春雨の香り
ずっとほったらかしにしていてすみませんでした。
四月も下旬になると、朝の空気がもったりとしてくる。
夏ほど暑くはないけれど、春特有のやわらかさも、どこか湿って重たい。
今日も、雨だった。今のところ、登校日の十分の六が雨ってところだろうか。
雨の音で起きるから、逆に、晴れると寝坊するようになってしまった。
今日は雨のおかげで、ばっちり五時起床。
どうせ化粧とかしないし、寝坊してもいいんだけど。
それでも――学校は晴れてるのかな。
ここでどんなに雨が降ろうと、学校で雨が降ることはほとんどない。確率は……十分の一くらいだろうか。それもミストみたいにサラサラ降るタイプの雨で、傘をささなくても歩ける。でも、傘をささないと制服の肩がじっとり濡れて重く、気持ち悪い。
**
「体育、今日グラウンド無理じゃない?」
「やったー! 雨降ればいいのにって思ってたんだよね」
そんな声が、教室の後ろの方から聞こえる。
私は窓の外を見た。
灰色の空。
銀色に光る水滴が、いくつもの細い線になって、窓ガラスを飾っている。
「……降ってる」
「雫、なんか嬉しそうじゃん」
隣の席から雲雀が顔を覗き込んできた。
「別に」
「いやいや。今ちょっと笑ったよ?」
「笑ってない」
「笑ってたってー」
雲雀は楽しそうに笑う。
皆、どうせ体育がなくなったことが嬉しいだけだ。
雨自体が嬉しいわけじゃない。
ただ、こういう日は少しだけ安心する。
雨が降っている。いつもの私だ。
晴れていると、どうにも落ち着かない。
自分だけが取り残されているような気がするから。
「今日の体育、体育館で何するんだろ」
雲雀が窓の方を見ながら言う。
「柔軟とかじゃない」
「えー。私、体硬いんだよねぇ」
「何おばあちゃんみたいなこと言ってんの」
雲雀が机に突っ伏した。
私は窓の外を見る。
雨はさっきより少し強くなっていた。
もうすっかり花を落とした葉桜が、雨に体を揺らしている。
……あ。
そういえば、あそこ。
入学してから何度か見かけたことがある。
校庭の隅に、小さな花壇がある。
色とりどりの花が植えられていて、いつも誰かが水やりをしている。
雨で、花が散ってしまわないだろうか。
「雫?」
「……何でもない」
私は視線を戻した。
そのとき、教室の前方から声がした。
「環境委員の人、今日の昼休み、花壇のところ集合だって」
「雨なのに?」
「雨だからじゃない?」
「えー」
環境委員なんだろう、一人の男子が顔をしかめた。
周りにいた何人かが、その顔を笑う。
私は何となく、その会話を聞いていた。
環境委員。
男女一人ずつ、立候補で決まった。
男子はさっきの人だとして……女子は誰だったか覚えていない。
私は委員会に入らなかった。
そもそも、自分から何かをやりたいと思ったことがあまりない。
目立たないほうが楽だ。
やらなければ、失敗するわけがない。
失敗しなければ、嫌な思いもしない。
――雨女として、私はそれくらいがちょうどいい。
**
昼休み。
雨はまだ降っていた。
私は図書室へ行こうと、廊下を歩いていた。
雲雀は別の友達に呼ばれて、教室に残っている。
だから、一人。
別に寂しくない。
雨で校庭に出られず、体力が有り余っている男子の声が、階段まで響いていた。
私一人の足音は、その声にかき消される。
「……あれ?」
窓の外に、黄色い物体が見えた。
いや、人か。
傘を差す代わりに、黄色いレインコートを頭から被っている。
……何をしているんだろう。
よく見ると、花壇の前でしゃがみ込んでいる女子のようだった。
長い髪がレインコートから覗いている。雨の中でも黙々と作業をしていた。
私の足は止まっていた。
花壇なんて、普段なら気にも留めない。
でも、雨の中で一人だけ動いているその姿が、妙に気になった。
私は昇降口へ向かった。
傘を持って外に出る。
雨音が、一気に近くなった。
パシパシと屋根を叩く音。
土の匂い。
濡れた葉っぱの匂い。
私は花壇へ近づいた。
「あの……」
女子が顔を上げる。レインコートから、小麦色によく焼けた肌が出てきた。
「ん?」
「何してるんですか」
「見れば分かんだろー。草むしりだよ」
「……そうですか」
「そうだよ」
あっさりしている。
「雨なのに?」
「雨だから」
「……雨だから?」
「うん」
女子は雑草を一本抜いた。
「土が柔らかいから、抜きやすいんだよ」
「ああ……」
なるほど。
考えたこともなかった。
「雨の日って、植物には悪いことばっかりじゃないよ」
「そうなんですか?」
「もちろん。降りすぎたら困るけど」
そう言って、その子は花壇の奥を指差した。
「ほら」
そこには、細い葉がたくさんついた植物が植えられていた。
