36.再戦の申し出
オフィスツアー配信から数日が経った。疑惑の空気は、少しずつ晴れていっているようだった。俺は相変わらず、いつも通りの配信を続けていた。
ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく伸びをした。今日もまた、いつも通りの一日になるはずだった。
「みなさん、おはようございます」
配信を開始すると、コメント欄には、いつも通りの温かい挨拶が並んだ。それでも、今日は少し違う話題が待っていた。
【コメント】そういえば、レンさんとの再戦、そろそろじゃない?
【コメント】あれ、もう申し込みあったんだっけ?
【コメント】前に言ってなかったっけ
「あ、そうなんです。実は、少し前からレンさんと約束してたことがあって……」
コメント欄が一瞬、どよめいた。皆が知らなかった話題に、驚きと興味が入り混じった反応が、次々と流れてくる。
そう切り出しながら、俺はふと、あの日のことを思い出していた。捏造事件が起きる、もっと前――ちょうど予選も大詰めに差し掛かった頃のことだった。あの頃はまだ、これから訪れる嵐のような騒動のことなど、想像すらしていなかった。
あの日、俺は一本の通知を受け取った。
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PvP対戦申請が届いています
申請者:神代レン
```
「え……また、ですか」
思わず声が漏れた。以前とは違う種類の緊張感が、胸の中に広がっていく。あの初めての対人戦の日から、もう随分と時間が経った気がする。それでも、この通知を目にした瞬間の感覚は、どこかあの日と重なるものがあった。
あの日は、画面を見つめたまま、しばらく指一本動かせずにいた。今回もまた、同じように立ち尽くしてしまうのだろうか。そう思いながら、俺は自分の胸に手を当ててみた。
意外なことに、鼓動はそれほど乱れていなかった。もちろん緊張はしている。それでも、あの日感じた、押し潰されそうな恐怖とは、明らかに質が違っていた。この違いに、俺自身、少し戸惑いすら覚えていた。
それでも、あの時とは、確かに何かが違っていた。恐怖よりも先に、純粋な好奇心のようなものが湧き上がってくる。レンさんは、一体どんな気持ちで、この申し込みをしてきたのだろう。
思い返せば、あの初めての対人戦の時は、何もわからないまま、ただがむしゃらに飛び込んでいっただけだった。あの頃の自分には、状況を冷静に見極める余裕など、まるでなかった。それが今は、これまでの数々の出来事――炎上、考察、そして今回の捏造事件までを経て、自分なりに少しずつ、物事の受け止め方を学んできた気がする。それが「成長」と呼べるものなのかどうか、正直まだ自信はない。それでも、確かに何かが、あの頃とは違っていた。
配信の合間、朝霧さんから通話の申請が届いた。
「るかさん、レンさんからの対戦申請、確認しました。今回は、いかがなさいますか?」
「受けようと思います。なんか、今回は前みたいに、怖いって気持ちより先に、ちゃんと向き合いたいって気持ちの方が強くて」
自分の口から出た言葉に、俺は少し驚いていた。以前の自分なら、きっともっと戸惑い、怖がっていたはずだ。それが今は、不思議と落ち着いて、この状況を受け止められている。
「素晴らしい心構えだと思います。以前のるかさんと比べても、随分と変わられましたね」
電話越しの声には、いつも通りの落ち着きの中に、確かな温かみが感じられた。
「そうですかね……自分ではあんまり実感ないんですけど」
照れくさそうにそう答えながらも、俺は密かに、その言葉を心の中で反芻していた。
「いえ、確かな変化だと思います。これまでの数々の出来事を、るかさんなりに、きちんと消化してこられたということだと思いますよ」
朝霧さんの言葉に、俺は少しだけ照れくさい気持ちになった。誰かにそう言ってもらえるだけで、これまで積み重ねてきたものが、確かな形を持って認められた気がした。
「素晴らしい心構えだと思います。レンさんの申し込みの文面にも、以前とは違う真摯さが感じられました」
「そうなんですね……なんか、レンさんも、あれから色々変わったのかもしれないですね」
電話越しに、朝霧さんは静かに頷いているようだった。
