7-8
やってやる。
不思議とナイフを握った拳から、じんわりと力が沸いてくるようだった。
あの、後藤をやった時もそうだった。
武井崎がその時を思い出す。
足を刺した瞬間、相手から力が抜けて絶望の表情に替わる瞬間。
圧倒的な優位者を服従させ為すがままとさせた瞬間の、迸るような快感。
思い出すだけで口元に、目に、なぜか不自然な笑みが浮かぶ。
達成感、支配感。
それを、こいつで、もう一度。
「ははは、分かったみたいだね、自分の『目的』が。
くはははは!
あぁ、いい顔!」
武井崎の顔を覗き込むようにして、影は愉快そうに首を傾げて笑う。
影がわざわざそう仕向けたのは、余裕なのだろうか。
うす気味の悪いものを感じながらも、武井崎はナイフを腰元で構えて影との距離を計る。
武井崎のリーチからして、勢いをつけて飛べば一歩で届く距離だ。
影は相変わらず子供のような笑みを浮かべて佇んでいる。
何を考えているのかわからない。
ならばそれをわざわざ待ってやるつもりはない。
武井崎は勢いをつけて影の懐に飛び込む。
狙いは相手の胸元。
「おらっ!」
確実に捉えた。
ナイフの切っ先が触れるまでは、完全にそこにいた。
しかし彼の手にかすめたのは冷たいレインコートの裾だった。
勢い余って前方に一・二歩とつんのめる。
「この野郎!」
黒い影を武井崎が目で追いかける。
先ほどと同じ距離を保って、影は同じように佇んでいた。
ナイフを逆手に持ち、武井崎は勢いに乗せて再び襲い掛かる。
しかし相手の肩口目がけて振り下ろした刃先は、やはりレインコートの表面をかすめるだけだった。
「くははっはははは!
あぁぁ、たまんないなぁ、その目!
その顔、その声!
待った甲斐があったよ、『Ripper』!!」
苦もなく後方に飛び刃を避けた影は、武井崎を口説くように自分の胸元を鷲掴んでため息をつく。
薄く開いた唇から覗く舌が、ごくりと喉を鳴らすほどに凄艶であった。
影は、その舌で薄いピンク色の唇を舐める。
「どうしたの、早く来てよ!
ほぉら、ほらほら、やりたいんでしょう?
お前の好きなようにしていいんだよ。
お前の思うように、お前がしてきたように、脅して殴って跪かせて犯して刺して斬って斬って斬り刻んでみせろよ、『Ripper』!」
「あぁあああ、うるせぇええっ!」
浮かされたような脳に絡む甘い音調が、武井崎の脳に絡みつく。
それを振りほどくように武井崎がナイフをもう一度順手に持ち替え、真正面からぶつかるように襲う。
渾身の力を込めた一撃。
その攻撃を影は避けられなかった。
「くははは!!
はははっははははは!
はい、残念」
だがナイフの刃は影の腹の数ミリ前で、壁にぶつかったように動かない。
ギリっと金属同士が擦れる音と一緒に、息が届くほど目の前で濡れた唇が綺麗に揺れる。
武井崎のナイフの刃は、同じようにナイフの刃によって止められていた。
影が胸の前で祈るように両手で握っていたのは、大理石か象牙か、場違いなほどに艶やかな白い柄を持つサバイバルナイフだった。
武井崎のナイフを止めていたのは、柄でもブレードでも無い。
その切っ先はまるで吸い込まれるように、ピタリと爪の先よりも鋭く細いエッジ部分に接触して止まっていた。
ギリギリと力を入れるたびに武井崎の刃は揺れる。
ほんの僅か力がずれるだけで、その刃は影に届くのに。
一体どうなっているのか。
武井崎の刃はどうしても影には届かない。
目を見開き唖然とする武井崎に口の端を上げて笑いかけると、影はナイフを振り払うように真っ直ぐ上に自分のナイフを鋭く突き上げる。
手の平から抜けて宙で弧を描く自分のナイフを、まるで他人事のように武井崎が目で送るしか無かった。
だが、影の行動は終わらない。
頭上に掲げた白いナイフは、即座に垂直に振り下ろされた。
「ぐぁあっ!!」
武井崎の右大腿部に、躊躇もなくその刃は突き刺さる。
冷たいものが自分の体を貫く感触が、激痛となって彼を襲う。
影は苦もなくナイフ引き抜くと、右足をかばおうとして身を丸めた彼の、更に左の外側の下腿部を真横に薙ぐ。
流れるように鮮やかな動きだった。
「うぐ!」
重なる鋭い痛撃に、武井崎の体が尻から地面に落ちる。
身をかばうために丸めようとした武井崎の体は、真正面から顔を鷲掴みにされて、後頭部からコンクリートに叩き付けられる。
もはや声すら出なかった。
痛さと恐怖、そして重く薄ら寒い独特の空気が、先ほどの高揚を侵食していく。
まるで、雨の降る道に転がされているようだった。
顔を掴んでいた手がどかされる。
愉しそうな顔が覗きこむように見下ろしながら、武井崎の腹の上に馬乗りになる。
その体は驚くほどに軽い。
相対して分かったが、武井崎との対角差は明確だった。
だが影はその差を物ともしない圧倒的な力を持っていた。
激痛に支配された彼の両足は、もう動かせない。
じわじわと溢れる血液が革のパンツを濡らしていく。
それが冷たいのか温かいのか、彼には分からなかった。
だが、投げ出された両の手はまだ動く。
不意打ちを狙って、武井崎は影の顔面を右手で横殴りしようとする。
しかし。
「ぐぅううっ!」
それより早く、右肩の少し下の腕を床に縫い付けるようにして垂直にナイフが通る。
躊躇も予告もないその痛みに、武井崎が目を剥く。
それを見下ろす顔は、愉悦極まりないという風に口を歪ませた。
「……ろす!
