101回目の婚約破棄――最後まで聞いたら巻き戻るので、今度は途中で遮ります
婚約破棄というものは、一生に一度でもあっていいものではない。
少なくとも私は、そう思う。
「ごめん。君とは結婚できない」
現実世界の婚約者は、ファミリーレストランの窓際の席でそう言った。
テーブルの上には、半分も減っていないアイスティーがあった。私の指には、まだ婚約指輪がある。向かいの席には、つい十五分前まで私の婚約者だった人が座っている。三年付き合って、両家に挨拶を済ませ、式場の下見までした相手だ。
彼は申し訳なさそうな顔をしていた。
申し訳なさそうな顔をする人が、必ずしも申し訳ないと思っているとは限らない。私はそのことを、この後、嫌というほど学ぶことになる。
「本当に悪いと思ってる。でも、彼女は僕のことを理解してくれるんだ」
理解。
便利な言葉である。
「いつから?」
「え?」
「その人と、いつから?」
彼は目をそらした。
ああ。答えたくない質問なのだと分かった。
「……半年くらい前から」
半年。
その間、私は招待状の文面を選び、引き出物の候補を見て、彼の母親の好みに合わせて会食の店を探していた。
彼はその間、別の女性に理解されていたらしい。
「でも、体の関係とか、そういうことじゃなくて」
「そういうことじゃないなら、どういうこと?」
「だから、心の問題なんだ」
心の問題。
これも便利な言葉である。面倒な責任をふわっと包むときに使われる。
「君には悪いと思ってる。でも、結婚してから気づくより、今の方が誠実だと思ったんだ」
誠実。
便利な言葉の展示会でも開くつもりなのだろうか。
氷が溶けている。指輪が重い。胸の奥が、じわじわと冷たくなっていく。
「ご両親には、僕から説明する。もちろん、式場のキャンセル料は――」
そこまで聞いたところで、視界が白くなった。
倒れたのだ、と分かったのは、たぶん倒れた後だった。
床に落ちる直前、遠くで鐘の音が聞こえた気がした。
ごおん、と。
重く、低く、胸の奥に沈むような音だった。
次に目を開けた時、私は知らない大広間に立っていた。
シャンデリア。絹のドレス。楽団の音。磨き抜かれた床。甘い香水と薔薇の匂い。
そして目の前には、金髪の王子らしき男が立っていた。なぜ王子らしき男だと分かったかというと、周囲がそれらしい距離を取っていたからである。人は権力者の周りに、独特の空白を作る。
その男は、私を見下ろすように顎を上げた。
「レティシア・クラウディア。君との婚約を破棄する」
私は思った。
さっき聞いた。
場所も男も違う。けれど言っていることは、だいたい同じだった。なぜ、私は世界を越えてまで婚約破棄を聞かされているのだろう。
「聞いているのか、レティシア」
レティシア。どうやらそれが、この体の名前らしい。
白い手袋。細い指。知らない指輪。深い青のドレス。少なくとも、ファミリーレストランで着る服ではない。
私は今、異世界にいる。
そう理解するまでに、ほんの数秒かかった。人間は本当に理解を超えた状況に置かれると、案外、取り乱さない。処理できないものを、後回しにするからだ。
「殿下。今、何とおっしゃいましたか」
「君との婚約を破棄すると言った」
王子ははっきり言った。
その瞬間。
ごおん、と鐘が鳴った。
聞き覚えのある音だった。ファミリーレストランで意識を失う直前に聞いた、あの低く重い鐘。
視界が白くなる。
シャンデリアも、王子の顔も、周囲のざわめきも、すべて遠ざかっていく。
そして次の瞬間、私はまた大広間の入口近くに立っていた。
王子が少し離れた場所からこちらへ歩いてくる。楽団は同じ曲を弾いている。隣の婦人が同じタイミングで扇を開く。給仕が同じ銀盆を持って通り過ぎる。
戻った。
戻ってしまった。
夜会の、婚約破棄される少し前へ。
王子は同じように私の前で足を止め、同じように顎を上げた。
