48.左手(1)
ちょうど写真を撮り終わった頃に日が陰った。気のせいか風も強くなった。
「元気そうでよかったですね」
「はい、安心しました。もう少し休んでもらって外厩に入ってもらいます」
「雪島スタッド稲敷」、通称「雪稲」には既に話をしている。スケジュール調整は高梨調教師にお願いすることになるだろう。青葉賞は5月末だから3月のどこかで移すのがいいのかな?
ホッカイドウ競馬のレース自体は4月になってから始まるけれど、調教はそれより前、馬によっては屋内坂路コースなどを使って、もうこの1月の時点で既に始まっている。
この茨城の競馬場で休養している他の馬たちも、忙しくなるだろう。
グランフェリスに別れを告げようとすると、その前に彼女は駆けていってしまった。
「正式には高梨先生から連絡してもらいますが……」
牧場の事務所でお礼と現時点での今後の予定を告げた。それが終わってからふとロビーを見ると。ソフィアさんが万里子さんに嬉しそうに何かを告げていた。コーヒーを飲んでいた万里子さんもいつもより表情が緩んでいるような気がする。
その万里子さんが帰りも運転してくれる。ソフィアさんによると万里子さんはアメリカ人でロサンゼルスの警官だったらしい。悠馬にはよくわからないが日本人の警官よりも荒事に馴れてそうな気がする。
悠馬はソフィアさんと後部座席に並んで座っている。先ほどのやりとりのことを考えると照れ臭い。もう30歳を過ぎているのに情けないことだ。幸いなことにソフィアさんが会話をリードしてくれる。
「グランフェリスは私が見ても元気でした。あおばしょうもオークスも十分きたいできますね」
「まあ、青葉賞は無事に走ってコース慣れしてもらえればよいので、やはり本番のオークスに力をためてもらいたいですね」
オークスは青葉賞の1ヶ月後。放牧しているとは言え、豪雨の京成杯(2000m)から2週間でほぼ回復している様子を見ると、2400mに距離が伸びても中3週のローテーションは大丈夫だと思う。
「たのしみですね。その後はどうするんですか?」
「勝っても負けても北海道に戻してあげたいですね。秋になれば……それはオークスの結果次第になります」
2400mでは牡馬に勝てない。今年のクラッシックの本命は昨年末のホープフルステークスの勝ち馬であるウィンドブリンガー。東スポ2歳の時からさらに成長しているようだ。あの馬だけ考えても勝てないと思う。
そしてこの時期にも、もっと遅くにもぐんぐん伸びてくる馬だっている。
この時期、三冠候補と言われておきながら、ステップレースにも勝てなかった馬だっていっぱいいる。というか今の時点では日本中の馬主が今年の三冠馬のオーナーになる夢を持っているだろう。グランフェリスだってオークスを獲れるかというと難しい。それでもGⅠに、日本の頂点のレースのひとつにもし勝てる可能性があるとするとそれは牝馬限定、かつ距離が一番長いオークスしかないと思う。
グランフェリスには2400でもまだ短い。もし3000mまで伸びれば、一流どころの牡馬相手でも勝負になるんじゃないかな。悠馬はグランフェリスにものすごく期待している。
その悠馬の思考を読んだかのようにソフィアさんが続けた。
「きくかしょうもねらえるかもしれませんね」
ソフィアさんは「きくか」派なんだ。どうやらそちらが正式名称らしいのだけれど、悠馬は「きっかしょう」としか聞いたことがない。もっと略した「きく」なら聞いたことがある。
「出れたらいいですよね。でもオークスの結果次第ですね」
「ゆーまさん」
明るい調子で名前を呼ばれた
「はい」
「競馬はいいことばかりではありません。わるいことがおきた場合に備える必要があります。グレイスの時もそうでした」
「はい」
ソフィアさんが可愛がっていたグレイスフルウェイはもう競馬場で走ることはない。
「でも予想外に上手くいった場合にも備えておかなければいけないのが競馬です」
そう言う考え方もあるのか。これは日本人が、いや悠馬が悲観的なことだけを口にしやすいということなのかもしれない。
「なるほど。確かにオークスに勝ちました。でも先の事は何も考えていません、ではよくないですね。正直な話をすると菊花賞(京都:芝3000m)も狙っています。まあ本当に何もかもが上手くいけばですが」
「はい。それで良いと思います。そしてそのまま上手くいけば春のてんのうしょうですよね?」
「そうですね」
天皇賞(京都:芝3200m)は日本のGⅠの中では最長距離。ここもグランフェリスなら狙える。だが、こんな夢みたいな話ができるのもこの時期だけかもしれない。
「その後はどうするんですか?」
「その後ですか?」
「はい」
そんなキラキラした瞳で見つめないで欲しい。目が離せなくなる。その時悠馬はひとつ気が付いたことがある。今日のソフィアさんはメイクをしていないのではないかということに。
昨日と雰囲気が違う気がしたのは服装だけではない。肌の透明感、素のままの唇の色。馬に匂いを気つけさせないための配慮だろうか? 他に何か理由がある?
「僕の想像力ではそこまでで精一杯です。そこまで勝てれば道営記念に出してあげたいとは思いますが」
その飾り気を取っ払っても十二分に魅力的で、その反面無防備になった顔を見せる意味。やはり悠馬に見せるため? 考えすぎかもしれないけれど牧場での会話が頭から離れない。
『ゆーまさんにそう言ってもらえると、他のだれに言われるよりもうれしいです』
いやいや真面目に考えよう。
道営記念はホッカイドウ競馬では最高峰、H1のレース。でも距離は2000mで当然ながらダート。だから勝ち目はないかもしれないけれど、中央GⅠで勝てたのであれば、凱旋させたいと思う。悠馬はホッカイドウ競馬の馬主なのだから。
「どうえいきねんですか…………でも春のてんのうしょうからはだいぶ時間がありますよ」
春の天皇賞はだいたい5月の頭。道営記念は11月。地方競馬のプログラムまでソフィアさんの記憶に収められているようだ。




