【幕間】コミカライズ コロナEX配信記念
コミカライズ配信記念の幕間ストーリーです。
本編、エルネスタが10歳で目覚めたそのあたり…。
【パンケーキに込めた声】
ある特別な朝のこと。ワクワクしながらヅィックラー男爵令嬢の部屋に入ったハンナは刮目した。
目の前にいるのはヅィックラー男爵の一人娘である少女だ。名をエルネスタという。彼女はいつも起こしに来るまでぐっすり眠っていて、顔を洗うのも着替えるのもハンナの手を借りずに行うことがない。
そんなエルネスタが寝間着を脱いで、もう昼用の衣服に着替えているのだ。これは驚くなという方が無理な話である。
しかしここで五人の子どもを育て上げたハンナの、野生の母性ともいえる勘が炸裂した。
――急に小さい子どもがやる気を見せたときは、何かやらかした贖罪である可能性高し。
ハンナは反射的に室内に鋭い視線を走らせた。
ベッド周り。おもらしの形跡ナシ。
ベッドサイド。零したりグラスを倒したりした形跡ナシ。
燭台、ランプ。割った形跡ナシ。
目視できる範囲に異常が無いことを確認したハンナは、次にエルネスタが寝ていたベッドに近づいてシーツを剥いだ。敷いたマットやそのほかの寝具には濡れた形跡はない。
概ね昨夜と変わったところはなく、エルネスタの「やらかし」は見つからない。
室内に異常が無いことを確認したハンナは、くるりとエルネスタに向き直った。
「エルネスタお嬢様!」
「……は、ハンナ? わ、ひさし……いえ、おはよう!」
部屋の扉を開けてからずっと無言だったハンナに、いきなり大きな声で呼ばれたエルネスタは驚いたように肩を震わせた。ハンナがこうやってエルネスタを呼ぶときはしかりつけたり注意をしたりするときだったから、余計に驚かせてしまったらしい。
が、それよりなによりハンナは飛び上がらんほどに喜んでいたのだ。肉付きの良い身体をばたばたと揺らしながら、エルネスタに向かって駆け寄る。
「さすがですお嬢様! 十歳におなりになっただけのことはあります!」
両腕を広げてハンナは少女を抱きしめた。エルネスタと呼ばれた少女の、銀色の細い髪がふわりと揺れてハンナの鼻先をくすぐる。
「え、えへへ……」
エルネスタは照れくさそうに、小さく笑った。
「一体どうされたんです? いつもはお寝坊なのに」
「ええっと、今ハンナも言ったじゃない。私、十歳になったのよ」
エルネスタが発した言葉に、今度はハンナがはっとした。
そうだ。今日はヅィックラー男爵令嬢エルネスタの十歳の誕生日なのである。
ついさっきまで、部屋に入るまでは覚えていたのに。エルネスタが目覚めたときにおめでとうと言ってやろうと思っていたのに、とハンナは歯噛みする。エルネスタが一人で着替えていたことに驚きすぎて、開口一番のおめでとう作戦が失敗していたのだ。
しかしそれよりこの成長ぶりである。これはぜひとも彼女の父母に知らせてやらねばなるまい。子煩悩な男爵と夫人の事だ。大喜びするだろう。そう思うと居ても立っても居られなくなる。
「素晴らしいですお嬢様。さすが男爵家のご令嬢。誰に言われるでもなくご自身でお仕度をしようとするなんて!」
「い、いやあ……それほどでも……。や、やろうと思えば私だって!」
「すぐに男爵と奥様に、お嬢様の成長ぶりをお伝えしなきゃ!」
「え!?」
さあ参りましょう、と言うとハンナはエルネスタの手を取って彼女の父母が待つ食堂へと急いだのだった。
十歳の誕生日を迎えてからというもの、エルネスタは毎朝ハンナの手を煩わせることなく身支度をするようになった。初めはたどたどしかったまとめ髪もすぐに上手くできるようになり、ハンナはその成長ぶりに手を叩いて喜んだ。
しかし、どうも様子がおかしかった。
エルネスタは基本的には大人しく賢い子だ。比較的情緒も安定していて、ハンナの子たちに比べれば格段に扱いやすい「手のかからない良い子」だった。
そんな彼女が最近隠れて泣いているらしい。ハンナに泣き顔を見せることはないが、朝に枕が湿っていたり、ふとした時に目が赤くなっていたりすることが増えたのだ。
また、急に本を読むようになった。以前から絵本はよく読んでいたが、近頃は男爵の書斎でちょっと難しい本をこっそり読んでいる姿を見ることが多くなった。貴族の子女にはつきものの家庭教師はいるが、まだそれほど難しい単語や言葉など知らないだろうに、ハンナが読めない分厚い本をめくっていることもある。