「レティシア・クラウディア。君との婚約を破棄する」
ごおん。
婚約破棄というものは、一生に一度でもあっていいものではない。
けれど、その夜から私は、婚約破棄を百回聞くことになった。
一回目、私は呆然としていた。
二回目、私は自分の頬をつねった。
三回目、私は泣いた。
四回目、私は怒った。
五回目、私は楽団の近くへ逃げた。音楽に紛れれば聞こえないのではないかと思ったのだ。けれど王子の声は、なぜか楽団よりもはっきり響いた。
「君との婚約を破棄する」
ごおん。
六回目、私は庭園へ逃げた。王子は噴水の前まで追ってきた。
七回目、私は倒れたふりをした。王子は医師を呼ぶ前に、耳元で婚約破棄を告げた。
八回目、私は笑ってみた。王子は「ついに気が触れたか」と言った。失礼である。
九回目から十六回目まで、私は謝り、祝福し、慰謝料を求め、王妃を呼び、宰相を呼び、司祭を呼び、記録官を呼んだ。
全部、だめだった。
十七回目、私は証拠を探した。
十八回目、私はこの体の記憶を探った。
どうやらレティシア・クラウディアは、公爵家の令嬢だった。
王太子アルベルトの婚約者で、幼いころから王妃教育を受けていた。真面目で、控えめで、言われたことをきちんと守る令嬢。
そして今夜、アルベルト王子は男爵令嬢ミーナを隣に立たせ、レティシアを断罪する予定だった。
罪状は、ミーナへの嫌がらせ。
もちろん、事実ではない。
レティシアはむしろ、ミーナへ必要以上に丁寧だった。廊下で会えば挨拶を返し、茶会では席を勧め、王子が彼女を庇うたび、何も言わずに下がった。
何も言わなかった。
それがよくなかったのかもしれない。
礼儀として黙っていたことを、王子は同意だと思った。傷ついても微笑んでいたことを、平気なのだと思った。好きなものを譲ったことを、望んで譲ったのだと思った。
現実世界の彼と、ずいぶん似ている。
違うのは、こちらには王冠があることくらいだ。
二十回目、私は証拠を集めた。
嫌がらせの手紙は、レティシアの筆跡ではない。階段から突き落とされたという日、レティシアは王妃の勉強会にいた。ドレスを破られたという話も、ミーナ自身が裾を踏んで裂いたものだった。
私がそれらを王子の前に出すと、ミーナは泣きながら王子の袖を引いた。
偶然にしては、百回とも同じ手だった。
王子は言った。
「君はそこまでして、彼女を貶めたいのか」
ごおん。
三十回目、私は完璧に論破した。
王子は一瞬黙った。けれど沈黙の後、少しだけ声を大きくして、やはり同じことを言った。
声の大きさは、証拠の代わりにはならない。
この世界では、なるらしい。
ごおん。
四十回目、私は王子より先に婚約解消を申し出た。
「殿下。私から婚約解消をお願いいたします」
そう言った瞬間、少しだけ大広間が揺れた気がした。
けれど私は、王子の言葉を止めたわけではなかった。
ただ、自分の言葉を先に置いただけだった。
王子は顔をしかめた。
「僕が言うべきことを、君が奪うな」
そして言った。
「君との婚約を破棄する」
ごおん。
五十回目、私は欠席した。夜会の前、支度部屋でドレスを脱ぎ、寝台にもぐった。すると扉が開き、王子が入ってきた。
ありえない。
王子は令嬢の支度部屋に勝手に入るべきではない。
そんな常識も、この世界の物語は無視した。
「レティシア。逃げても無駄だ。君との婚約を破棄する」
ごおん。
六十回目、私は窓から逃げた。
七十回目、私は馬車に乗って王都を出ようとした。
八十回目、私は隣国の大使館へ駆け込んだ。
九十回目、私は修道院へ逃げた。
全部だめだった。
必ず王子が現れた。必ず婚約破棄を言った。必ず鐘が鳴った。私は夜会の前に戻された。
九十九回目、私は何もしなかった。
泣かなかった。怒らなかった。逃げなかった。証拠も出さなかった。ただ、大広間の入口近くに立ち、王子が来るのを待った。
「レティシア・クラウディア。君との婚約を破棄する」
