◆143 額の傷
―― 戦魔暦九十四年 五月二日 十七時 ――
日は傾き、橙の光が一筋。それが消えかける頃、極東の荒野へ着いたガストンとコノハは、トゥースの下を訪れていた。
(……まさか、これ程の者とは……な)
小さな身体に走る驚き。見上げる程の巨躯。
まるで豆粒のように見えるコノハが、ゴクリと喉を鳴らした。
(ご主人…………これはモンスター……ではない、か?)
見下しながらトゥースの目が細くなる。視線がガストン、そしてコノハへと動くと、コノハの身体がビクリと固まる。
面倒臭さを隠す様子もなく、深い溜め息を二人に見せ付けるトゥース。
アズリーの紹介状を手にしたガストンが一歩前に出る。
ガストンの手元の書状を睨み付けたトゥースは、書状の端に見える癖のある字に、片眉を上げた。どうやら書状を書いた主を察したようだ。
「極東の賢者、知肉のトゥース殿。本日は頼みがあり参っ――――」
「出てけ」
そう言い放った後、ガストンの横を通り過ぎるトゥース。
あまりの突然の出来事にあっけに取られたコノハの顔が固まっている。そして、何が起きたかを理解し、ガストンの肩の上で振り返るコノハは、顔を赤くしてトゥースに怒鳴った。
「貴様、わざわざ足を運んだご主人に対して失礼だぞ!」
「やめよ、コノハ」
「しかし――むぐっ!?」
トゥースを睨み続け反論するコノハだが、ガストンが皺の多い指でその口を塞ぐ。
「静かに暮らす者のところへ頼み事に来たのだ。失礼なのは我々の方だ」
トゥースの背中が見えなくなる頃、塞がれていた口が解放されたコノハはガストンを見上げた。
砂塵が視界を覆い、トゥースの大きな足跡をじっと見つめるガストン。
砂が積もり、すぐに消えてしまう足跡。
横風に片目を瞑り、一陣の風が過ぎるのを待ち、再び目を開く二人。
「無論、ただの一度で諦める事はない」
「……追うのか? ご主人」
「いや、日を改める」
ガストンは静かに口を固く結び、近くの小岩に腰を下ろす。
ただじっと時が過ぎるのを待ち、陽が落ち、そしてまた登る。
同じ場所にトゥースが戻る訳ではなかったが、彼の魔力を追えないガストンではない。
翌三日、埋め込み式魔術の体内時計が午前十時を知らせた時、ガストンは再び立ち上がる。
濃く繊細な魔力を追い、腕を組みながら岩陰に寄りかかるトゥースを見つけると、アズリーの書いた紹介状をその眼前へと差し出す。
「アズリーの紹介で参った。是非とも話を聞いて欲しい」
「……邪魔だ、帰りな」
ピクリと眉間に皺を寄せ怒りを見せるコノハだが、やはりガストンはそれを止める。
俯き、手に持つ紹介状を畳むガストンは、鼻を鳴らして腰を下ろす。ガストンが抱き込んだ杖を登り、その上でコノハが腕を組む。
「ご主人、あれはダメだ。諦めた方がいい」
「フン、儂が頑固なのは知っているだろう……」
「最近は丸くなったと思ったのだがね。あのアズリーという坊やのおかげでな」
「………………」
噤んでいるが、ガストンは口の端を少し上げている。
(否定しないとは、これまた珍しい。なるほど、あの坊やが与えている影響は大きいという事か)
同日二十時、ガストンは再びトゥースの下を訪れた。
呆れた様子のトゥースは、アフロ頭の中に手を入れ頭頂部をコリコリと掻く。
「はぁ……ったく、飽きねぇな爺。暇でもないんだろ? さっさと帰ってガキんちょどもを育てた方がためになるぜ」
「くっ、守護魔法兵団をガキんちょ呼ばわりとは…………」
「よいのだコノハ。トゥース殿にとっては儂とて子供。事実を事実のまま述べたに過ぎぬ」
コノハが首を傾げ、トゥースは小さく舌打ちする。
「あの野郎、喋りやがったな……」
「非礼を詫びよう」
「ふん、そんな得にもならない言葉はいいから……さっさと帰りな」
三度断ったトゥースは、一瞬にして闇に消え、コノハを驚かせる。
「…………ご主人より速いな」
「あれで十分の一の実力も出しておらぬよ」
「……………………なるほど、ご主人が粘る訳だ」
再び夜が明ける。
四日の十時、二十時にトゥースの下を訪れ、また断られる。
頼みの内容すら聞き入れないトゥースに、コノハはその都度感情を昂ぶらせる。依然ガストンは黙したままである。