「人は、思いがけない出来事をきっかけに、変わっていくものです。るかさんも、レンさんも、それぞれのペースで、少しずつ変化してきているのだと思います」
「申請を承認する前に、一つだけお伝えしておきます。レンさんからのメッセージに、こう書かれていました。『チートを暴くためではない。対等な相手として、決着をつけたい』と」
朝霧さんの声が、その一文を読み上げる瞬間、俺は思わず息を止めていた。想像していたよりもずっと、まっすぐな言葉だった。
その言葉に、俺は思わず胸が熱くなった。あの完敗の後も、レンさんはずっと自分自身と向き合い続けてきたのだろう。その真摯さが、この短い一文からも、はっきりと伝わってくる気がした。
「なんか、ちゃんと真剣に向き合ってくれてるんですね、レンさん」
「ええ。だからこそ、るかさんも、いつも通りの自然体で臨んでいただければ、それで十分だと思います」
「わかりました。なんか、今回は不思議と、そうできそうな気がします」
自分の口から出た言葉に、俺は改めて、確かな手応えを感じていた。
俺は深呼吸を一つして、申請の承認ボタンに指を伸ばした。
深呼吸を一つして、俺は改めて自分の気持ちを確かめた。怖くないと言えば嘘になる。それでも、この怖さは、以前とは違う、前向きな種類のものだった。
「よし……受けます」
画面に「承認完了」の文字が表示される。あの日と同じ表示のはずなのに、今日は不思議と、心がざわつくことはなかった。むしろ、静かな高揚感のようなものが、胸の奥からじんわりと広がっていくのを感じていた。
【コメント】その節はお世話になりました
【コメント】あの時とは全然違う落ち着きだな
【コメント】るかも成長してるんだな
視聴者たちのコメントに、俺は思わず苦笑した。あの頃の自分と、今の自分。確かに何かが変わっているのだとしたら、それはきっと、これまでの騒動の一つ一つを、なんとか乗り越えてきた積み重ねのおかげなのだろう。
一つ一つの出来事は、決して楽なものではなかった。それでも、その一つ一つを、なんとか自分なりに受け止めてきた結果が、今のこの落ち着きに繋がっているのだとしたら、あの苦しい日々にも、確かな意味があったのだと思える。無駄な経験など、一つもなかったのかもしれない。
――そこまで思い出しを語り終えて、俺は現在の配信画面に意識を戻した。
「というわけで、実はレンさんとの再戦、捏造事件が起きるより前から、もう約束してたんです。だから、あの騒動があっても、この約束自体は、ずっと変わらず続いてました」
【コメント】そういうことだったのか
【コメント】だからレンさんもファンの暴走止めようとしてたんだな
【コメント】筋通ってるわ
コメント欄の反応に、俺は静かに頷いた。これまでバラバラだったピースが、ようやく一つに繋がっていく感覚があった。
「今日、実はレンさんが、ご自身の配信で何か発表するらしくて。私も、視聴者のみなさんと一緒に見てみようと思います」
【コメント】これは絶対見逃せない
【コメント】レンさん、何を話すんだろう
【コメント】緊張してきた
視聴者たちの反応にも、俺と同じような緊張感が滲んでいた。
俺は自分の配信画面の隅に、レンさんの配信を表示させた。既に、レンさんの配信には、これまでにないほど多くの視聴者が集まっているようだった。真剣な面持ちのレンさんが、画面の向こうで、静かに語り始めていた。
「今日は、皆さんに伝えたいことがある」
落ち着いた、けれど確かな重みのある声だった。画面越しにも関わらず、その場の空気が、一瞬にして張り詰めていくのが伝わってくる。
「最近、一部の心無い者たちによって、るかさんに対する捏造事件が起きた。俺は、この件について、はっきりさせておきたい」
俺は思わず、画面に釘付けになった。
「俺は、これまでるかさんを疑ってきた。その気持ち自体を、今更なかったことにするつもりはない。それでも、俺は既に、彼女と正々堂々とした再戦を約束している。それなのに、俺のファンを名乗る者たちが、その約束を踏みにじるような真似をした。これは、俺が最も望まない形の応援だ」
レンさんの声には、静かな怒りと、それ以上の決意が滲んでいた。カメラをまっすぐに見据えるその瞳には、これまでのどんな配信よりも強い、確固たる意志の光が宿っていた。