ごおん。
また戻った。
百回目。
私はもう、だいぶ疲れていた。
現実世界で一回。この世界で百回。婚約破棄という言葉には、もう十分すぎるほど付き合ったと思う。
大広間の菓子卓には、小さな焼き菓子が並んでいた。丸いビスケット、蜂蜜のかかったナッツ菓子、赤い果実のタルト、そして銀の茶こしに入った粉砂糖。
私はそれを見た。
見てしまった。
その瞬間、たいへんよくない考えが頭をよぎった。
百回も婚約破棄を聞かされた人間に、常に品位を求めてはいけない。
王子がこちらへ歩いてくる。いつもの歩幅。いつもの表情。いつもの、こちらを裁くような目。
「レティシア・クラウディア」
はいはい。
私は菓子卓へ手を伸ばし、銀の茶こしを持った。粉砂糖が中でさらりと揺れた。
「君との婚約を――」
「少し甘くなってくださいませ」
私は王子へ粉砂糖を振った。
白い粉が、ふわりと舞う。王子の前髪が白くなった。肩も白くなった。隣のミーナも少し白くなった。
大広間が凍りついた。
王子はたいへん王族らしくない顔で鼻をひくつかせた。
「君との婚約を、は、は……」
「は?」
「はっくしょん!」
王子は盛大にくしゃみをした。
その瞬間、鐘が鳴りかけた。
ごお――。
けれど、そこで止まった。
まるで誰かが鐘の内側に手を当てたような、半端な音だった。
私は粉砂糖の茶こしを握ったまま、目を見開いた。
王子はまだ、婚約破棄を言い切っていない。
だから鐘は、鳴り切らなかった。
大広間のざわめきが、いつもより長く続いている。世界が、戻らない。ほんの数秒だけ。けれど百回目にして初めて、私はその数秒を見た。
もしかして。
婚約破棄されたから巻き戻るのではない。
婚約破棄を、最後まで聞いていたから――。
視界が白くなった。
けれど戻る直前、私は初めて笑った。
百一回目。
大広間の入口近くで、私は目を開けた。
楽団は同じ曲を弾いている。隣の婦人が同じタイミングで扇を開く。給仕が同じ銀盆を持って通り過ぎる。菓子卓には粉砂糖がある。そして王子が歩いてくる。
私は息を吸った。
百回、私はあの人の言葉を最後まで聞いた。
泣いても、怒っても、逃げても、戦っても、結局は聞かされた。
けれど、本当に聞かされていただけだったのだろうか。
礼儀だから。相手が話しているから。最後まで聞かなければ失礼だから。
現実世界でもそうだった。
彼が「君とは結婚できない」と言った後も、私は彼の言い訳を聞こうとした。半年も別の人を好きだった彼の言葉を。誠実だの、心の問題だの、理解だの、そんな便利な言葉を。
聞く必要があったのだろうか。
なかった。
婚約破棄というものは、一生に一度でもあっていいものではない。
ましてや、それを最後まで丁寧に聞いてあげる義務など、どこにもない。
王子が私の前に立った。
「レティシア・クラウディア」
私は顔を上げた。
王子の隣にはミーナがいる。周囲には貴族たちがいる。遠くには王妃がいる。
百回見た光景だった。
百回聞いた声だった。
百一回目の私は、もう同じではない。
「君との婚約を――」
「そこまでにしてもらおう」
私の声は、驚くほど静かだった。
大広間が凍りついた。
王子が目を見開く。
「何だと?」
「そこまでにしてもらおう、と申し上げました」
「僕はまだ、話している途中だ」
「ええ。ですから、途中で止めました」
周囲がざわめく。
私は一歩前に出た。
「殿下。婚約破棄をお望みなら、承ります」
王子の顔に勝ち誇った色が浮かびかけた。
私は続けた。
「ただし、あなたの物語の中で、私が断罪される役を引き受けるつもりはありません」
「何を言っている」
「私はあなたの台詞が終わるまで、黙って立っている義務はありません。あなたが私を悪者にしたいなら、証拠をお出しください。証拠がないなら、これはただの婚約解消です」
「レティシア!」
