59.仕様です
優勝から数日が経った、いつも通りの配信日。俺はいつも通りベッドから起き上がり、いつも通り母さんと朝食を済ませ、いつも通りヘッドセットを手に取った。
それでも、心のどこかは、まだいつも通りには戻れていなかった。あの日の歓声、あの日の実感の湧かない優勝報告。思い出すたびに、なんとも言えないふわふわとした気持ちが、胸の中に広がっていく。
あの日以来、周囲の空気が、少しずつ変わっていくのを感じていた。配信のコメント欄には、これまでにない数の新規視聴者の名前が並ぶようになっていた。登録者数の伸びも、あの決勝の日を境に、これまでとは比べ物にならない勢いで伸び続けていた。
皇帝牙さんからもらった、あの言葉の重みも、まだ胸の奥にしっかりと残っていた。「胸を張れ」というあの一言を、俺はこれからも、大切な支えにしていくつもりだった。
あの一戦以降、皇帝牙さんとは、直接言葉を交わす機会はなかった。それでも、あの人が今、どんな気持ちで日々を過ごしているのか、俺はふと気になっていた。
「みなさん、おはようございます!! 今日もいつも通り、配信していきます」
配信を開始すると、コメント欄には、優勝からしばらく経った今でも、祝福の言葉が絶えず流れ込んでいた。
【コメント】改めておめでとう
【コメント】まだ優勝の実感ある?
【コメント】今日は何するの?
「実感、正直まだあんまりないです……なんか、夢だったんじゃないかって、たまに思っちゃいます」
【コメント】わかる、あの試合何度も見返してる
【コメント】伝説の一戦だったよな
【コメント】まだ配信続けてくれるだけで嬉しい
軽口を返しながら、俺はいつも通り、配信の準備を進めていった。今日も今日とて、防衛戦の通知を確認し、担当エリアへと向かう準備を整える。
優勝したからといって、日々の生活が劇的に変わるわけではなかった。相変わらず、防衛戦をこなし、いつも通りの配信を続ける。その変わらない日常が、俺にとっては、むしろありがたく感じられた。
それでも、その日はいつもと少しだけ違っていた。配信を始めてしばらく経った頃、見覚えのない通知が、視界の隅に表示された。運営からの、公式のお知らせとは、明らかに違う見た目だった。
いつもなら、こうした通知は、アップデート情報やイベント告知がほとんどだった。それだけに、その見慣れない表示に、俺はふと違和感を覚えた。
「あれ、これ……何だろう。個人宛、って書いてある」
軽い気持ちでタップしてみると、そこには、俺のプレイヤー名が、はっきりと宛先に記されていた。
「え、私に……?」
思わず、声が漏れる。心臓が、どくんと大きく跳ねるのがわかった。「不正利用疑惑」というものが、これほどまでに長く、大掛かりに自分について囁かれ続けてきたことを思えば、心当たりがないと言えば嘘になる。長らく続いてきた、あの疑惑と、無関係ではないだろうという予感が、はっきりとあった。
【コメント】ついに来たか
【コメント】個人宛ってことは相当な内容だな
【コメント】るか、深呼吸して
「えーと、なになに……」
文字数の多さに、俺は一瞬たじろぎそうになった。それでも、なぜか今回だけは、途中で投げ出したくない、そんな気持ちが胸の中にあった。俺は、画面に表示された文章を、一行ずつ、ゆっくりと読み進めていった。
「『調査の結果、あなたが保有するスキルは、本来のスキルプールには存在しない、開発中の未実装コンテンツが、正式サービス開始前のデータ移行処理の過程で、誤って初期付与プールに混入したものであることが判明いたしました』」
一文一文、丁寧に区切りながら、俺は声に出して読み上げていった。難しい単語も多かったけれど、それでも、意味を噛み砕こうとする気持ちだけは、絶対に手放したくなかった。個人宛、という言葉の重みが、まだ胸の中でじんわりと響いていた。
「え、誤って混入……? そんなことあるんですね……」
自分でも、初めて知る事実だった。あのスキルが、そもそも手に入るはずのないものだったなんて、これまで一度も考えたことがなかった。
【コメント】まじか、事故だったのか
【コメント】入手経路がそもそもおかしかったってことか
【コメント】でもそれとダメージ判定の話は別だよな
視聴者たちの反応にも、まだ半信半疑なところが残っているようだった。それも当然だと思う。まだ、肝心な部分には、何も触れられていないのだから。
「えっと、次は……あ、これ、名前も書いてある。ええと――」
俺は、その名前を、ごく普通に声に出して読み上げたつもりだった。それなのに、コメント欄の反応が、明らかにおかしかった。
【コメント】あれ、今なんて言った?