「これは断言する。俺は、これからもるかさんと、正々堂々と戦う。証拠の捏造や、卑劣な手段で誰かを陥れることを、俺は絶対に望んでいない。もしそれでも、そういう行為をやめられない者がいるなら、その人間は、俺の名前を語る資格はない」
俺は、その言葉の一つ一つを、噛み締めるように聞いていた。画面の向こうの視聴者たちも、皆一様に息を呑んで、その言葉に耳を傾けているのが伝わってくる。
「そして、るかさん。改めて、次の対戦、正々堂々とよろしく頼む」
その一言に、俺は思わず胸が熱くなった。
「あ……こちらこそ、よろしくお願いします!」
思わず声を上げてしまい、俺は少し気恥ずかしくなった。それでも、この気持ちを、素直に伝えたかった。あんなにまっすぐな言葉を向けられて、曖昧な返事で誤魔化すわけにはいかない。
【コメント】レンさん、めちゃくちゃかっこいいな
【コメント】これは筋の通った人間の言葉だわ
【コメント】この人を悪く言ってた自分が恥ずかしくなる
視聴者たちの反応も、これまでにないほど温かいものだった。誰かを応援する気持ちが、こんな形で正しく報われる瞬間があるのだと、俺は改めて実感していた。
応援する側と、応援される側。その関係が、時として歪んだ形に転がり落ちてしまうこともある。それでも、こうして正しい形に軌道修正されていく瞬間もまた、確かに存在するのだと、俺は今日、目の当たりにした気がした。誰かを信じ続けることの難しさと、尊さを、同時に教えられたような気持ちだった。
防衛戦の通知が届き、俺はいつも通り、担当エリアへ向けて歩き出す。
「なんか、今日は色々ありましたけど、次の対戦、ちゃんと頑張りたいと思います」
自分の言葉に、俺は少しだけ気持ちが引き締まるのを感じた。今日という日を境に、次の対戦への向き合い方が、確かに変わった気がする。
道中、討伐対象の反応が視界に浮かび上がった。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止める。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。これから待ち受ける再戦のことを思うと、これまでとは違う種類の高揚感が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
続けて現れた二体目にも、同じ要領で対処していく。いつも通りの動作のはずなのに、今日はどこか、体の芯に力がみなぎっているような、そんな感覚があった。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、今日はなんだか、いい顔してるね」
「うん、なんか、レンさんっていう人が、すごく筋の通ったこと言ってくれて。次の対戦、頑張ろうって気持ちになった」
箸を進めながら、俺は今日あった出来事を、かいつまんで母さんに話して聞かせた。母さんは、静かに相槌を打ちながら、耳を傾けてくれていた。
「そう、それはよかったね」
いつも通りの、あっさりとした反応。それでも、その温かさに、俺は今日もまた救われていた。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日の出来事を振り返ってみた。あの日受け取った再戦の申し込み、そして今日のレンさんの宣言。どちらも、これまでの自分にはなかった、確かな重みを持って胸に残っていた。
思えば、あの初めての対人戦から今日まで、本当に多くのことがあった。炎上、考察、そして捏造事件。それぞれの出来事を経るたびに、自分の中の何かが、少しずつ形を変えてきた気がする。その変化の全てが、今日という日に繋がっているのだと思うと、不思議な感慨が込み上げてきた。
ベッドに横になり、天井を見上げる。次の対戦が、どんな結果になるのか、今はまだ分からない。それでも、今度こそ、正々堂々とした戦いになるはずだ。そのことだけは、確かな希望として胸に灯っていた。
あの初めての対人戦から、今日まで、本当に色々なことがあった。それでも、こうして誰かと正面から向き合える日が、また巡ってきた。そのことに、俺は静かな喜びを感じずにはいられなかった。
