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6-11

「っはぁ、はぁ、はぁ……」


 アパートの鉄の階段を、ガンガンと音を立てて駆け上がる。

 リクの耳には自分の喉から出る息の音が、雨音に混じって聞こえた。

 酸素の薄まった脳が、灰色の世界をさらに白くにじませる。

 息を切らせて階段を上り終えると、何度か足を滑らせながらハルの部屋の前まで走る。


「か、鍵、えっと、えっと……」


 ポケットを探って震える指で部屋の鍵を取り出して何度か失敗しながら捻り、急いで扉を開けて中に滑りこむ。

 背中でドアが閉まる音を聞くとリクは雨で濡れた背中を扉に預け、そのまま滑り落ちるように玄関にしゃがみ込む。

 冷たい鉄の扉よりも、リク自身の背中の方が冷たかった。


「……はぁ」


 肺の底から冷えきっていた。

 雨のせいだけではない。


 あの眼。

 マガミの眼を見てしまったからだ。


 兄を探してはいたが、見つけたのは偶然だった。

 人気のない路地裏を風のように駆け抜けるハルの姿を目の端で見とめ、その後に何度か破壊音が聞こえた。

 これはただ事ではないと慌てて音の方に駆けて行った先が、幽霊団地だった。

 そこでマガミに壁に貼り付けられるようにして締め上げられ体の力が抜けきった兄の姿を見て、リクの中で何かが外れた。


 その後のことはあまり覚えていない。

 助けなきゃ、逃がさなきゃ、触らせない、もう二度と奪わせない。


 気付いたら、マガミの大きな身体が血を流して地面に伏せていた。

 冷静ではない頭でも、自分が相手に重傷を負わせたのは理解できた。


 それなのに。

 平気な顔をしてあの男は立ち上がり、獰猛な獣の眼をリクに向けた。


 真正面から見据えられた時、息が止まった。

 手も足も感覚全てがそこに釘付けされたようだった。

 幼いころに誤って道路に飛び出て、気づいたら横に迫っていた車に轢かれそうになったことがある。

 あの時の感情と酷似していた。


 リクはぶるりと身を震わせ、両手で自分を抱きしめるようにして蹲る。

 なぜマガミが『王』と呼ばれるのか、リクはあの一瞬、本能で理解した。

 あれは、人間なんかじゃない。


「……兄貴」


 兄は無事だろうか。

 あれを間近にして、無事でいるとは思えない。

 だが、リクは逃げてきてしまった。

 ブロックの塊を投げた時に擦り切れたのだろうか、リクの手の平に血がにじんでいた。

 その赤を握りつぶすようにして、リクは拳に力を入れる。


「兄貴、兄貴、ごめん。

 ……俺は、また」


 リクが両手で顔を覆う。


「……?」


 雨水で濡れた顔を拭うようにして呟き、その言葉にはっとして動きが止まる。

 自分の言葉に違和感があった。


「……『また』?」


 『また』、何だ?

 未だ混乱している頭に問いかける。

 しかし上手くいかず、深呼吸して落ち着けてみるが、その先の答えは返ってこなかった。


 ぱたり、と髪から水滴が玄関の石のタイルに落ちる。

 それが溝を伝って広がっていく。


「!?」


 目で追ううちに、それが赤くなった。

 そんなはずはない。

 頭では分かっているのに、それはやはり赤かった。


 ぐらりと視界が暗くなり、耳に雨音が響く。


 確か以前も、同じことがあった。

 あの時、廃工場の時と同じ幻覚がリクを襲う。


 雨の音と匂い。

 恐怖。

 血の匂い。


 あの時と同じ状況が、リクの時間と感覚を無理やり過去に引き戻す。

 四年前、リクが家族を失ったあの日。

 『ジャック』による、最後の切り裂き事件。


 急激な暗転と身体から感情を引き剥がされるような感覚に、軋み痛む頭を両手で鷲掴む。


「う、ぐぅ……っ!」


 これは現実ではない。

 自分の妄想だ。

 しっかりしろ。


 リクはそう自分に言い聞かせるが、一度始まった幻覚は止まらない。

 雨水に混じって浮いた脂汗がリクの鼻の先から落ちる。

 それも玄関の床に落ちる頃には赤くなっていた。


 赤い。

 全部、赤い。

 雨の音。

 血の匂い。


「……俺、は」


 なぜそれを知っているのか。


 だが彼が思い出そうとすると、鈍くしびれるような痛みが返ってくる。 

 爪を立てるようにしてそれに耐えるが、絶え間なく襲う痛みの波に、滲んだ涙が頬を伝う。

 

 いやだ。

 痛い。

 苦しい。

 見たくない。

 もう、見たくない! 