他の花よりもずっと地味で、薄緑色の葉は、雨の中ではくすんで見える。
「それは乾燥してるほうが好きなやつだ。後で屋根の下に持ってこうと思ってる」
――雨を避けるために。
「これ、何ですか?」
「ローズマリー」
「ローズマリー……」
「環境委員会で育ててんの」
私はしゃがみ込んだ。
近くで見ると、雨粒が葉先に溜まり、重そうに揺れていた。
「それ、香りがいいから料理に入れんだよ。家庭科部が使ったりするんだと」
「へぇ……」
私は植物に詳しくない。
花の名前だって、桜とチューリップとひまわりくらいしか分からない。
でも、この植物は少し気になった。
「香りがよく残るってんで、『記憶』とか『変わらぬ愛』って花言葉があるんだよ」
「はぁ、そうなんですね」
正直、あんまり花言葉とか興味ないんだけど…。この人は、よくこんなに知識があるな。
「見た目もいいだろ? こいつ、雨は苦手なくせに、『海の雫』って別名があんだよ」
「海の雫?」
「そ。元々海沿いの崖に生えてたらしくて。そんで、海の雫。まぁ、水滴が似合うわな」
私は、ローズマリーを見つめた。
細い葉。
そこに残った雨粒。
一滴。
また一滴。
雨が降っている。
なのに、その植物は雨に打たれながら、何でもない顔でそこにいる。
「……海の雫」
思わず、呟いた。
「どうした?」
「いえ」
私は首を振った。
自分の名前を思い出したから、なんて言えるわけがない。
雨森雫。
雨漏りの雫。
私はずっと、その名前を少し恨んでいる。
雨女なのも、この名前のせいだと思っていた。
でも。
海の雫。
そんな呼び方をする植物があるなんて。
「雨森……だっけ? 下の名前は雫だっけか」
「……え?」
驚いて顔を上げる。
「悪ぃ、人の名前覚えんの苦手なんだわ。雫であってる?」
「あ、はい」
「じゃ、シズちゃんだな」
どうしよう、私この人の名前わからない。
「俺、海原春香な。よろしくぅ」
「よ、よろしくお願いします、海原さん」
「ハルでいーよ」
「じゃあ……ハル」
「ん。いいね、カワイイ」
「か、可愛い⁉」
「俺、男子しか友達いないからさー。女子にハルって呼ばれんの新鮮だわー」
「は、はぁ」
うなばr……ハルは、雲雀とはまた別の、ガツガツ来る感じの人らしかった。
「環境委員じゃねぇのに花壇まで来る人、珍しいよなぁ。激レアだわ」
「そういえば、もう一人男子の環境委員いませんでしたか?」
「あぁ、サボり」
「そうですか……」
「どうせ仕事しないだろ、あいつ。だからシズちゃん、また来てよ」
「でも、私雨女だから、雨降っちゃうかも」
言ってから、少しだけ後悔した。
また言ってしまった。
こんなことを言うと、大抵の人は笑う。
冗談だと思われる。
あるいは、ちょっと変な子だと思われる。
でも彼女は笑わなかった。
「じゃあ、植物からしたらいい人じゃん」
「……え?」
「雨を連れてきてくれるんでしょ?」
「いや、でも……ローズマリーは雨苦手って……花も散っちゃうし」
「まぁ雨降ったら水やりしなくていいから、楽だけど。あんまり雨が強いってんなら、それを屋根作るとかしてどうにかするのが、環境委員のオシゴト」
彼女はローズマリーにそっと触れた。
「少なくとも、こいつらが水を嫌ってるわけないわな。多いとダメってだけで」
その言葉に、私は何も返せなかった。
雨は嫌われるものだと思っていた。
少なくとも、私はずっとそう思っていた。
雨が降るたび、誰かが困る。
傘が必要になったり。
桜が散ったり。
体育がなくなったり。
行事が延期になったり。
だから私は、雨を降らせる自分も嫌だった。
でも。
この子は違うらしい。
私は返事をしなかった。
できなかった。
ただ、ローズマリーを見ていた。
雨の中で、静かに揺れている。
海の雫。
記憶。
変わらぬ愛。
どれも、今の私には遠い言葉だった。
だけど――。
「……また来ます」
気づけば、そう言っていた。
**
教室に戻ると、雲雀が机に突っ伏していた。
「どこいってたの? 雫、図書室にいなかったじゃん」
「花壇」
「花壇?」
「環境委員の子と話してた」
「へぇー!」
雲雀が顔を上げる。
「どんな人?」
「……変な人」
「またまたぁ」
「雨の中で草むしりしてた」
「それは確かに変だねぇ」
雲雀が笑った。
私は席に座る。
窓の外を見る。
雨はまだ降っている。
でも。
さっきまでとは、少しだけ違って見えた。
雨粒が窓を流れていく。
その先には、校庭の端の花壇。
そこに、ローズマリーがある。
雨の中で、青々と葉を伸ばしている。
「……海の雫、か」
「何それ?」
「何でもない」
雲雀が見ていない方の口角が緩む。
雨の日に、雨以外のものを見つけたのは初めてだった。