誰かと真剣にぶつかり合うということが、これほどまでに前向きな気持ちで待ち望めるようになるとは、少し前の自分には、想像もつかなかった。ただ怖くて、それでも逃げるという選択肢だけは選べなくて、無我夢中で立ち向かっていたあの日々を思えば、今のこの心境は、随分と遠くまで来たものだと思う。
【神代レン視点】
配信の準備をしながら、俺は何度も台詞を練り直していた。今日、伝えるべき言葉は、これまでのどんな配信よりも、慎重に選ぶ必要があった。
マイクの前に座り、俺は深呼吸を何度も繰り返した。これまでの配信活動の中で、これほどまでに緊張したことは、正直あまり記憶にない。それでも、この緊張こそが、今回伝えるべき言葉の重みを、何よりも物語っている気がした。手のひらに滲む汗を、俺は静かに拭った。
あの捏造事件が起きてから、俺はずっと、自分の中で答えを探し続けていた。ファンの暴走を、どう受け止めるべきか。自分の言葉一つで、これ以上事態を悪化させないためには、何をどう伝えればいいのか。
正直、何も言わずに、ただ時間が過ぎるのを待つという選択肢もあった。それでも、それでは何も解決しない。むしろ、沈黙は時として、暗黙の肯定と受け取られかねない。だからこそ、俺は自分の言葉で、はっきりと立場を示す必要があった。逃げることは、これまでの自分の生き方とは、相容れないものだった。
何度も書いては消し、書いては消しを繰り返した台本を、俺は最終的に、自分の素直な言葉に置き換えることにした。飾らない、ありのままの気持ちを伝える。それが、今の自分にできる、精一杯の誠意だった。
綺麗な言葉で取り繕うことは、簡単だったかもしれない。それでも、そんな上辺だけの言葉では、この問題の本質には決して届かない。俺が本当に伝えたいのは、理屈ではなく、自分自身の偽らざる思いそのものだった。飾り立てた言葉より、不器用でも本音の方が、きっと誰かの心に届くはずだ。
配信本番、俺は深呼吸を一つして、カメラに向き直った。
自分の言葉が、視聴者たちにどう受け止められるか、正直まったく読めなかった。反発を招くかもしれない。長年応援してくれた人たちを、失望させてしまうかもしれない。様々な不安が、頭の中を駆け巡っていた。それでも、もう黙っているわけにはいかなかった。
配信を終えて、コメント欄を確認する。予想に反して、そこには温かい反応が数多く並んでいた。「よく言ってくれた」「レンさんらしい」「これでこそ応援したくなる」――そんな言葉の数々に、俺は思わず胸を撫で下ろした。
中には、これまで俺のことをよく思っていなかったであろう層からも、意外な好意的な反応が寄せられていた。「見直した」「これが本当の強さなんだろうな」――そんな言葉を目にするたびに、緊張が少しずつ解けていくのを感じた。人の心は、思っていたよりもずっと、正直な行いに応えてくれるものなのかもしれない。
それでも、まだすべてのファンが、この考えに納得してくれたわけではないだろう。中には、今でも納得のいかない様子を見せる者もいた。それでも、少なくとも自分の立場を、はっきりと示すことはできた。あとは、実際の対戦で、自分の実力を示すだけだ。
るかからの返事――「こちらこそ、よろしくお願いします」という、あの素直な一言を思い出す。あの声には、以前感じた戸惑いや怯えとは、明らかに違う、確かな芯のようなものが感じられた。
初めて対戦を申し込んだあの日、彼女は明らかに戸惑い、怯えていた。それが今では、まっすぐに、堂々と言葉を返してくる。この変化は、決して簡単に成し遂げられるものではないはずだ。
あいつも、この短い期間で、随分と成長したんだな。そんなことを思いながら、俺は改めて、次の対戦への闘志を燃やしていた。
技術で崩せない相手。それでも、今度こそ、全力で挑む。結果がどうであれ、それが今の自分にできる、唯一の誠実な戦い方だった。
これまでの努力が、無駄だったとは思わない。それでも、努力の意味を、もう一度自分なりに問い直す必要があるのかもしれない。次の対戦は、その答えを見つけるための、大切な一歩になるはずだった。勝敗の行方以上に、その過程で自分が何を見出すのか、俺は今から楽しみでならなかった。
窓の外を見上げながら、俺は静かに拳を握りしめた。次の対戦の日が、待ち遠しくてたまらなかった。あいつと、もう一度、真正面からぶつかり合える。その事実だけで、俺の心は、不思議と満たされていた。




