馬鹿らしくなり、窓を勢い良く閉めると、履いているスリッパをペタペタと言わせながら、一階へ移動する。キッチンでは母親が夕食を作っていた。わざわざ話しかける理由もなく、そのまま母親の後ろを通り過ぎると、低い冷蔵庫の上で、飼い猫のネロが気持ちよさそうにしっぽを持ち上げて横になっていた。引いてあるマットは、母親が冬は寒いから、と100円ショップで買ってきたものだ。ゴロゴロと喉を鳴らすネロを一撫でし、冷蔵庫の中から牛乳を取り出すと、食器棚からコップを取り出し、そのまま2階へ持って上がる。
何やら友達と携帯で騒いでいる妹の部屋を通り過ぎ、『入るときはノックしてね』という札が掛かっている自分の部屋のドアを開ける。
「…上手い!」
ゴクゴクと牛乳を飲み干し、白くなった口の周りをぬぐうと、教科書とノートを一応広げた。だからといって、勉強するわけではないので、丸い消しゴムをいじくりまわして遊ぶ。すると、指で消しゴムを弾いた瞬間、思ったよりも飛んでしまい、消しゴムは行方不明になった。
「…げ……仕方ない」
僕は机の下やイスのした、部屋の床という床を四つんばいで這い回ったが、とうとう消しゴムは見つからなく、最後の砦であるベッドの下に腕を伸ばした。
「だいたいベッドの下ってのはホコリまみれの無法地帯であって本来僕が捜査するべきところでは──ん?」
人が聞いたら引いてしまうであろう独り言を呟きながら、ベッドの隙間に手を差し込んで動かしていていると、指先にコツリと何かが当たった。
「…っ…あともうちょっと…」
精一杯に指を伸ばす。しかし丸い奴の身体はコロコロとさらに奥へ転がってしまった。
「…!なんて無礼な…よし」
僕は身体をズイズイと動かし、ベッドの横へ回り込むと、30cmほどの高さの隙間を覗き込んだ。光は差し込まずそこは暗かったが、この高さならギリギリ入れないこともない。屈んで頭を突っ込む。そして匍匐前進とばかりに腕の力だけで進んでいく。
すると案外ホコリはなく、安心して歩を進めると、何やら暗闇が妙に長い。僕のベッドは大きいほうではなく、むしろ小さいほうで、もうそろそろ壁の突き当たりになるはずなんだけど…
「どうなってんだ…」
手を伸ばして探るも、空中をさまようだけで、そこにはひたすら空間があった。いきり立った僕が、一気に前進しようとしたその瞬間、いきなり真っ白な光に包まれその眩しさに思わず目をつぶる。やがて少し経って、ガヤガヤという楽しそうな声が聞こえてきたのでゆっくりと目を開けると、なんとそこには、楽しそうに話し込む、2足歩行をしているネズミ達の姿があった。あるネズミは魚を売って、あるネズミが服を縫って、またあるネズミはチーズを盗んで追いかけられている。遠くに見える2匹のネズミは、どうやら結婚式らしい。白いレースのドレスのようなものを着たネズミと、これまたタキシードのような服を着たネズミ。その周りで、たくさんのネズミがチーズとワインでお祝いをしながら踊っている。ふと違和感を感じて足元をみると、そこには小さな爪の生えた足。爪の生えた腕に、フサフサと毛の生えた身体。着ている服だけが、そのまんまだった。この調子で行くと…どうやら僕もネズミサイズになってしまっているようだった。
「──な、なんで…」
「さぁさぁ貴方もそんなところに立ってないでお祝いに」
