3:ミルクの匂いのする部屋で、夏
神帝歴39年――オーリ4年
盛の月
夏であった。
世界の楽園、完全無欠のリゾート地クムズポートと距離はそれほど離れていないというのに、メカリアの首都ディジルドは過ごしやすいとは言えない。
さらにメカリアには魔法が得意な人間がロッソアほど多くはないため、暑さ対策は自然任せな部分が多い。
したがって、夏になるとロッソーナのほうが過ごしやすいと言える。
ただ、メカリア大聖堂自体は例外だ。俺の魔法で適温が保たれている。
いや、適温と言うか、適温よりはすこし暑い。俺はガンガンに冷やすのが好きだが、赤ん坊には冷たい風がよくないらしく(実際によくないのかどうかは知らないが)、それほど涼しくはできない。
動けば汗がにじむ程度のそれほど快適とは言えない温度に設定されている。
そのメカリア大聖堂に不似合いなミルクのニオイが充満している。
いちばん遅くやって来たヴォーディが、入るなりうっと声をあげ、すかさずにシーマに睨みつけられて黙った。
「えー、それでは、始めますね」とこういう場においては議長を務めることが多いトゥーリが口を開いた。
「ああ、そうしよう」と俺はミルクのニオイにまったく気づかない素振りであいづちを打つ。
睨まれたがゆえに文句を言い出しづらいが、やっぱりおかしいのは自分ではなくこの場にミルクのニオイがすることではないのかと言いたさそうなヴォーディは、助けを求めるような目で俺を見て来たがすまない、むしろこの場でもっとも居た堪れないのは俺だ。
ワイゼンはちょうど1歳になっていた。
正直に言って、このあたりのことはなんだか気恥ずかしいような気もするので避けたいと言えば避けたいが、この世界では遅くとも1歳半になるまでに離乳する。
長くてもあと半年しか授乳する機会はないという主張のもと、シーマは会議だろうとワイゼンを連れてくる。
エーヴィルももっと小さいころはべったりついていたが、いまではもう3歳になり、俺が冬に山で拾ったアーカナー族のソタルにそこそこなついてしまったため、シーマがいなくて泣くことは減った。
そもそもアーカナー族にソタルを返そうとしたら「1度も床に入っていないのに返されるなどアーカナーの恥」という辛辣な返答で、どうしようもないので悪いやつじゃなさそうだし、とりあえずロッソアにおいておくかということになって、ふと気づくとエーヴィルと遊んでくれていたというところからソタルはエーヴィルの世話係になったわけだが、どう見ても最近では俺よりソタルになついている。
シーマに対してはそんなことはないが、俺やイルがいても、ソタルの姿が見えないだけで泣き出すことすらある。
たぶん俺とソタルが並んでエーヴィルを呼んだら、迷わず我が息子は女をとる。
さすが我が息子! と褒めてやりたい気持ちが2%。父さんは悲しいという気持ちが98%。
つまり、実父も義父もぱっと出た地味少女にたかだか半年で敗北することだってある。よく覚えておくといい。
たしかに寂しい思いはさせていると思うのだが、比較的いっしょにいるイルすらソタルに負けているのだから、これはもうそういう問題ではなく、単に実父に似たのだろう。
まあ、ということがあって、エーヴィルは最近3歳にして(おもに父)親から離れつつある。
その寂しさからか、シーマはワイゼンに最近とくにべったりなのだろうと思う。
「まず旧ロッソア中央政権の処罰についてですが、ひと段落しましたのでご報告します」とトゥーリ。
つらつらと旧帝国の重臣や貴族のその後の経過を聞く。
ほとんどは左遷されたり、うまい具合に影響力を落とされたり、場合によっては処罰を受けたりしている。
旧帝国の重臣で出世したと言えるのはランパサールくらいだろう。
「ということで、ロッソアに関しては北伐を残すのみと言えそうです」
3年前の正式な建国からロッソア魔術国は北伐を除けば(まあ、除けないくらいに大問題なのだが)順当と言っていい。
イルギィスが事務仕事もそれなりにこなすために最近ではトゥーリに重要部分以外は部下を使ってうまく回せるようになってきていた。
有能で迷惑なデブがうまくサポートしてくれているのも大きい。
このままいけばすんなりとつぎの議題にいけそうだというところで、
「まあ、欲を言えばエーヴィル王子がもう少し民に支持されるといいんですが」とトゥーリがいつものうっかり失言をした。
世界の叡智はたしかによく物事を知っているが、知っているからと言って失言がないわけではもちろんない。
「なんですって?」とシーマが言った。「いったい3歳になにをお求めなのかしら、世界の叡智は」
ミルクの匂いと強い緊張。
じつに文学的だ。
この場にじつに文学的危機が訪れていると言っていいだろう。
でも、今回は俺じゃないし、正直至急逃げたい。
「あ、ああ、いえ。そうではなくて、もちろん王子はいい子なんですが、なにかエピソードのようなものがあればいいなと思っていて……ああ、そう。これはそうですね、私の仕事でしょう。ああ、うっかりしていた。私としたことが。さあ、がんばろう」と早口にまくしたててトゥーリはごまかした。
いや、ごまかそうとした。
シーマは納得いかない表情で、まだなにか言おうとしていて、まったく振り切れていない。
が。
「まんま」とワイゼン。