 その時だった。


「思い出さなくていいんだよ」


 背中を押し付けていたドアの向こうから、子供の声が聞こえた。


「……?」


 痛みと混乱で何重もの霧がかかったような思考の中に、優しく滑りこむようにその声はリクに届く。

 廃工場で気を失った時に聞こえたものと同じだ。

 幻聴。

 そこに『有り得ない』声。


 思わず涙目でリクは振り向くが、そこには冷たい扉しかなかった。

 これは現実ではない。

 妄想の声だ。


 分かっていたのに、リクはその声の続きを縋るように期待してしまう。

 それに応えるかのように、幻の声は続ける。


「思い出さなくていいんだよ。

 だって、ずっと、物置にいたんだろ?」

 

 その声が吸い取っていくように、リクの体に広がっていた痛みが引いていく。

 熱した鉄を水で包むようにして、不可解な痛みが拡散し、同時に安堵感で満ちていく。


 そうだ。

 思い出す必要なんてないんだ。

 だってあの日、俺は物置にずっといたから。

 だから、何も知らない。

 血の色も、血の匂いも、何も知らない。

 何も、見ていない。


「いい子だね、リク。

 そのまま、全部忘れちゃえばいいんだよ」


 扉の外から聞こえる声は優しくリクに告げる。

 扉に手を当てると、冷たいはずの鉄が、そこだけ温かいように感じた。

 温もりを求めるように、リクが両手と額を付ける。

 痛みと苦しみが、ぼんやりとした安らぎに変わっていく。


「……思い出さなくて、いい?

 俺、このままで、いいの?」

「そう。思い出さなくていいの。

 もう大丈夫だから」

「……うん」


 安堵で涙が再び溢れる。

 もう苦しまなくていいんだと、自分を納得させる。


 いや、納得させたつもりだった。

 だが、リクの耳には相変わらず振り続ける雨音が響いている。

 その音が、和らいだ思考を掻き立てる。

 麻酔のように麻痺していく思考の中で、唯一雨音だけがその言葉を否定していた。


「……っ!?」


 ズキリと鈍く痛んだ右目の傷が、混乱と安寧の間に一筋の冷静な光を投げる。

 心の奥で、それじゃ駄目だと誰かが叫んでいるようだった。


「本当に? それでいいの?」

「もう、大丈夫。

 ……大丈夫だから」


 扉の外から聞こえる声はただ、そう答える。


 でもなぜだろう。

 その声は、どこか震えているようだった。

 いや、今までもそうだったかもしれない。


「リク、約束だよ。

 お前はここにいて、何も覚えていないんだ。

 全部忘れて、ね?」


 怯えるリクをなだめるように、その声は優しくて温かかった。

 だが、雨音で冷静になった頭で聞いたその声は、リク自身と同じく怯えているようにさえ感じた。

 それを隠すようにして、その声は、ただただリクを落ち着かせようとする。


 それはなぜか。

 それは誰か。

 そんなことをするのは、一人しかいなかった。


 あの日。

 四年前の雨の日。

 物置の扉を挟んで外にいた、たった一人の兄弟。

 

 きぃ……。


 リクの触れていた鉄の扉が、わずかに振動する。

 その振動で、リクはあの事件の日から現実に引き戻される。

 幻覚と幻聴と妄想が終わる。


 もう扉からあの声は聞こえない。

 その代わり扉の向こうには、あの日から待っていた人物がいる。


 ぎぎ、と鈍い鉄の音を立てながら扉が開く。


「リク?」


 扉の隙間から、小さな影がのぞく。

 その先には、リクの状態を見て目を見開くハルが立っていた。

 今現在の兄。

 だがリクの目には、その姿が四年前の兄と被って映る。

 その声も、四年前の兄の声と被って聞こえた。


「お前、だ、大丈夫か?

 なんかすごい顔してるけど、どうした?

