第1話 雪の戦場
雪が緩やかに降っていた。
空は低く、灰色の雲が重く垂れ込めている。
白に染まりつつある大地には、多くの命が横たわっていた。
秋頃に始まった、例年の国境での争い。
冬の到来を知り、戦いは終わったばかりだった。
まだ完全には冷えていない血が、雪の下で黒く滲んでいる。
その中を、黒い外套の男たちが歩いていた。
武器を持たない。
外套を肩口で留める金のピン。
それは世襲の救魂官だけに許された証だった。
死者の魂を救い、神の園へと導く者。
王国では『救魂官』と呼ばれていた。
アルト・アルヴェンは、一人の兵士の遺体の前で足を止めた。
まだ若い男だった。
顔に幼さを残し、二十は超えていない。
胸に槍が深く突き刺さっている。
目は半開きのまま、雪空を見上げていた。
アルトはゆっくり膝をつく。
雪が衣の裾を濡らす。
冷たかった。
両手を組み、目を閉じる。
「……よく頑張りましたね。
あなたの魂に安らぎがあらんことを」
祈りは短い。
長く祈る者は少ない。
戦場では、死者が多すぎるからだ。
祈りを終えると、アルトは腰の革袋から小さな壺を取り出した。
銀色の器。
手のひらほどの大きさ。
縁には細かな紋様が刻まれている。
『救魂器』と呼ばれる、魂を収めるための聖具である。
アルトは静かに蓋を開ける。
その瞬間。
遺体の胸元から、淡い光が浮かび上がった。
世襲の家に生まれ、この光を目にする者だけが、救魂官としての道を歩むことを許される。
最初は霧のようだった。
やがてそれは人の形をぼんやりと模した光になる。
兵士の魂だ。
光は揺れていた。
逃げ場を探すように。
だが壺はそれを逃さない。
魂はゆっくりと引き寄せられ、細く伸びながら壺の中へ吸い込まれていった。
最後の光が消える。
アルトは蓋を閉じた。
壺は、ほんのり温かい。
その温もりがゆっくりと冷めてゆく。
脳裏に、遠い向こうの記憶が蘇る。
******
ピンポーン。
詰め所に鳴り響く甲高い音。
暗い廊下。
白い蛍光灯。
鳴り続ける呼び出しベル。
眠い目を開けて走り出す。
誰かが言った。
『人が足りないんだ』
懇願する別の声。
『悪いけど、今日も頼む』
重い体。
それでも働く。
辞められない。
生活がある。家賃がある。食べなきゃいけない。
最後に覚えているのは、老人のベッドの横だった。
『すみません、少しだけ座りますね』
安らかな寝息を立て始めた老人に、胸をホッと撫で下ろした。
ちょっと五分だけの休憩。
そこで記憶は終わっている。
******
「おい」
声がして、アルトは顔をはっと上げた。
黒衣の男が立っている。
先輩救魂官のラズだった。
「ぼんやりしてるぞ」
「……すみません」
アルトは立ち上がる。
胸の奥のざわめきは、まだ消えない。
そのときだった。
白い外套の女騎士が近づいてくる。
王家の紋章が胸に刻まれていた。
それは救魂官よりさらに上の位の証だった。
救魂官よりさらに上のエリートの証だ。
「救魂官アルト・アルヴェン」
女騎士は書状を差し出した。
「王都からの命令だ」
アルトはそれを恭しく受け取る。
封を切る。
紙には、短い文章だけが書かれていた。
『勅、魂の救済をせよ。
聖女候補、アリア・レーベ。年齢、十三歳』
アルトは目を見開き、目の前の騎士を見た。
「……子供?」
「強い魂だ」
女騎士は顔を背け、淡々と言った。
「魔法炉の維持に必要になる」
雪は、まだ降り続いていた。
******
アルトは前方に見えてきた小さな村に目を細める。
田舎の山道は静かだった。
木々の枝には雪が積もり、風が吹くたびに白い粉が落ちる。
アルトは外套の内側から命令書を取り出す。
この三日間、何度も読んだ紙だ。
それでも、視線は同じところで止まる。
年齢、十三歳。
その数字だけが、どうしても頭に残る。
何かの間違いだと信じたかった。
雪を踏む音だけが続いた。
アルトは林業を主産業とする村と聞いていた。
仕事場に行こうと、すれ違う男たちの腕はたくましい。
やがて、石造りの教会が見えてきた。
聖女候補に名を連ねる者が従事するとは思えない、古くて小さい教会だった。
扉を開けると、礼拝堂があり、神の元に跪き、祈りを捧げている少女がいた。
アルトの歩みと共に板張りの床が軋み、彼女が振り返る。
白い衣。
幼い顔。
十三歳。
聖女候補。
「あっ!?」
彼女の視線がアルトに止まる。
黒い外套。
右手に持った銀の壺。
救魂官の印。
少女の顔から血の気が引いた。
衣の裾を強く握りしめる。
「……あの」
それはかすれるような小さな声だった。
少女の喉が震える。
「わたし」
唇がかすかに動く。
「死ぬんですか?」
アルトの胸が激しく跳ねた。手のひらにじんわりと汗が滲む。
『世界のために、俺は……。』
その問いは、アルト自身の口から出ることはなかった。
言葉にすれば、きっと少女の希望を壊す。
沈黙を守れば、己の手にかかる運命が重くのしかかる。
礼拝堂には静けさが満ち、天窓からは柔らかな光が淡く差し込んでいた。