翌日も、そのまた翌日も断られ、ガストンの眉に払い切れない砂埃が溜まる。
「ご主人、真っ白な私の身体が茶色に染まってしまったぞ。これではまるでドブ鼠のようだ」
「……入っているか?」
ハウスの宙図をほのめかすガストンだが、コノハはゆっくりと首を振る。
「いや、珍しくご主人が『付き合え』と言ってくれてここまでやってきたのだ。今更入る気にはならない」
「……そうか。時間だ、行くぞ」
五月七日の午前十時。ガストンが腰を上げる。
慣れたように主人の衣服を登るコノハ。肩まで見送り終えたガストンがトゥースの魔力を追う。
最早ガストンが眼前に現れる事を不思議に思わなくなったトゥースは、冷たい目だけを送り続けている。
「……懲りない爺だ」
「………………………………」
「……ぁん?」
物言わぬガストンに首を傾げるトゥース。
するとその視界に、信じ難い事が起こった。
絶句するコノハの目は大きく開き、トゥースの視線はより鋭くなった。
地に膝を折り、腿の上に手を置いている。
「ご……ご主人…………」
「………………六法士筆頭、焔の大魔法士ガストン。その頭はそんなに安くない筈だが?」
「そうだご主人っ。立ってくれ!」
手が地に向かい動く。
ガストンの手の平には砂利独特の感触与える。その行為にコノハが強く目を瞑る。
「……お願いする。話を聞いて頂きたいっ」
下がる頭。地に付く額。
芯のある重い言葉にコノハが震える。
じっとガストンを見つめるトゥース。微動だにせず頼みが願いに変わった瞬間を見続ける。
これ以上主人が頭を下げているのを見たくないコノハは、それでも何も言わないトゥースを睨み付ける。
しかしトゥースの眼力はそんな睨みなど意に介さない様子で、ガストンだけを見ている。
再び何かを思い強く目を瞑ったコノハが、意を決した様子で目を開く。ガストンの肩から下り、その隣で膝を折ったのだ。
「く……! 頼むトゥース殿! ご主人の願いを聞いて欲しい! 取るに足らない私のチンケな頭だが、礼を持ってお願いする!」
遂にコノハは耐え切れなくなり、主人に倣い、主人のために願った。
主人の願いは自分の願い。そう思い、ただひたすらに願った。
地に額を擦り付け、茶色になった額の体毛がじんわりと赤に染まる。
ガストンの願いとコノハの願い。二つの願いがトゥースの心に何を届けたのかは不明だ。
しかし、その願いはトゥースの溜め息の色を変えたのだ。
「あ〜………………ったく。……立ちな」
「「…………………………」」
「いいから立ちなっ。いくら俺でも爺と鼠に頭下げられ続けたら気持ち悪ぃんだよ。さっさと立て!」
ただ不快にさせてはならないと、トゥースの指示に従った二人。
人指し指を一本立てるトゥースに、額から血を流す二人が気付く。魔力が指先に集まっているのだ。
何らかの魔法を宙図しようとしているのが容易に想像出来た。
「……一度だけだ。よーく見とけ……」
その意味こそわからなかったガストンだが、トゥースの指先がこれから行う宙図を見逃してはいけない事だけは理解出来た。
「ほい、ハイキュアー」
「「っ!?」」
トゥースの指先の繊細な動きは、ガストンの額の傷を一瞬で治した。
ガストンの目には何も映らなかった。魔法名だけが情報を与え、トゥースが何をしたのかを知らせた。
上級回復魔法の神速の宙図。文字通り目にも止まらぬ速度に、二人は驚きさえも口に出せずにいる。
「……一週間だ。一週間でこれが出来るようになったら爺、アンタの話を聞いてやる」
ほんの少し。微かな前進だが、コノハにはガストンにそれが可能とは思えなかった。
それ程トゥースの見せた修練の賜物は異質だったのだ。
しかし、コノハの主人は違った。
小さく口元を緩め、この僅かな前進を確かな前進だと確信したのだ。
「礼には礼を……だ。返さねばアズリーに顔向け出来ぬわ。……この試練、六法士ガストンがしかと請け負ったっ!」
小さな老人は、小さな拳を強く握った。喜びと期待……久しく感じていなかった胸の高鳴りを聞いた。
コノハは主人の背中に見た。その小さな背に背負った意地と向上心を。
 