「声を荒らげても、証拠にはなりません」
言えた。
こんなに簡単なことを、百回も言えなかった。
ミーナが青ざめている。王子は私を睨んでいる。けれど私は、もう怖くなかった。
恐怖は百回でだいたい擦り切れる。
代わりに残るのは、かなり乾いた怒りである。
「なお、ミーナ嬢への嫌がらせについても、私は否認します。必要なら、ここで一つずつ確認いたしましょう」
「そんなもの、今さら――」
「今さらではありません。今です」
私は王妃の方へ向いた。
「王妃陛下。婚約解消の協議と、虚偽の告発に関する確認のため、正式な記録官の同席をお願いいたします」
王妃はしばらく私を見ていた。
百回のうち何度か、私は王妃に助けを求めたことがある。その時、王妃は必ず遅かった。王子が婚約破棄を言い切った後だった。鐘が鳴る直前だった。
今回は違う。
王子はまだ、言い切っていない。
王妃は王子を見た。次に、ミーナを見た。最後に、私を見た。
それは母親の顔ではなかった。為政者が、公の場で起きた失態の大きさを計っている顔だった。
「記録官を」
大広間の空気が変わった。
王子が顔色を変える。
「母上!」
「黙りなさい、アルベルト」
初めて聞く王妃の低い声だった。本当にまずいものを見つけた人は、声が低くなる。
「婚約破棄を公の場で宣言するなら、その根拠も公のものとなります。あなたはそれを理解していましたか」
王子は答えなかった。
答えなかったので、答えたのと同じだった。
私はその場で、百回分覚えた証拠を一つずつ並べた。
ミーナが階段から落ちた日、私は王妃の勉強会にいたこと。嫌がらせの手紙の筆跡が違うこと。破られたドレスの裾には、本人が踏んだ跡があること。王子がミーナへ贈った品の一部が、王太子妃教育用の予算から出ていたこと。
最後の一つで、王妃の目が完全に冷えた。
王子は何か言おうとした。
私は彼の方を見た。
「殿下。婚約解消には応じます。ですが、あなたに私を裁く権利はありません」
その瞬間。
鐘が鳴った。
けれど、それは百回聞いた低い鐘ではなかった。
ごおん、ではない。
りん、と澄んだ音だった。
どこか遠くで、閉じていた扉が開いたような音。
大広間の灯りが、少しずつ白くなる。
王子の顔が遠ざかる。王妃の声も、周囲のざわめきも、楽団の音も、薄くなっていく。
けれど今度は、戻されるのではないと分かった。
私は、戻るのだ。
りん。
もう一度、澄んだ鐘が鳴った。
目を開けると、ファミリーレストランの窓際の席にいた。
半分も減っていないアイスティー。テーブルの端に置かれた紙ナプキン。窓の外を走る車。向かいに座る、さっきまで婚約者だった人。
彼はまだ、言い訳の途中だった。
「だから、君には悪いと思っている。でも彼女は、僕のことを本当に理解してくれて――」
「そこまでにしてもらおう」
私の声は、驚くほど静かだった。
彼が瞬きをした。
「え?」
「そこまでで結構です」
「いや、でも、ちゃんと説明しないと」
「説明はもう十分です。あなたは半年ほど前から別の方を好きになり、私との結婚準備を進めながら、その方との関係を続けていた。今日、婚約をなかったことにしたいと言った。私は聞きました」
「そんな言い方しなくても」
「では、どんな言い方なら満足ですか。あなたが傷つかず、私だけが静かに傷つく言い方でしょうか」
彼は黙った。
答えなかったので、だいたい答えたのと同じだった。
私は指輪を外した。
テーブルの上に置く。
小さな音がした。
不思議なほど、手が震えていなかった。
「婚約破棄は受け入れます」
彼は、ほっとした顔をした。
その顔を見て、私は少しだけ笑った。
「ただし、あなたの物語の脇役としてではありません。式場のキャンセル料、両家への説明、指輪の扱い、共有している費用の清算について、今ここで決めましょう」
「え、今?」
「はい」
「今日はお互い、冷静じゃないし」
「私は冷静です」