殺して、やる」
武井崎が、喉から絞り出す。
彼の口の端からは悲鳴とともに溢れた涎と泡で、目の端からは痛みとともに吹き出した涙で濡れている。
悪あがきにもならないその声に、影はきょとんとする。
そして耐え切れないように、声を上げて笑った。
「殺す? 殺すの?
くははははっ! はは! あはは!
殺す? どうやって? どうやって死人を殺すの?
くははははは!
ねぇ教えてよ、ねぇ、あははは!」
子供のように腹を抱えて身を捩って、影はけらけらと声を上げる。
死人?
意味はわからなかった。
しかし武井崎には、なぜか納得できてしまう。
この雰囲気。空気。
そうか、死人か。
その言葉で全て、この話も意思も通じない異形を体現できる気がした。
ゆっくりと、その刃の冷たい動きを認識させるように、ずるりと武井崎の肩からナイフが抜かれる。
もはや、抵抗する気も失せていた。
きっとこいつは人間ではない。
抵抗など無駄だった。
悪あがきの言葉ひとつ、もはや彼の喉からは出てこない。
殺されるのか。ここで。
影は首元にナイフを置く。
だが切り裂かれたのは、武井崎が着ていたTシャツだ。
布が裂かれていくその先には、先ほどまでナイフが埋まっていた右肩の傷がある。
心臓の動きに合わせて肉の割れ目から赤い血液が流れ出し、コンクリートに血だまりを作る。
それを見て満足そうに影はほほ笑み、武井崎に折り重なるように上体を沈めた。
「ぅあ……」
むき出しになったその傷に、影は顔を埋める。
雨に濡れた冷たいレインコートが武井崎の頬に当たった。
はぁ、という影の熱い吐息の後で、ぬるりとした生々しい舌の感触が、武井崎の傷を抉るようにして撫ぜる。
痛いはずなのに、なぜか体中が痺れるような快感を武井崎は覚えた。
「あぁ、暖かい……」
恍惚とした声が、武井崎の鼓膜を緩く振動させる。
影の舌は血液を纏ったまま、鎖骨を通り、首筋に達する。
「ずっとお前を待ってた。
ずっと、ずっとずっと、ずっと。
暖かくて鮮やかな世界。
ずっとお前を待ってた。会いたかった。
本当に、本当に会いたかったんだ」
耳元でうっとりと吐かれた言葉は、恐怖と痛みで麻痺した武井崎の脳みそを甘く蕩かす。
柔らかい息が、彼の耳元をくすぐる。
そしてその頸動脈の温度を確かめるように、冷たい頬がひたりと寄り添う。
暖かい?
鮮やか?
一体どこが。
しかしその疑問を考える思考力も、口に出す力も武井崎にはない。
彼の麻痺した左手に、違和感を感じる。
何かが這っていた。
白い柄。
感触を確かめるように、影は黒い革手袋でナイフの刃をつまんで、柄で左手を弄んでいた。
あぁそういうことか。
ここにきて武井崎はやっと影が何なのかに、思い至った。
驚きはしない。
むしろなぜ今まで気づかなかったのか。
はじめに右足。
そして左足。
さらに右手。
そして次は、おそらく左手。
この街の切り裂き魔について教えてもらった時に、そいつの特徴は聞いていた。
四肢を抉り、脳を切り取る。
「『青い蝶』……」
言葉を拒否していた彼の喉が、自然とその名前を告げた。
『BlueButterfly』――畑山のように姑息で軽薄な切り裂き魔ではない。
正真正銘、本物の怪物。
この街で最もイカれたシリアルキラー。
その言葉に影、『青い蝶』はゆっくりと身を起こす。
冷たい雨の匂いが、武井崎の鼻をかすめた。
身を上げた『青い蝶』は、気味が悪いくらい白かった喉元を真っ赤に染めて、ふわりと笑う。
冷たくて柔らかくて軽くて重くて残忍で。
様々な矛盾を全て含む笑い方は、間違いなく蝶のように艶やかだった。
『青い蝶』がレインコートのポケットから小さな小瓶を摘み取る。
親指ほどのガラスの中に、濁った液体が鈍く揺らぐ。
片手でその蓋を開けると、口づけでもするように『青い蝶』は武井崎の顎を人差し指で持ち上げ、そしてゆっくりと瓶の中身を彼の口内に流し込む。
血に濡れた武井崎の舌に味など分かるはずもないのに、なぜかは彼には、それが蜜のように甘ったるく感じられた。
そうするのが当たり前だというように、彼の喉は抵抗すらせずに、それを音を立てて飲み込む。
『青い蝶』はよくできました、という風に、口の端から零れた液体を親指で優しく拭い、微笑む。
視界が悪くなる武井崎の上で、『青い蝶』が左手に持ったナイフを革手袋の手の平で滑らせ、白柄を握る。
頭上に掲げたナイフの先を見ても、逃げたり足掻こうなどという気は、武井崎にはなかった。
意味が無い。
「ねぇ、約束だよ。
『青い蝶に磔にされた』って、あいつにちゃんと伝えてね?」
革の手袋を纏った指が、愛おしそうに武井崎の頬を撫でた。
その鈍く光る切っ先を、武井崎は霞み始めた視界で捉える。
揺らぐ視界の中、ナイフで反射した光が、一瞬だけレインコートの中を映す。
あぁ、と思わずため息が吐出される。
この世界に、こんな美しいものがあるのか。
血に濡れた怪物の姿をみて、武井崎は最期にそう思った。
そして振り下ろされたナイフを、切り裂き魔『Ripper』は当然のように受け入れた。




