【幕間】コミカライズ配信記念おまけSS
長く更新できず申し訳ございません。
本編、割と思わせぶりなシーンで止まっておりますが、こちらコミカライズ配信記念の幕間SSです。
ノベル版をご覧いただいた方にはご存知のお名前も出てきます。
さてそろそろ寝る支度、と思っているとまるでその時を狙いすましたかのように母屋に通じる扉が控えめに叩かれた。
ああ、と私は読んでいた本にしおりを挟んだ。
こんな時間にアメリアが起きているわけもなく、ここへやってくる人物なんて一人しかいない。扉を開ければ案の定、仕事着であるジャケットも脱いでいない公爵がひょいと顔をのぞかせる。
「ちょっといいか?」
「いいも何も、もういらしてから言わないでくださいよ」
雇用主の「ちょっといいか」なんて断れるわけもない。うら若き未婚の女性の部屋へ、深夜たびたび訪れるのはいかがなものかと思うのだけれど、この屋敷の使用人達は何も言わないので困ったものだ。
グラッド夫人あたりは気が付いているだろうに、当主の行動を指摘しないあたり黙認しているんだろうか。
やれやれと思いながら来客を室内に通そうと扉から体を避けると、公爵からふわりといつもと違う匂いが漂ってきた。これは――煙草だろうか。臭い。
喫煙の習慣はなかったと思ったけれどと公爵を見れば、なにやら今日もぐったりとしているではないか。城での会議でも長引いたんだろうか。目の下にうっすらと浮かんだクマは、綺麗な公爵の顔に儚げな雰囲気の陰を作っていた。
「ちょっと、随分お疲れなお顔ですね。早く寝たほうがよろしいのでは?」
疲労には十分な休息が必要である。仕事帰りに寄り道せずに寝たほうがいいのに、公爵は私に向かって首を横に振った。そして片手に持った包みを目の前にかざす。
「まあまあ。今夜はちょっと手土産もあるんだ。お邪魔するよ」
「もう、そういうのはやめてくださいと……え、これお酒?」
また何か贈り物でも、と思ったら違った。細長い包みはお酒の瓶のようで、公爵がそれを揺らすとたぷんという液体の音がする。
「城でもらったんだ。旨いらしいぞ」
「大丈夫なんですか? その、万が一にも」
「議会で世話になっている議員の一人なんだ。最近帝国との貿易に関して相談に乗っていてね。この果実酒も取り扱いたいらしくてよく買っているんだと」
「ですから、その方は信用できるんですか? 万が一毒とか入っていたらシャレになりませんよ」
古今東西、政治的に邪魔な人間を殺すのは酒を使った毒殺が多い。暢気そうに私に包みを手渡す公爵にちょっと苛立ちながら尋ねれば、からからを公爵が声をあげて笑いだした。
「意外なところを気にするんだな、君は」
「そりゃ、王位継承順が繰り上がったんですから、公爵様が気にしなさすぎなのでは」
「大丈夫大丈夫。信頼できる人だよ。ほら、グラスを出してくれよ。味見しよう」
本当に気にしていないのだろう。相手はよほど信頼のおける方なのだろうか。私はそれ以上反論できる言葉が思い浮かばず、戸棚にしまったグラスを二つ取り出した。
卓に戻れば既に公爵は瓶を開けている。ふわっと鼻先に甘い香りが漂った。柑橘のものではない、もっと熟した濃厚な香りだ。
「へえ、いい色だな。香りはかなり甘ったるいが」
公爵は瓶の中身をグラスに注ぎながら、立ちのぼる香りに鼻をひくつかせている。ランプの灯りのせいか、注がれた液体は赤みが強いように見えた。葡萄のお酒だろうか。
ほら、と手渡されるまま受け取ったグラスに私は口を付け、そして驚いた。ほんのひと舐めで舌先がしびれるほどの甘さが口の中に広がったのだ。
これは蜂蜜がたっぷり使われているのだろうか。でも不思議なことにそれが不快ではない。試しに一口含みごくりと飲み込むと、鼻に抜けたのは爽やかな酸味のある香りである。
私は公爵の椅子の隣に腰かけ、もう一口液体を飲み込んだ。うん、美味しい。
「うわ、これは甘いですね。でも美味しい。井戸水で冷やしたらするする飲めてしまいまいそう」
なるほど、と公爵は頷いた。
「女性には好まれそうだ。君、酒は……って、もうグラスを空けたのか」
「え……あ、美味しくってつい……」
気が付くとグラスの中の液体はもうすっかり私のお腹の中だ。
「特に毒は入っていないようですね」
がっついてしまったようで恥ずかしく、照れ隠しで毒見をしたと言えば公爵はそれを分かっているかのようにくすくすと肩を揺らした。
「まだそんなこと気にしていたのか」
「だって、急な繰り上がりですもの。アルベルト様は国王陛下のご嫡男でいらっしゃいますし、この間の件に異議がある議員の方もいらっしゃるかもって」
「まあ、それは仕方ないな。でも今のところ、大伯母上の目もあるし議会の多数決で決まったことに、今すぐどうこう言われることはないだろう。俺が何か大きな失敗でもすれば分からんが」
「大きな失敗なんて、ご経験もないでしょうに」
公爵の空いたグラスにお代わりを注ごうと手を伸ばすと、不意にその手を止められた。
「何言ってるんだ。あるから今俺がここにいるんだろう」
「え……ああ」
ほんの少し寂し気な表情を浮かべた公爵にぴんとくる。彼の言葉が指していること――それは前世におけるあれのことだろう。