ふと、背後から誰かの声が聞こえた。振り向くと、そこには丸い目をクリクリさせて、笑うネズミの姿があった。被っている帽子に青い制服姿。口調・様子から言って、どうやらネズミの警察らしい。
「あの!ここは一体…?」
「は…?ここは我が国、『ネズシティ』ですよ。貴方もこの国の住民なら知っているでしょう?」
「いや…あ、あの…その」
僕が事情を説明する前に、目の前のネズミは驚いたような顔をして、次に誇らしそうな顔をして僕の腕を取った。
「──もしかして迷子ですか?そうですか…よろしい、私の署までついてきなさい。身元を確認してあげます。大丈夫、すぐ親御さんが見つかるはずです」
そう言うと、彼は意気揚々とそのまま歩き始めた。僕は仕方がなくついていきながら、和気藹々とした町の様子を伺った。ベッドの下にこんな空間があるなんて…。ふと、ガラス屋さんの目の前で立ち止まり、鏡に映る自分の顔を見ると、まさしく全身の毛が逆立った。
「…や、やっぱり…顔もネズミになってる…」
顔を手で抑えたつもりが、短い爪に当たってすりむいてしまった。
「さ、ここです。入って」
「あ、どうも…」
警官ネズミは、木のイスを広げて、長いしっぽを引きずりながらなにやらコーヒーのような黒い液体を出してくれた。この警察署は思ったよりも広くて、窓口ごとに相談の内容が分かれているみたいだった。天井からぶらさがる木の案内には、『子育て相談所・♀も♂も関係ない!』とか、壁に貼ってある多量のポスターには『チーズ盗みは犯罪です』とか『爪は定期的に摺りましょう』など、わけの分からないものばかりで、唖然としている僕を、警官ネズミは心配そうに覗き込んだ。
「どうしたんです?何か珍しいものでも──?よっぽどひどい目にあったのですね…だから先ほども記憶喪失のような事を言われて…ささ、早く飲んでくださいよ」
「……」
警官は僕の手にマグカップを握らせると、ようやく落ち着いて座った。彼はコホンと喉を調子を整えると、黒い棒のようなものをポケットから取り出して、トイレットペーパーのような質の茶色い紙に文字を書き始めた。
「では、身元調査を始めましょう。まず始めに、名前に、家族とご職業は?」
「えーと、名前はユウキです。家族は〜…母さんと僕の2人ぐらしで、職業は…学生です」
「ユウキ?変わった名前だね君は。まぁいい…」
ネズミはそれらをよくわからない文字で紙に書き留めると、さらに質問を続けた。
「ではどうやってこの国に?」
「ベッドの下を覗いたら、何故かこの国に出てきました」
それを聞いた目の前のネズミは、ひげをふにゃりと曲げ、思わず黒い棒を爪から落とした。さらに、ふるふると身体を震わせながら、イスから立ち上がった。
「……あ…あなたは…だとしたら…………」
「どうかしました?」
ネズミは口をパクパクさせ、どこかへ走っていくと、奥の方で電話をかけているような様子をみせた。ほどなくして帰ってくると、敬愛の目でこちらを見た。
「すみません。国の部隊に連絡させてもらいました。この国では、別の空間から来た方は国の部隊の一員となる決まりがあるのです。何故ならそういう方にはなにかしら不思議な能力があるので…」
「何を勝手に…!僕は何の変哲もないただの人…!」
人間、といいかけて僕は言葉を止めた。今の姿はどこからどう見てもただのネズミである。
「何を言っているんです!この国の特殊部隊に入れるのはエリートと別空間からの旅人のみ。とても名誉なことなのですよ!