【コメント】一瞬声途切れてなかった?
【コメント】え、普通に喋ってたと思ったけど、何も聞こえなかったんだが
「え……? 普通に読んだつもりだったんですけど」
困惑しながら、俺はもう一度、同じ部分を読み上げてみた。それでも、コメント欄の反応は変わらなかった。
【コメント】やっぱり聞こえない
【コメント】音声だけプツッと切れてる感じ
【コメント】あ、これあの時のやつだ
「あ、そっか……前にも、こういうのありましたね。名前とか効果とか、直接読み上げようとすると、なんか伏せられるっていう」
以前、変形の効果を読み上げようとした時と、まったく同じ現象だった。自分ではいつも通り喋っているつもりなのに、なぜか、聞いている側にはうまく伝わらない。あの日も、たしか似たようなことがあった。何かを正確に伝えようとするたびに、システムがそっと、その部分だけを覆い隠してしまう。仕方なく、俺はやむを得ず、自分の言葉で言い換えることにした。
「えーと、なんか、私のスキルが、本来はゲームに存在しないはずのものだった、ってことみたいです。詳しい名前とかは、ちょっとうまく言えないんですけど……」
もどかしさを感じながらも、俺はそのまま、諦めずに文章を読み進めていった。
「『このスキルの入手経路には、確かに運営側の実装上の不備がございました。しかしながら、既に付与されたスキルを、後から一方的に剥奪することは、あなたとの信頼関係を損なう重大な問題であると、運営として判断いたしました』」
この一文を読んだ瞬間、俺は思わず、胸を撫で下ろした。まさか取り上げられてしまうんじゃないかと、心のどこかで、少しだけ不安に思っていた自分がいたことに、今更ながら気づかされた。
誰にも選ばれなかった、あの黄色い機体。海洋マップがないという理由だけで、みんなが見向きもしなかった、あの不人気な相棒。それでも、俺はその機体を選び、そのまま使い続けてきた。もしここでスキルを取り上げられてしまったら、これまでの積み重ねの意味まで、なんだか薄れてしまうような気がしていた。
引きこもりがちで、人と関わることさえ、ひどく苦手だった、あの頃の自分。将来に対しても、これといった明確な希望を持てずにいた。それが今、こうして本当に多くの人に支えられながら、毎日を心から楽しめている。この確かな変化そのものが、俺にとって、何よりも大きな財産だった。
思わず、安堵の言葉が口をついて出た。
「あ、良かった……取り上げられないんだ」
【コメント】剥奪されなくて安心した
【コメント】まあそれはそう
【コメント】もう手に入れちゃったもんだしな
「『また、当該スキルの効果自体は、開発時に設定された仕様通りに、正常に動作していることも、技術部門による調査で確認されております』」
その先の文章にも、目を通そうとした。それでも、効果の詳しい仕組みに触れようとするたびに、また同じように、文字が読み取れなくなってしまう。潜水がどうとか、判定がどうとか、断片的な単語だけが、かろうじて視界に浮かんでは消えていった。
「うーん、これも駄目みたいです……なんか、詳しい仕組みまでは、私にもうまく説明できないっぽくて」
もどかしさ半分、諦め半分といった気持ちで、俺はそう呟いた。それでも、これまでの数々の異常な出来事を思えば、詳しい仕組みなんて、正直自分にもよくわかっていなかった。今更、説明できないと言われても、驚きはさほど大きくなかった。
【コメント】要するに何なの
【コメント】仕組みまでは秘密ってことか
【コメント】結局セーフってことだけわかればいいか
俺は、最後の一文まで、丁寧に目を通した。長い文章を読むのは、正直あまり得意ではなかったけれど、この文章だけは、最後まで、しっかりと読み切りたいと思った。
「『以上の理由から、運営は当該スキルの使用について、規約違反には該当しないと判断いたしました。今後も、これまで通り、自由にご活躍いただければと考えております』」
その一文を読み終えた瞬間、俺は思わず、大きく息を吐いた。これまで知らず知らずのうちに肩に入っていた力が、すっと抜けていくのがわかった。
「そう、だったんだ……」
拍子抜けするほど、あっさりとした、それでいて確かな重みを持つ結論だった。それでも、この短い一言に、これまでの長い騒動のすべてが、確かに収束していくのを感じた。
思えば、あのチュートリアルの誤操作から、すべてが始まっていた。何気ない偶然の積み重ねが、こんなにも大きな騒動にまで発展するとは、あの頃の自分には、想像すらできなかった。それでも、こうして一つの区切りがついたことに、俺は静かな安堵を覚えていた。
【コメント】仕様です、キタ――!
