◆058 あれから……
―― 戦魔暦九十四年 一月十五日 魔法大学 ――
遠くにある太陽が大地を照らす。しかし、ベイラネーアには雪が降り積もっている。昨晩の大雪が原因だ。
午前十時を回る頃、リナは学生自治会室で雑務を処理している。
部屋にはリナ一人だけだったからか、仕事がひと段落つくと、リナは筆の末端を小口で咥え、物思いにふけっていた。筆が上下に数回ピコピコと動くと、部屋の外から足音が聞こえてきた。
学生自治会室の引き戸を開けたアイリーンは、すぐに怪訝な面持ちでリナを見た。
「……何やってるのかしら?」
「……ぅぉ?」
「口……筆なんか咥えてだらしないわよ」
すぐに姿勢を正したはずだったが、肝心な物を正さなかったリナは、頬を紅潮させて自身を正した。
アイリーンは適当な椅子に座り、足を組んだ。相変わらず床に足がついていない。
「折角の休みなんだから、こんな日くらい休めばいいじゃない? それとも何か用事でもあったの?」
「あ、えっとですね……今夜に予定を入れてしまったものでして、明日休むために来ちゃいました」
「あら、そうだったの。確かに明日学生自治会は招集がかかってたわね。今夜って事は討伐か何かかしら?」
「えぇ、エレメンタルリーパーの群れが発見されたのでサポートで参加する事になりました」
「エレメンタルリーパーっていったら、ランクAの浮遊型ガス系モンスターじゃない。誰が行くのよ?」
リナは笑みをこぼしてアイリーンを見た。アイリーンの顔に「メンバー次第では私も行くわよ」と書いてあるからかもしれない。
「銀の方々と、もう一人」
「銀か……けど戦士とは相性の悪い相手よね。もう一人って誰なのよ?」
「……エッグさんです」
リナは困った様子で呟くと、アイリーンが呆れた顔を向ける。
「はぁ、またあのお調子者に絡まれてるの? まったくドラガンのヤツ、面倒なのを冒険者ギルドに寄越したわね……」
「あははは、でもエッグさんももうすぐランクAになりますからね。今回は遊撃をお願いしますけど、普通だったら前線で戦えるレベルですよ」
「けど相手がエレメンタルリーパーでしょ? だったら戦士はあくまで時間稼ぎで止めはアナタって事になるわね。そういえばアナタ、ランクAになってから初めての討伐じゃないかしら?」
「そういえばそうですね。……ようやくアズリーさんの背中が見えた気が……いえ、まだまだ見えないですねっ」
リナが意気込んでアズリーを称えるが、アイリーンはその名を聞くと、不機嫌そうな顔になって口を尖らせる。
「まったく、音信不通もいいとこよ。こっちから連絡して、最初だけ繋がったけど、アイツ『上腕二頭筋と三頭筋が喧嘩し出すからまた今度!』とか訳のわからない事を言って、すぐに切断しちゃうのよっ? あー腹立たしい!」
「私から連絡してもやっぱり妨害される何かが施されていて……」
「やっぱりあの紙からしか連絡が取れないようにしたんでしょうね。それも一方的に」
リナは机の上に置いてある羊皮紙をとって開いた。それは二年前、アズリーがリナに渡した何も書かれていない羊皮紙だった。
「文字が浮かび上がって数日で消える魔法式……相変わらず性格が悪いわ……」
「あははは、そこは発想の転換ですよアイリーン先生っ」
微笑んでリナが言うと、アイリーンは小首を傾げてその先を促した。
「だから私、こっそりポチさんと連絡をとってたんですっ」
リナは、座りながらこの二年でいかほどか成長した胸を張って見せた。密着型のローブにより少し揺れを起こしたその胸を見て、アイリーンの顔がひくつく。しかしリナの発想にも感心したようで、「そ、それは良いアイディアね」とだけ言って、リナに気付かれないように自分の胸を触って大きさを確かめている。
首元の布を引っ張って内側に眠る。そう、ずっと眠っている自身の胸を覗き込んでいると、今度はリナが首を傾げながら言った。
「アイリーン先生……何してるんですか?」
「……ふぉ? あ、いや、その、なんでもないわよっ」
「そ、そうですか……?」
謎は解消されぬまま、アイリーンが答えを提示しないまま席を立ち上がって学生自治会室を出て行った。
リナは最後に一度、首を傾げる。アイリーンの足音が聞こえなくなると、リナはかつてウォレンが寄り掛かっていた大きな椅子にもたれかかった。
天を仰ぐようにまた白紙の羊皮紙を広げると、浮かび上がらない文字に憤りを感じるかのように息を漏らす。
「むー…………いでよ文字っ!」
当然、文字は出なかった。
「……ズルいです、アズリーさん……」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
―― ベイラネーアの冒険者ギルド ――
夜、冒険者ギルドが最も騒がしくなる時間。
冒険者たちはエールが入ったジョッキやグラスを掲げ、当日の冒険の疲れを癒し、称え合っている。
その中に一人、女とも少女ともとれる人間が静かに座っていた。
長い黒髪を後頭部で一つにまとめた小顔の美少女。戦士のようだが、どこか着物の名残があるその様相は、他の冒険者と少し違う印象だ。