 怪我でもしたか?」


 雨と汗と涙でぐしゃぐしゃになったリクの顔を長い袖で拭いながら、ハルが玄関に入ってくる。

 しゃがみ込んでいたリクに合わせるようにして膝を折り、雨のせいかいつもより青ざめた顔でリクの顔を覗き込む。


「……あにき」

「うん?」

「兄貴」

「ん。どうした?」


 リクが縋るように兄の両腕に手を置き、自分より低くなってしまった彼の肩に額を乗せる。


 間違いない。

 抑揚を失い、言葉遣いはだいぶ変わってしまった。

 だが、事件を思い出して苦痛を味わうたびに助けてくれた温かい幻聴の声は、間違いなく兄のものだった。

 優しく頭に乗せられた手も、四年前まで当然のようにあったものだ。


「大丈夫だよ、リク。

 あの野郎、もうお前のこと追っかけてこねぇから。

 俺がよぅく言い聞かせておいてやったからな」


 ハルはどうやら、リクの恐慌状態はマガミに襲われかけたことが原因と思ったらしい。

 彼は小さな体でリクを支えるようにして、背中に手を回してなだめるようにぽんぽんと軽く叩く。

 相変わらず抑揚はなかったが、その口調はどこか軽かった。

 おそらくリクを安心させるために、ハルはわざとそうしているのだろう。

 それが分かって、リクは更に溢れた涙を抑えるようにして唇を噛む。


「お前ってたまに無茶するよなぁ。

 あんなもん投げるなんて、マガミだったから良かったものの、普通だったら死んでいたぞ。

 まぁマガミだったいいけどな、全然。

 むしろ良かった、マガミだし。


 でもちょっと兄ちゃん、びっくりしたぞ。

 もうやめろよ? ああいうの」


 同じような口調で落ち着かせるハルに、顔を肩に押し付けたまま何度かリクが頷く。

 昔の兄の言い方のままだった。

 再びなくしてしまわないように、リクが両腕に力を込める。


「なぁ兄貴」

「ん?」


 リクが涙で掠れた声で呼ぶと、四年前のままの声が返ってくる。


 そんな彼に聞くのは、間違いだろうか?

 だがリクには、このまま何もなかったことにはできなかった。

 躊躇いながらも意を決して、リクは声に出す。


「……どうして俺に、『思い出すな』なんて言ったの?」

「!」


 びくりとハルの方が少しだけ揺れる。

 動揺とも取れる仕草に、リクは確信した。


 思い出すな。

 忘れてしまえ。

 あの日、リクにそう言って聞かせたのは、間違いなくハルだ。


「俺、思い出したよ、兄貴」

「……事件のことを、か」


 その声は、低く、そして冷たいいつものハルのものだ。

 だが、何かを抑えるように、どこか掠れていた。


「ううん。

 思い出せないことを、思い出した。

 兄貴が言ったんだ。

 『物置にずっといた』『だから思い出せない』『思い出せないから大丈夫だ』。

 全部、あの日、あの場所で、兄貴が俺に言った。


 だから俺は……未だに何も思い出せない」


 リクにとって兄は絶対だった。

 生まれてから十年以上に及ぶ信頼は、リク自身の意思以上に絶対の指標となっていた。

 その兄が、言い聞かせた。まるで暗示をかけるかのように。


 だから何も思い出せない。


 リクはずっと、自分だけが事件のことを忘れて平穏としていたことに対して、ハルが憤りを感じていると思っていた。

 自分たち兄弟が疎遠になってしまったのは、それが原因だと思い込んでいた。


 だが真実はそうではない。

 なぜなら忘れさせたのは、ハル自身なのだから。


 ハルはなだめていた手を止めて、思考を巡らすようにして押し黙った。

 それがその証拠だ。


「なぁ兄貴、言ってくれよ。

 『思い出せ』って、それだけ。

 それだけ言ってくれれば、俺はあの時のことを思い出せるんだ」


「………」


 鍵をかけたのがハルならば、それを開けるのも、ハルだ。

 あの時と同じように、ただ言ってくれればいい。

 だが、ハルは何も言わない。


「言えよ、兄貴!

 俺はもう子供じゃないんだ! 

 事件のことだって、ちゃんと受け止められる!