「あらー、ワイゼン。まあまよ」とシーマがワイゼンをあやす。
こいつ、できる。
唯一のことばのレパートリーに「まあま」をセレクトするあたりからして、ワイゼンはよく空気が読めると言っていい。
いや、わかる。
異論はわかる。
「まんま」。
つまりご飯を求めているのではないか、とそう聞こえる。
俺だってそう聞こえる。
だが、シーマはママを呼んでいるのだと言って聞かない。まあ、そう聞こえるような気もするかもしれないので、そういうことになっている。
彼はとても聡明なのだ。さすがメカリア神聖国王子。さすが息子。
「さて」とトゥーリは逃げ切ってやるという表情を見せ、次の議題へと音速で移った。
もちろん音より早く議題を移すということはできないので、音速を越えることはできない。
「目下のところの大問題は、メカリアの政治です」とトゥーリは言い切った。
去年できたメカリア神聖国の内政関連すべてを取り仕切っているのはトゥーリである。
だが、メカリア神聖国初代皇帝シューゼンはそんなことができるわけがない。
計画では2、3年のうちにトゥーリもヤポニアの王になる予定なのだが、いつまでもメカリアの政治面をすべて任せるわけにはいかない。
「そりゃ、わかるがね」とヴォーディが言った。「シューゼンはよくやっていると思うが」
「そうですね。概ね民の評判はよいと言えるでしょう。政治をしないことが影響しているのだと思いますよ」
「なら、いいだろう」
「もちろん。もともと内政を取り仕切れるとは思っていませんでした。そもそも今日だってもう1時間遅刻してますからね。あまりシューゼンには興味がないんでしょう」
「あー、遅刻はよくない。よくないぞ、遅刻は」と俺はとりあえず言った。
「あなたもよく遅刻するでしょ」とシーマが俺をスナイプする。
「まあ、夫婦でイチャつくのはあとにしろ」とヴォーディ。「とかくだな、メカリアじゃ司祭が政治までするのは好まれない」
ヴォーディはシューゼンと同じく、もともとメカリア出身であるため、このあたりの事情については俺より詳しいのはもちろん、ヤパニア生まれのトゥーリよりも詳しい。
いや、トゥーリより詳しいということはないのだが、それは知識をトゥーリのほうが持っているという話であって、信仰を持たないトゥーリには一切の宗教観が実感できない。
そのあたりはあまりヴォーディにはおもしろくはないようだった。
むしろシューゼン本人のほうがそういうひりつきからは自由なところにいた。
「それはわかっています。宗教の意味はわかりませんけれど、それが必要だということはわかっていますから、それで充分でしょう。私が国を治めるわけではありませんし、直近はとりあえず政治面をサポートするほうがいいでしょうね。ただ国の仕組みが変わった以上、ワイゼンが成人するころまでには、根本的にはなんとかしないといけませんが」とトゥーリは言った。
「そうか。ワイゼンが育つまでトゥーリがやるってことか?」とヴォーディ。
「まさか。さすがに私もそこまでは手が回りませんよ。一国というのはそれなりの雑務もありますし、政治ばかりしているわけにもいかない状況ですしね」
「つまり?」と俺は尋ねる。
「人材登用です。求める人材のハードルは高いですが、差し迫って、私以外が政治を一切回せないという状態は手っ取り早く解決します」
ぴくり、と反応したのは、俺とシーマだった。
「そおかァ、まあ、いいんじゃないかァ」と俺は言った。
なるほど単純な構造だ。
ひとがいないなら雇えばいいのだ。
仲間が増えることはもちろん喜ばしい事態と言えるだろう。
それも飛びきり有能で、とびきり――
「トゥーリ。まず雇用条件を男限定にしなさい」
「無茶を言わないでください。国で1、2位を争うくらいの有能な人材が欲しいんですよ。選択肢が半分になります」とトゥーリ。
「それでも」
「いや、待ってください。男女を考慮する必要がありません」
「じゃあ、いまなにか理由を作ろうかしら?」
「いや、あの……」とトゥーリは劣勢だ。
まずい、これでは人材登用が減る。
俺は必死になにか理由を考える。
面接官を外れるか? いや、それは本末転倒だ。
書類を盗み出す? いや、バレたら死ぬ。
もはやいっそ街でスカウトするか? いや、ありえない。合法的な出会いでなければカムフラージュできない。
なにか。
なにかあるはずだ!
考えろ、考えるんだ神帝オーリ。
と。
「まんまァ」とワイゼンが言った。
はいはい、とシーマはまたあやし、ミルクかしら? と言った。
だからそれは「まんま」であり、さっきからワイゼンはご飯を求めているのだ、とは言えなかった。
しかし、ちょっとミルクあげてくるわね、としぶしぶシーマが部屋から出て行く。
部屋から出て行くときにワイゼンがウインクしたような気がした。
まあ、100%気のせいだが。
ただ、こいつなら、それでも次男なら、と思うこともないわけではない。
なかなか整った顔をしているワイゼンは妙にカンがいい。
イケメンかどうかはまだわからないが、母ゆずりの美しい肌と、グレイの髪が特徴的な1歳児はなぜか俺を助けてくれるようなタイミングがたびたびある。
もちろん意図しているわけではないだろうが、ラッキースケベ系主人公の素質を感じずにはいられない。