美少女は葡萄の果実ジュースを前に疲労感が見える顔を俯かせている。
「あら、春華ちゃん? 今日はベティーと一緒じゃないの〜?」
「ダンカンさん。今日は皆さんランクAのモンスター討伐でありんす。あちきはまだ戦力外でありんすから、さっきまで一人で討伐していんした」
「あ〜、そういえばそうだったわね。それじゃ寂しいわよね〜……あ、でもそろそろあいつらが帰ってくるかしら? そしたらここにこさせるわね♪」
ウインクをしながらそう言うと、ダンカンはエールが載ったトレイをクルクルと回転させながら踵を返した。
ダンカンの言葉の意味が理解出来なかった春華は、先刻のリナのように首を傾げていた。すると「あらお帰り〜」というダンカンの声がギルドに響いた。
出口に向けた声が、春華にその答えを示した。
「オルネルさんっ」
「やぁ春華。暇してるみたいだな」
この二年で、より精悍な顔つきになったオルネルが床に杖を突いて春華の前に立つ。
後ろにはより屈強になったミドルスが、そしてあまり変化のないイデアが立って、春華に微笑みかけた。
「今日は惜しかったぜ。もう少しのところでリザードジェネラルを取り逃がしちまった」
「ありゃアンタの凡ミスだよ。ま、目的のリザードナイトの殲滅は出来たからいいけどね」
「ふん、ミドルスのミスは計算のうちだ」
「あーあー、悪かったなミスばかりでよっ」
そう言ってミドルスが春華の正面の席に腰を下ろした。続きオルネルが春華の右手、左手にイデアが腰掛けた。
「あのリザードジェネラル、あのままだと『渇きの砂漠』の方まで行くでしょうね」
「あっちの方はその名の通り本当に乾いてやがるから別に問題ねーだろ?」
「確かにね」
イデアがそう頷くと、入口で注文したのか、ダンカンが三人分の飲み物を運んできた。
イデア、ミドルスにエール。オルネルが春華と同じ葡萄のジュースを手にとると、グラスをカツンと当てて簡単な乾杯を済ませた。
「春華、リナやブレイザーさんたちはやはりあの討伐へ?」
「あい、これ以上の街への接近は危ないと言っていんした」
「だろうな、リナのヤツ、誘ってくれれば付き合ったものを……」
「今回のエレメンタルリーパー、そこまで数はいないって話でしょ? 銀とリナがいれば十分よ」
「そうだぜ、ブレイザーさんがいりゃなんとでもなんだろ」
「だろうけどな……なんか今回は胸騒ぎがしてな。杞憂であってくれればいいが……」
不安そうなオルネルの様子に春華の顔が曇る。イデアがテーブルの下からオルネルを蹴ると、ハッと気付いたオルネルが俯く春華に焦ってフォローを入れた。
「あ、でも、エッグも行ってるんだろっ? 生意気だがあいつも腕は立つ。ドラガン様の弟子なだけはあるからな。それにリナだってどんどん強くなってるしなっ。バラードもいるし問題ないだろう」
矢継ぎ早にフォローを入れたせいか、イデア、ミドルスの冷やかな視線がオルネルに刺さる。自分へのフォローだと気付いた春華が笑顔を見せると、オルネルがほっとする。そこでミドルスが空気を変えるために別の話題を取り出した。
「そういや春華もそろそろランクCになるんじゃねぇか? その実力なら戦士大学にも入れるだろうけど、やっぱり入らないのか?」
「あい、やっぱりあちきは銀が好きなんです」
「確かにブレイザーさんには人を引き付ける力がある。僕たち三人がここまで強くなれたのもあの人の力の影響が強いからな」
「二年前か……確かアズリーのヤツが事件を起こす前だったね」
イデアが懐かしそうに昔を思い出していると、春華がくすりと笑う。イデアはそれを訝しみ、「どうしたんだい?」と聞いた。
「イデアさん気が付くとアズリーさんの話をしんすね?」
「ば、馬鹿っ、そんなんじゃないよ!」
「ふん、最初開きがあった僕とヤツとの距離も、この二年で大分縮まったはずだ」
「はははは、ここにもある意味アズリーが気になるヤツがいんぞ」
「どうとでも言うがいい」
そう言ってオルネルが立ち上がる。そしてギルドの出入り口まで向かい始めると、イデアとミドルスが「帰るのか?」と聞いた。
「やはり少し気になる……悪いが少し出てくる」
ダンカンを横切ってオルネルが扉を開いて出て行くと、イデアとミドルスが静かに立ち上がる。
「「リカバー」」
黄色い光が二人を包むと、顔に出ていた赤みが少しずつ消えていった。
アルコールが及ぼす身体的影響を消したのだ。
「まったく、しょうがないリーダーだよ」
「かかかかか、ちげぇねぇっ」
「ご武運を……」
春華が目を伏せて言うと、イデアがまた微笑み、ミドルスが気合いの入った声で応じた。
二人がギルドから出て行くと、ギルドの主、ダンカンが鋭い目つきで呟いた。
「あの野郎ども、食い逃げするとはいい度胸だ……」
背筋が凍り、慌てて財布を出そうとする春華。それを横目に、ダンカンは全ての者を屠るかのような目から、いつもの優しい目に戻った。
「うふふふ、春華ちゃんはちゃんと払ってね〜♪」
「は、はい!」
その場に立ち上がって春華が返事をすると、ダンカンは笑顔で仕事へと戻って行った。
(三人共……ご武運をっ……!)