「でも、こういうことは、少し時間を置いて」
「私はもう、百一回分待ちましたので」
彼は意味が分からないという顔をした。
それでいい。
これは私の話だ。
彼に分からせる必要はない。
私は鞄から手帳を出した。現実世界の私は、異世界の公爵令嬢ほど完璧ではない。けれど結婚式の準備をしていたので、費用のメモくらいはある。
式場予約金、衣装合わせ、顔合わせの店、招待状の試作、家具の下見。
一つずつ書き出すと、彼の顔色は少しずつ悪くなった。
「これ、全部今やるの?」
「はい。あなたが今日終わらせたいとおっしゃったので」
「いや、そういう意味じゃ」
「どういう意味だったとしても、私はもう、あなたの言葉の足りない部分を想像して補うのをやめました」
彼はまた黙った。
私は店員を呼び、温かい紅茶を頼んだ。アイスティーはすっかり薄くなっていたからだ。
婚約破棄された直後に紅茶を追加注文する女を、彼は少し怖がっているようだった。
失礼である。
人は喉が渇く。百一回も婚約破棄を聞けば、なおさらである。
話し合いは一時間ほど続いた。
彼は途中で何度か「彼女は関係ない」と言った。私はそのたびに、「では関係ない方の名前を出さずに、あなたの責任だけで説明してください」と返した。
彼は途中で何度か「僕も苦しかった」と言った。私はそのたびに、「苦しかったことは、私を半年間だましていい理由にはなりません」と返した。
彼は途中で一度だけ、「君ってそんなに強かったっけ」と言った。
私は少し考えた。
強かったわけではない。
百一回、同じ場所に立たされただけだ。言葉を最後まで聞かされ続けた。その結果、途中で止めてもいいと知った。
「強くなったのだと思います」
私はそう答えた。
彼は何も言わなかった。
夕方、店を出るころには、空はよく晴れていた。
駅前の時計台が、五時を告げる。
軽い音だった。
あの低い鐘でも、異世界で聞いた澄んだ鐘でもない。ただの時計台の音。それが、妙にうれしかった。
私は婚約指輪のない手を見た。
指は少し軽い。
胸はまだ痛い。
当たり前だ。
傷ついたものは、物語が終わったからといってすぐに消えるわけではない。
けれど、低い鐘は鳴らなかった。
視界も白くならなかった。
私はどこにも戻されなかった。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
式場のことで確認したいことがある、とメッセージが来ている。
私は深く息を吸った。
今までなら、どう説明すれば母を傷つけずに済むか、どう言えば彼の顔を立てられるか、まずそれを考えただろう。
けれど今は違う。
私は私の言葉で、私のことを説明する。
画面に指を置いた。
『婚約は解消します。理由は彼から別の女性を好きになったと告げられたためです。今、費用と今後の説明について話し合っています。帰ったら、私から詳しく話します』
送信。
すぐに既読はつかなかった。
それでいい。
返事を待つ時間も、私のものだ。
私は駅へ向かって歩き出した。
ヒールの音が、歩道に小さく響く。
婚約破棄というものは、一生に一度でもあっていいものではない。
けれど私は、それを百一回越えて、ようやく知った。
誰かの言葉が終わるのを、黙って待ち続ける必要はない。
誰かの物語の中で、悪者や脇役や都合のいい婚約者になる必要もない。
私の人生は、私が続きを決めていい。
駅前の風が、少し冷たかった。
私はコートの前を合わせる。
そして、もう一度だけ笑った。
今度は、小躍りしてもよかったかもしれない。
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次作「101回目の離縁――「愛していない」と言い切られたら巻き戻るので、今度は離縁届を先に出します」が公開中です。シリーズ「恋愛小説のはずでした」よりどうぞ。