そして極めつけは、甘え方が控えめになったことだ。今までは何かあればすぐにハンナのスカートに飛びついてきたエルネスタが、十歳の誕生日の後からはそれをやらないようになっていた。感情表現が抑えられるようになったのか、それとも甘えることを止めたのかハンナには分からない。
何かあったのかと気になった。聞いてはみたいが、しかしこういう時もハンナの子どもを育てた経験がここはじっと我慢だと告げていた。年頃の子どもはたまに背伸びをしてみたくなるもので、それを大人に茶化されると途端にへそを曲げるものなのだ。
しかしずっと気になったまま放っておくのも心苦しい。何度目かに濡れた枕に気が付いたハンナは、こっそりと男爵夫人に相談をした。
「まあ、そんなことになっていたのね」
男爵夫人はハンナの報告に眉根を寄せた。ううん、と小さく唸りながら、夫人は目線を宙に彷徨わせる。そしてハンナの手を取ると、やや寂し気に微笑んだ。
「ごめんなさいね、ハンナ。私、子どもはエルネスタしかいないでしょう? 年頃の子どもに何をしてあげたらいいのか、あなたみたいに経験が無いから分からないの」
「では、奥様はお嬢様の歳の頃、周りに何をされたら嬉しかったか覚えてらっしゃいます?」
「そうねぇ……。あまり、構われたくはなかったかしら。うちにも子守の婆やがいたけれど、その婆やがうるさくて……。放っておいてって言っても声をかけてくるのが本当に嫌だったわ」
「まあまあ……」
「でも、何も言ってくれないとそれはそれで癪だったわね」
「奥様のようなご身分でも、私と同じように思われるんですねぇ」
ハンナも若い頃、母親にいろいろ口を出されるのが極端に嫌だったころがあった。思い出すと苦笑いしか出ないが、確か十二歳、三歳頃のことだ。ちょうど今の夫と知り合って、将来をどうしようかと考え始めた頃か。
しかし夫が体を壊しハンナが将来のことについて悩んでいた時、母は何も言わずに甘いものを出してくれたっけと思い出す。何があったとしても、この人は心配してくれる、気にしてくれると気づくとほっとした気持ちになったものだ。
同じように昔を懐かしんでいるのか、表情が柔らかくなった夫人はハンナに小さく頷いた。
「エルネスタは甘いものを食べながらおしゃべりするのが好きよね」
「そうですね、特に蜂蜜の入った柔らかいパンケーキがお好きです」
どうやら同じ考えに至ったらしい。夫人とハンナは顔を見合わせてにっこりと笑った。
夫人と相談をした数日後。またエルネスタの目が赤くなっていることに気が付いたハンナは、大急ぎで蜂蜜入りのパンケーキを焼いた。クリームを多めに乗せる大サービス品である。
「お嬢様、今日はお勉強を頑張ったご褒美ですよ」
「わ、あ……」
テーブルに着いたエルネスタは、パンケーキの皿を見て表情を輝かせた。
「ありがとう、ハンナ!」
「奥様がたまにはご褒美でも、と。ここのところお嬢様がとても頑張っておられることを喜んでらっしゃいましたが、頑張りすぎないようにとのことです」
「まあ、お母様が?」
ハンナを見上げていたエルネスタが、パンケーキにまた目を落とした。ふと浮かべた表情は照れているような嬉しそうな、そんな風に見えた。いつも見ているというメッセージは伝わっただろうか。
「ありがとう、ハンナ。お母様にも後でちゃんと御礼を言いに行くわ」
「それがようございますね。それはそうと――」
エルネスタの機嫌が良いことを見計らい、ハンナは尋ねてみたいことを口にすることにした。結局のところ、お嬢様の動向は気にしておきたいハンナの野次馬根性がむくむくと頭をもたげたのだ。
「最近お嬢様は何の本を読んでいらっしゃるんです?」
ハンナの問いにきょとんとしたエルネスタだったが、にっこりと笑ってスカートのポケットから何かを取り出した。
ほら、と目の前に突き出されたエルネスタの掌の上には、もぞもぞと動く赤茶色の物体が乗っている。ハンナはそれを見て絶句した。
「図鑑を見てさっきセミの幼虫を掘り出してみたの。もうじき羽化するから観察したくって!」
「お、お嬢様!?」
「いいでしょ、ハンナ」
可愛らしく許可を求めるエルネスタは、セミの幼虫を優しくなでている。可憐な少女の指先が得体のしれない虫に、と気が付いてしまったらだめだった。
次の瞬間、ヅィックラー邸にハンナの悲鳴が響き渡ったのだった。