【コメント】これでスッキリしたな
【コメント】るか、おめでとう!
【コメント】最初からわかってたよ
「みなさん、ありがとうございます……なんか、いろいろ言われることもあったので、正直ちょっとほっとしました」
素直な気持ちを、俺はそのまま口にした。これまで、心無い言葉を投げかけられることも、正直少なくなかった。それでも、今こうして、こういう形で決着がついたことに、俺は静かな安堵を覚えていた。
白峰さんという人が、毎日のように俺の戦いぶりを調査していたという話も、いつかどこかで耳にしたことがあった。あの人にとっても、この件は、長い調査の一つの結末になったのかもしれない。そう思うと、会ったこともないその人にも、少しだけ感謝の気持ちが湧いてきた。
「あ、あと、皇帝牙さんにも、改めてお礼言いたいです。ちゃんとしたところがわからないまま戦ってた私と、それでも真正面から向き合ってくれて、本当にありがとうございました」
言葉にしてみると、これまで抱えてきた、ちょっとした後ろめたさのようなものが、少しずつ、確かに和らいでいくのを感じた。あの人になら、きっとこの気持ちも、真っ直ぐに、確かに伝わっているはずだった。
誰に届くかもわからない、その率直な言葉を、俺はそっと呟いた。それでも、この気持ちだけは、きちんと伝えておきたかった。
【コメント】皇帝牙さんも見てたら嬉しいな
【コメント】あの人も納得してくれてそう
【コメント】次の対戦、また見たい
コメント欄に次々と流れるその言葉に、俺は思わず頬が緩んだ。あの人との一戦は、俺にとって、これからもずっと、かけがえのない大切な宝物であり続けるだろう。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、なんだか今日、いつも以上に嬉しそうだったね」
「あ、うん。なんか、ちょっといろいろ片付いた感じがして」
詳しい事情を、一から丁寧に説明するのは、正直少し面倒だった。それでも、母さんは、それ以上深く突っ込んで聞いてくることはなかった。
「そう。良かったじゃない」
短いその一言に、俺はいつも通り、素直に頷いた。母さんのこの何気ない、絶妙な距離感が、俺にとっては、いつも心地よかった。
食事を終え、自室に戻る。ベッドにゆっくりと横になりながら、俺はもう一度、今日一日を振り返ってみた。長かった騒動に、ようやく一つの、確かな区切りがついた。それでも、これで何かが劇的に変わるわけではない。明日もまた、いつも通りの配信が待っている。それでも、その「いつも通り」を、心から楽しめる自分がいることに、俺は改めて気づかされていた。
【一ノ瀬誠視点】
個人宛の通知を送信し終えた後、私はしばらくの間、静かにモニターを見つめ続けていた。この文章を練り上げるまでに、何度も何度も、内容を推敲し続けてきた。技術的な正確さ、そしてあの子への誠実さ。あらゆる角度から検討を重ねた末に、ようやく辿り着いた、この最終稿だった。
あの子への通知は、既に送り終えている。個人宛という体裁を取ったことで、具体的な内容にも、ある程度踏み込むことができた。それでも、まだ本当の意味で、この件がすべて終わったわけではなかった。
「一ノ瀬さん、全体向けの告知文、そろそろしっかり確定させないといけません」
部下のその声に、私は小さく頷いた。
「わかってはいる。それが、一番の難関だ」
正直な気持ちを、私はそのまま口にした。個人宛の通知よりも、こちらの方が、はるかに神経を使う作業になるだろうという予感があった。
個人宛の通知であれば、相手はあの子一人だけだ。ある程度、具体的な事実を伝えても、大きな問題にはならないはずだった。それでも、全プレイヤーに向けた公式発表となると、話はまったく違ってくる。
「スキル名を出すわけにはいかない。効果の詳細にも触れられない。それでいて、規約違反ではないという結論には、しっかりと納得してもらわないといけない」
言葉にして口に出してみると、改めて、その難しさが浮き彫りになった。
「具体的に書きすぎれば、他のプレイヤーが同じ手口を試みかねません。かといって、抽象的すぎれば、今度は『結局何も説明していない』と、いらぬ不信感を招くだけです」