 言えよ!」


 リクが肩から顔を離し、真正面からハルを見る。

 だがその視線が、俯いたハルの視線とぶつかることはなかった。

 ハルが静かに口を開く。


「お前はあの事件の時、物置にいた。

 だから何も知らない、何も覚えていない。

 ……それが全てだ」

 

 兄の言葉にリクはかぶりを振る。


「じゃあなんで俺は物置の外で、兄貴の傍で保護された?

 なんで目に傷がある? 

 俺が物置じゃなくて、その外に、兄貴の傍にいたからだろ!

 俺は、兄貴と同じことを全て知ってるはずだ!

 なぁ、そうだろ!?」


 リクが扉に押し付けるようにして小さな体を掴んで叫ぶように言うが、ハルは目線を下に落として唇を噤む。

 ハルの青白い顔が更に青くなり、軽く噛んだ唇は、微かに震えているように見えた。

 怯えているのか後悔しているのか、唇を結んで俯くその表情から読み取れなかった。


「兄貴、答えろよ!

 ……答えてくれよ」


 あの時の、四年前と同じように自分に対して扉を閉ざすハルに縋る。

 温度の感じられない頬から滑り落ちる水滴が揺さぶられて落ちるのを、ハルは黙って見ていた。

 その拒絶が、リクには一番怖いものだった。


「俺、やだよ。

 あの事件のせいで、俺は全部失くしたのに、俺はそれを覚えてないんだ。

 その原因がわからないから、俺は、怖い。

 ……もうやだ、やだよ、兄貴」

「……ないだろ」

「え?」


 俯いたハルの口から息とともに小さな声が漏れる。

 聞き返したリクの目を、顎を軽く上げたハルの静かな視線が捉える。

 冷たさも温かさもない、無機質な温度を底に湛えていた。


「全て失ってなんてないだろ。

 お前には家族がいる」


 叔父と叔母、そして従兄弟。

 リクが何の躊躇いもなく、母と父、そして兄と呼べる人たち。

 彼らのことを言っているのだろう。

 その言葉の真意を、リクが図りかねて視線を落として返す。


「あんな事件があったのに、お前は前に進み、家族を手に入れた。

 今更、何を怖がる必要がある。

 なぜ今になって、わざわざその幸せを壊すようなことを知りたがるんだ」

「俺は……」

「俺に引け目でも感じてるのか。

 だったらそんな必要はない。

 わざわざ自分を苦しめるような事をするな。

 お前は、『そこ』にいていいんだ」


 引け目が無いといえば嘘になる。

 だがそれだけではない。


「俺は、知りたいんだ。

 俺が知るべきだった、兄貴の痛みや苦しみを。

 全部知って、一緒に兄貴と進みたい」

「必要ない」


 リクの言葉を、ハルが首を振って否定する。

 まるでリク自身を否定されたような気がして、新しい涙が彼の目に浮かぶ。


「俺は、いらないってこと?」


 リクの反応に、一瞬ハルがぎょっとして、呆れたように首を振る。


「逆だ馬鹿。

 今のお前に、俺は必要ないって言ってるんだ。

 お前の新しい家族と生活に、俺は必要ない。

 現に俺がいなくても、お前はこの四年間生きてこれただろう。

 自分を守る術を身につけて、俺より背も高くなって、心を落ち着けられる場所を手に入れた」

「そのことと、兄貴が必要ないなんてことは、関係ないだろ」


 この四年、ハルは一度も保護者となった叔母の家には戻らなかった。

 リクが当然のように享受した安寧から、彼は背を向けるようにして離れていった。

 別の人生を歩み始め、二度と交わらないと言われているようで、リクが唇を噛む。


「お前は言ったよな。俺が変わった、と」

「……うん」


 この事件が始まり、兄に助けを求めようと一番初めにこの部屋を訪れた時だ。

 事件に巻き込まれた弟に興味を示さず、冷たい態度で対応するハルに、リク自身が言った言葉。


「俺は、変わってねぇよ。

 変わったのは、お前だ」


 ほんの僅か一瞬、まるで自嘲するような笑みがハルの唇に見えた気がした。

 だがそれを奥にしまうと、彼はリクから目をそらし、水滴で濡れたコンクリートに目を落として続ける。


「お前は先に進んでいったが、俺は未だに、四年前と同じ場所にいる。

 あの場所から一歩も前に進めず、同じ場所をぐるぐると回り続けている」


 言われてリクが、改めてハルを見る。

 その言葉を体現するかのように、彼の体は四年前からほとんど変わっていなかった。

 まるで成長を置き忘れて時だけ過ぎてしまったかのようだった。


 あぁ、とリクが息を漏らしそうになる。

 いつだって見上げてきた兄は、こんなにも小さかったのか、と。

 幼い頃の自分は、こんな小さな体に縋って生きてきたのか、と。

 そして、そんな彼を残して、リクは一人でここまで来てしまった。


 後悔を顔中に浮かべたリクに気づき、ハルがペチンと軽くリクの頬を叩く。


「あのな、言ったろ?