こちらとしては人生があそこで終わらず、巻き戻って良いようにやり直しているのであまり気に病まないでもらいたいものだけれど、公爵はそうではないらしい。
「今になって言うのもなんだが、その、君の話を聞かないまま思い込みでひどいことをしてしまってすまなかった」
「そうですねぇ。あれは心底恐ろしい出来事でした。十歳からことあるごとに夢で見て、そのたびに心臓が止まるかと……って冗談です冗談。まあ今となってはこちらで生きていけるので特に問題はって、ちょっと公爵様」
頭を下げた公爵に対しちょっとしたいたずら心を発揮してみたら、みるみるうちにしょげていく。私は慌てて彼のグラスに酒を注いだ。ついでに自分のグラスにもう一杯。そして再び冗談ですよと言いながらそれを煽る。
思いのほか酒の成分としては強いのか、かあっとお腹の奥が熱くなってきた。
「すまん……謝罪の言葉もない」
「冗談ですってば。誤解が解けた以上はもうお気になさらないでください。そりゃさすがに最初にお目にかかった時は驚きましたよ。冷酷な方としか知らなかったので何の魂胆かと」
おどけて肩を竦めて見せると、神妙な面持ちだった公爵の頬が少しだけ弛んだ。それを見て私もほっと胸をなでおろす。この人の苦しそうな表情を見るのは辛い。
責めたいわけじゃないし、本当にもう気にしていない。あの当時、いろいろな陰謀があって公爵自身も思い悩み、苦渋の決断をした挙句に命を落としたことは以前の答え合わせで分かっている。
生まれ変わってから十年以上ずっと贖罪のために一人奮闘していたのだから、もううしろめたさとかをあまり感じてほしくないのだ。生まれ変わったこっちの世界でさえ、妹君の婚約者の失脚や王位継承順の繰り上がりなど大変なことが盛りだくさんだというのに。
私は甘い果実酒をまた一口含んだ。蜂蜜を思わせる濃厚な甘みを舌先で転がしていると、丸々とした可愛い蜜蜂に感謝したくなる。しかし黄色い花粉を蓄えた愛らしい姿を想像し、次の瞬間私はぷっと吹き出してしまった。
「なんだ?」
訝し気に公爵が首を傾げる。その姿がまたある記憶をよみがえらせ、私はついにこらえきれずに笑いだしてしまった。むせてしまってけほけほと遠慮のない咳も出る。
激しく咳き込んだせいでおなかの中もぐつぐつとさらに熱くなってきた。
「おい、ちょっとエルネスタ。どうしたっていうんだ」
慌てたように隣に座っていた公爵が私の背をさすって顔を覗き込んできた。
「す、すみません、怖そうな方だと思っていたのに、その、蜂に驚いていらしたのを思い出して、おかしくて……」
何回か背をとんとんと叩かれ、咳が落ち着いた私は目の端ににじんだ涙を拭う。急に咳こんだ理由が分かると途端に公爵の表情が憮然としたものに変わるが、子どものように唇を尖らせる姿すらもうおかしい。
「忘れてくれ……あれは不意を突かれすぎただけだ」
「驚いたお顔と普段のお顔の様子が違いすぎて、もうおかしいったら」
「こっちも驚いたんだぞ。論文には目を通していたが、あれほど虫に頓着がないとは思わなかった。意外な顔を見せてもらったと思った……あ」
「なんです?」
「いや、あの時、そういえばアルベルトが来たなと思い出してな」
じろりと公爵が私を睨んだ。いつもならしまったと思うところだけれど、今夜はどうにもそれが可愛らしく見えてしまうから困った。
唇は尖らせたままでどこか拗ねているような声音は少年のようだ。あの「冷酷」と思った彼とはまるで別人みたいに感じられる。一つばかりとはいえ年上の、成人男性に向かって可愛らしいとか、少年のようとか、失礼な気もするけどしょうがない。
だって可愛い。
公爵様、と私は彼の顔を下から覗き込んだ。グラスに口を付けていた公爵は、私と目が合うとぷいっと顔をそむけてしまう。眉根が寄り、機嫌が悪そうだ。よおし、それならと悪戯心が沸き上がる。それを抑えられなかったのは、酒のせいか、それとも夜の雰囲気か分からない。
でも、ちょっと言いたくなっちゃったのだ。いつも困らせられてばっかりだもの。このくらい。
「――妬いてるんですか?」
ぽいっと放った言葉に、今度は公爵がむせる番だった。ごふっと盛大にむせ込んだ公爵は耳まで真っ赤になって口元を手の甲で拭う。
咳で飛散した果実酒が、濃厚な甘い香りの粒となって辺りを漂った。
普段は見られない公爵の泡を食った様子が面白くて、可愛らしくて、不思議な高揚感に包まれる。
「な、何を言ってるんだ、そんなわけないだろ!」
「あー、図星ですねー。ふふっ」
私は部屋着のポケットに入っていたハンカチを出して、むせた公爵の口元を拭った。きめの細かい肌に乗った形の良い、薄い唇は、間近に見ると艶めいていて朝露を纏った花のように可愛い。
男の人なのになぁ……。なんで今夜はこんなに可愛く見えてしまうんだろう。
ぼんやりと公爵の唇を見つめていた私は、吸い寄せられるようにそこへ顔を寄せた。
「ちょ! エルネ――」
最後に聞こえたのは、驚きを隠そうともしない公爵の声だった。目の前が暗くなり、次の瞬間ふわりと柔らかくあたたかい感触が唇に伝わる。
あれ?
はっとして目を瞬かせると、私の視界いっぱいに真っ赤になった公爵の顔が広がっていたのだった。
ご覧いただきありがとうございました。
今後ともノベル版・コミカライズ版もあわせてよろしくお願いいたします。