あぁそうか。私の名前はヒルトン。灰色ネズミのヒルトン・モックです」
灰色ネズミは尻尾を振りながら僕に握手を求めた。先ほどとの態度の変わりように僕は顔が、いや、鼻が引きつるのを感じた。
彼が電話してから、すぐさま警察署の前には白いネズミがキィキィ言いながら轢く木の荷台のようなものが到着した。中から黒い毛色の、黒い服を着たネズミが数匹出てくると、白いネズミにチーズを与えて、警察署の中へ入り込んできた。
「ここか、行くぞ」
先頭でズンズンと歩いている一際かっぷくのいい黒ネズミが、僕が居る『迷子の子ネズミ』コーナーの前を通り過ぎようとした時、隣に居たモックが手を振って居場所を知らせた。しかし、ピリピリとした黒ネズミの鼻先に小突かれたヒルトンは、その場で目を覆ってしまった。
「やぁヒルトン。君からの連絡だったとはね──その、横に居る少年が、別空間からの訪問者かね??」
「あ、ハイ。そうです…その…キップ隊長」
キップとかいう黒ネズミの、ただならぬ威圧感に、警官モックは弱弱しい目つきで僕を見ると、そそくさとどこかへ行ってしまった。モックの後姿を見ていると、キップの周りにいた黒服のネズミが数人係で僕の腕を掴んでイスから立たせた。
「きみ、ちょっとわが部隊の城まで来てくれるかな?その──名前は?」
「ユウキ」
「そう、ユウキ…少し手荒い介抱になってしまうが…君が本当に別世界からの旅人か、信用できないうちは仕方のないことだ」
「…ほんとに」
僕が嘲るように笑うと、キップ隊長の青い目と、ひげが震え、それが合図かのように黒ネズミ達は僕に頑丈な草で作った手錠のようなものをかけた。なんでネズミの世界に来て逮捕されにゃいかんのだ…
納得しない僕を、ネズミ達は問答無用でワゴンへ積み込むと、キップ隊長は隣に座り、先頭に座っている痩せたネズミに何やら指示をした。すると痩せネズミはワゴンから繋がれている白ネズミに鞭を一発入れた。途端に彼らはチュウチュウとわめきながら走り出し、その勢いで思わずワゴンから落ちそうになる。
「うわ…っ!おい!同じネズミ同士なのになんでこんな扱いしてんだ!!」
「……」
隣のキップ隊長は、被っている黒い帽子を少し動かしただけで、あいかわらず流れていく町の風景を眺めていた。
「おい!」
「ユウキ。少し黙ったらどうだ?それに彼らはネズミではない」
その言葉に頭の芯が沸騰するのを感じた。手首と手首を繋いでいる草を、力で引きちぎると、慌てる黒ネズミ達を差し置いて、隣の澄ました顔したネズミに詰め寄った。
「何をわけのわからないことを…どう見たって、彼らはネズミだしあんたもネズミじゃないか──」
それを聞いたキップは、険しい表情で牙をむくと、いきなり僕の上に馬乗りになった。
「黙れ!彼らはこの国でもっと身分の低い白い獣の一族だ。しゃべれない、2足で歩けない。これのどこがネズミなのだ!?」
フーフーという、荒い息使いとともに、キップは僕の上からすぐに退き、僕は黒ネズミ達によって再び手錠をかけられた。今度は何重にも草をまかれ、少し手首は窮屈になった。
しばらくワゴン内は無言のままで、ピシピシという鞭の撓る音だけが響いていた。
「……」
僕はもう帰りたかった。帰ったら母さんが夕食を作っていて、好きなテレビを見て大笑いをして、そのまま気持ちの良いベッドで寝れるのに…今の状況は、ネズミに捕獲され、ネズミの部隊に入れられそう、さらにネズミのお偉いさんを怒らせた。
「…最悪だ…」
ネズミだらけの悪循環に、おもわず頭を抱えたが、次の瞬間ワゴンの揺れが止まった。
「ついたぞ、ユウキ。ここがわが特殊部隊用の居住区だ。少し狭いが、我慢してくれ」
そういわれて、頭を上げると、思わず口からため息が漏れた。そこは、中心街からは離れているが、まだ町の中にも関わらず、見上げるばかりの高く細い大木が2本隣り合って生えていた。さらに大木と大木の間を繋ぐ枝のようなものから、水がザァザァと流れ落ちて、その下の地面には水たまりのような湖ができ、その場所でいろんなネズミが洗濯物(?)を洗っていた。