 お前がそれに対して引け目を感じる必要はないんだよ。

 俺は自分が成長してないことは自覚してるけどな、それに甘んじるつもりは毛頭ねぇんだから」

「どういう、こと?」


 リクが涙目で聞くと、ハルは頬から手を離して冷たい扉に背を預ける。


「俺はあの日に戻りたい。

 戻って、あの日の自分を超えたい。

 そうして初めて俺は、前に進める。

 だから俺は、お前にあの日のことを思い出してほしくないんだ。

 分かるか?」


「分かんない」


 リクが素直にそう言うとハルが少しだけ苦笑して、袖に隠れた白い指を弟の目元に持っていき、その涙を拭ってやる。


「今の俺は、暗い海にぶち込まれたようなもんだ。

 前に進もうにも、どこが前か分かんねぇんだよ。

 だから、昔の人間が北極星を目指したのと同じように、俺にも目印が必要なんだ。

 ……分かるだろう?」


 まさかとは思いながらも口に出そうとして、一度考えなおし、恐る恐る自信なさそうにリクが口を開く。


「……俺?」


 北極星とはおこがましいと思いながらもそう問うと、ハルが目元にやっていた指で今度はリクの鼻をつまんで自身の方に引っ張る。


「うぅ?」


 眼前の兄の顔は、やはり凍ったように表情に乏しかったが、その眼の奥には昔のような優しさが漂っていた。


「事件のことを覚えてようがなかろうが、あの時を乗り越えて進むお前の場所こそ、俺が目指す場所だ。

 なのに今更過去のことで、お前が俺の場所まで落ちて来てみろ。

 俺は一体どこを目指せばいい?


 だからお前は『そこ』にいていいんだ。

 お前のためじゃない。

 俺のために、そこにいて欲しいんだ」


 ハルは言葉を区切りながら、ゆっくりと説得するように言うと、額で額をコツンと叩き、両手で軽くリクの肩を押してその体を離す。


「全部知ったって、俺は自分を見失ったりしないよ」

「それでも確実に何かが変わる。

 今のお前の生活には要らない何かが起こる」

「でも」


 食い下がり身を乗り出すリクの胸元を、ハルが人差し指の先で留める。


「知らないほうがいい、なんてことは、知ってる人間の驕りだと思うよな?

 お前が納得できない気持ちも理解できる。

 だけどな、傷ついて乗り越えればいいってもんじゃない。

 人には限界があるし、傷や罪や後悔ってのは見えなくなったとしても、そこから消えるわけじゃない。

 必ずそこに、跡を残す」


 指一本の力だが、リクはそれ以上前には進めなかった。

 言葉に熱は無いが、心を縛り付ける魔力のようなものが、リクの身体をそこに留めた。

 ハルは続ける。


「事実を告げるのは人として正しいかもしれないが、その正しさに耐え切るだけの強さがなければ、ただ落ちていくだけだ。

 なにより俺は、お前が傷つくのを見たくない」

「……兄貴」


 その言葉が真実だということは、直感に近い感覚でリクには分かった。


「お前が望むなら、いつか全てを話す。

 だから今は待っててほしい。

 俺がお前の場所まで行けるまで」


 静かで、強い言葉だった。

 リクを見上げる目にも、心臓を掴むような意志があった。

 納得したかどうかは、リク自身よく分かっていない。


「……分かった」


 だが正面から向けられたその意志に、リクは頷くしかなかった。

 それを見てハルも頷き返し、手の平でリクの胸をもう一度軽く叩く。


 これでいいのかは分からない。

 だが「思い出せない」ことを「思い出した」ことで、四年前に止まった兄弟の時が進みだしたことを、リクは確信した。



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