部下のその指摘は、まさにその通りだった。私はため息を一つついてから、これまで書き溜めてきた草案を、もう一度画面に表示させた。画面には、これまで書いては消してきた文章の残骸が、いくつものバージョンとして残されていた。
「この一週間だけで、もう何稿目になったか、正直数えるのも嫌になってきたよ」
思わず苦笑しながら、私はそう漏らした。愚痴めいた言葉が、ついつい口をついて出てしまう。技術的な正確さと、プレイヤーコミュニティへの配慮、そして法務的な観点。あらゆる方向からの検討を重ねるたびに、文章はいつまで経っても完成に近づかなかった。
「一文書いては消し、また書いては消し。こんなに一つの発表文に時間をかけたのは、この仕事について以来、初めてかもしれないな」
「それだけ、非常に重要な発表ということですよ」
部下のその言葉に、私は苦笑を返した。
「重要なのは、私も重々わかっている。わかっているからこそ、余計に難しいんだ」
技術的な正確さと、プレイヤーコミュニティへの配慮、そして法務的な観点。あらゆる方向からの検討を重ねるたびに、文章はいつまで経っても完成に近づかなかった。
剥奪という選択肢は、開発チーム内でも、幾度となく議論された。しかし、既に多くのプレイヤーに親しまれ、一種の象徴にすらなっているあのスキルを、後から一方的に取り上げることは、ユーザーの信頼そのものを、根底から揺るがしかねない。その結論に至るまでに、私たちは、決して短くない時間を費やしてきた。
技術的な修正の可能性についても、桜庭くんを中心に、繰り返し検討を重ねた。それでも、潜水判定システムという、エンジンの根幹に深く組み込まれた仕組みを、あの子のスキルだけを狙い撃ちにして修正することは、事実上不可能だった。エンジン全体の再構築に近い規模の改修が必要になる、という結論は、覆しようがなかった。
「全体向けの文章では、この辺りの技術的な事情には、一切触れない方向で進めよう。『規約違反ではないと判断した』という結論だけを、丁寧に、誠実に説明する。それ以上でも、それ以下でもない」
「承知しました。その方向で、文面を整えます」
部下が退室した後も、私はしばらくの間、一人でモニターと向き合い続けた。窓の外は、すっかり夜の色に染まっていた。
この一連の騒動を通して、私自身、多くのことを学ばせてもらった。想定外の事態が、必ずしも悪い結果だけを生むわけではない。あの子の存在が、この世界に、これまでにない熱狂と話題性をもたらしてくれたことも、また紛れもない事実だった。
開発者として、こうした「バグ」に対して、複雑な感情を抱かないと言えば嘘になる。それでも、あの子が積み重ねてきた物語そのものが、このバグを、単なる欠陥ではなく、一つの魅力へと昇華させてくれたのだと、私は今、素直にそう思える。技術者としての誇りと、一人の観客としての高揚感。その両方を、私は今、確かに味わっていた。
窓の外を見上げながら、私は静かに、次の課題へと意識を向け始めた。海洋マップの実装、そしてあの子の機体の本来の活躍の場。これから先も、解決すべき課題は、決して少なくなかった。
INVADERの上陸座標に関する解析データも、想定していたよりも、ずっと早いペースで蓄積されてきている。サービス開始から、まだそれほど長い月日が経っているわけでもないのに、この調子でいけば、海洋マップの実装にも、思いのほか早く手が届くかもしれない。
「これ、さすがにちょっと早すぎませんか。まだ始まったばかりだと思っていたんですが」
敵運用チームの担当者から、そんな声が漏れ聞こえてきたのを、私は小耳に挟んでいた。焦っているというより、どこか呆れたような、それでいて楽しんでいるような、そんな口ぶりだった。あの子の機体が、本来の力を発揮できる日も、当初の想定より、案外早く訪れるのかもしれない。
全体向けの発表文は、まだ完成していない。それでも、この物語には、まだまだ続きがある。そう思うと、この地道な作業も、決して無駄ではないように感じられた。もう何稿目になるかわからないその文章を、私は明日もまた、一から練り直すつもりだった。