「……うわぁ」
黒ネズミ達に催促され、根元の方でポッカリと開いている木の入り口から内部へ入ると、なんと天井は動いていた。木の細胞のようなものだろうか、ドクンドクンと波打つ天井を凝視していると、キップが僕を呼んだ。
「ユウキ、ちゃんと付いてきて貰わなくては困る」
「……」
先ほどのことが頭に残っていた僕が俯いていると、いきなり傍に居た数匹の黒ネズミが僕を抱きかかえた。
「今日は木の活動が盛んなようだ!しっかりついてこいよ!」
何の事かと思っていたら、一際大きな黒い帽子を被ったネズミが近くの床から天井まで吹き上げていた、液体の柱のようなもの中へ飛び込んだ。液体の中に入った黒い身体は、一瞬のうちに天井まで舞い上げられて見えなくなった。
唖然としていると、それと同時に僕を抱えているネズミ達もその中へ飛び込もうとする。
「うわぁ!まだ死にたくない!やめて…やめろ…神様…!」
必死でもがくも、次の瞬間僕の視界は一気に青と緑の世界になった。ゴポゴポと、水流のような強い流れに、飛んでいきそうな浮遊感。思わず、口の中に溜めていた空気を吐き出してしまった。
{い…息が…}
必死で液体を飲みこまないように、口を閉じていたが、ふと、耳元でネズミが何かを言っているのが聴こえた。
「ユウキさん。ここは呼吸が出来るんですよ」
「…!?」
それを聞いて、僕はどうせ死ぬなら呼吸がしたいと、思いっきり液体を吸い込んだ。
すると、どういうことか、あっという間に苦しくなくなった。さらに、周りを見ると、なんと透明になっていて、木の中を地上から液体の流れによって、どんどん上に上がっているのがはっきりと分かった。
「…これ、どうなってるんだ??」
傍に居たネズミに聞くと、彼らは嬉しそうに尻尾を振って答えた。
「この流れは、この大木の血液のようなものです。この液体には酸素は豊富に含まれていますし、外傷を癒す効果もあります。だから私達は、いつもこの液流に乗って、最上階までつれていってもらうのです」
それを聞いて、僕は目を閉じると、久方ぶりに全身の力を抜いてみた。手や足から、疲れが抜けていくような感じがし、静かに耳を澄ますと、コポコポという何かが湧き出るような音する。何だか、揺り篭に乗っているような、暖かい何かに包まれているような、そんな感じがした。この感覚──いつか、どこかで…?
「起きろ!ユウキ!もう最上階だ!」
そんな僕の甘い感情は、ネズミ達に通じるわけもなく、強引に起こされると、そこは本当に最上階だった。地上は遥か下のほうにあって、むしろ木のてっぺんについている葉っぱの方が近い。
「どうやら…ずいぶん気持ちよかったようだな。バブルフレッシャーが」
「ああ、あの流れのことバブルフレッシャーっていうんだ?」
僕はすっかり軽くなった身体を伸ばし、緑色の天井をみながら、ネズミ達の後に付いていった。
やがて突き当たりになったそこは、葉っぱの文字で『特殊部隊用』と書いてあった。
「…入りたまえ。今日から君はわが部隊の一員だ」
「え…?何か取り調べとかないのか?」
黒ネズミ達に手首の草をいじりられながら僕が聞くと、黒いネズミは大きな帽子を取って冷たく鋭い目で笑うとこう答えた。
「先ほどのバブルフレッシャーが一番の選別方法だったんだよ。あの流れには、よほど訓練されたエリートか、この国の者ではない奴しか乗れないのだ。もしそれ以外の奴が乗ると…途中でおぼれて死んでしまうからな」
僕は涼しい顔で悲惨なことをぬけぬけという目の前のネズミに呆然とした。彼はそんな僕を見てやさしく微笑むと、握手を催促した。
「私はキップ・リバース。特殊部隊隊長だ。よろしく」
「は…はぁ」
何はともあれ、手錠ははずされ、すっかり赤くなった手首と共に、僕は特殊部隊と呼ばれるものに強制的に入れられることになった。