6-12
「よし、この話は終わりだ。
今は目の前の事件に目を向けよう。
……それで?」
「え?」
ハルがリクの脇をくぐり抜けるようにして身をかがめてブーツを脱ぐと、濡れた体のまま冷えた部屋の中に上がる。
その切り替えの早さに、リクは目を瞬かせながら急いでその後を追う。
部屋に足を踏み入れたと同時に点けられた電気の眩しさに、リクが思わず手で目を覆うと、その上に柔らかいタオルが投げかけられる。
ただの真っ白なバスタオルが冷えたリクの体には温かく感じ、濡れた顔を何度かこするようにして拭う。
タオルの隙間からハルを伺うと、彼もタオルを頭から被ってベッドに座っていた。
泥と雨まみれになっていたパーカーは、いつの間にかバスルーム脇の洗濯カゴに投げ入れられている。
そしていつも耳に嵌めているイヤホンを外して点検し、壊れていることを確認すると、舌打ちしながら指でコードを掴んで遠心力を使って円を描くように回す。
どうやら故障したらしい。
そういえば、先程マガミと命のやり取りしている最中でさえも、ハルはイヤホンをしたままだったなと、リクは今更思い出す。
その時の衝撃か何かで壊れたのだろう。
四年前までの兄も音楽は好きだったが、そこまで四六時中固執するほどでもなかったのに。
そんなことを思い出しながら兄を見てると、ハルの猫のような大きくて目尻が切れた目が視線だけリクに向く。
「それで、どうしたんだ?」
「どうって?」
ハルはもう一度弟に問いかけるが、リクの頭がついていっていなかった。
ぽかんとしてその場に立っていると、ハルがいつものように少し首を傾げる。
「なぜあの場所にいた?
俺に何か用だったんじゃないのか?」
ハルとマガミのいた場所に現れた理由を問うているようだ。
今更ながら、自分が何のために兄を探していたのかを思い出す。
「あぁ、兄貴が第九問の答えを教えてくれただろ、アキ先輩越しに。
それをディーラーに送信したんだ。
で、その結果を伝えたくて」
言いながらリクが上着のポケットから携帯端末を取り出す。
ハルは興味なさそうに、雨で濡れた髪の毛をタオルで拭いている。
「正解だったろ?」
「正解だったけど、よく分かったな、兄貴」
「今日はゴリラ運が良かったんだ。
それで、タイムラグは?」
「ご、ゴリラ運……?
えっと、タイムラグはなし。
すぐに問題が送られてきたよ」
第九問目をどうやって解いたのかリクは気になったが、とりあえず話を進める。
片手で頭を拭きながら、もう片方の手で端末を操作し、送られてきた問題文を表示させる。
それを読み上げようとするが、ハルは意外なことを言い出す。
「どんな問題は分からないが、答えは分かっている」
「へ?」
濡れたシャツのまま、ハルは上半身をベッドに横たえる。
「暗号かコードサーチかは知らねぇが、答えは場所だろ」
その言葉に、リクが問題文に再度目を走らせてハルを見る。
「うん、そうだと思う。
……といってもちょっと変なんだよ」
「変って?」
ハルがタオルの隙間から片目だけを出して問う。
「暗号でもないし、写真でもないからコードサーチでもないし。
ただ一文だけ、問題として送られてきたんだ」
「ん」
寝転がったまま、ハルが片手を上げる。
端末を渡せと言う意味らしい。
リクは兄に大股で近寄って、青ざめた白い指の間に自分の端末を落とす。
その横に腰を落としてハルの反応を待つこと数秒。
「……ふぅん」
ハルは少しだけ感心したような声を出し、リクに端末を返した。
「どう?」
「良い文章だ。
適切で、本人しかわからない。
ゲームは終わり、ということだ」
「えっと、どういう意味?」
答えが返ってくるかと思ったが、予想外の言葉に、リクは寝転んだままのハルに目を落とす。
「言葉通りだ。
明日には決着が着く」
「ほ、本当に?」
上を向いたまま答えるハルの視線の先に被さるようにしてリクが問うが、兄はその先を見るような遠い目で天井を見続けていた。
「本当。
ゲームも終わり。
切り裂き事件も終わり。
お前たちは明日から通常通りに生活できる」
彼は顔を動かさずに、目だけをリクに向けてそう言う。
「最後まで俺も付き合うよ」
再び突き放されたような気がしてリクが言うが、ハルは少し眉をひそめただけだった。
「もう手伝うこともない。
ミズキを守り、いつも通りの生活に戻るのがお前の目的だろう?」
「それはそうだけど。
ここでやめるのは中途半端だし、どうやって決着が付いたのか俺だって知りたいよ」
そう訴えると、少し面倒臭そうに再びハルが手を上げる。
同じようにしてもう一度端末を渡すと、ハルは何か端末を操作してリクの手に返す。
画面にはメモ帳機能が開かれており、そこにはアルファベットと記号が羅列していた。
どうやら何かのサイトに繋がるURLのようだ。
「これは……?」
「どうやって決着が付いたか知りたいって言っただろ?
ほらもう帰れ。
日はとっくに暮れたぞ」
立たせるようにリクの背中をハルが叩く。
条件反射的にリクが立ち上がる。
「け、けど兄貴」
「一つだけ」
「え?」
先ほどと同じように天井を見つめたまま、ハルはほとんど口を動かさずにフラットな声を出す。
低いトーンで、少しだけ言いにくそうだった。
おそらくだが、本当は言いたくないのかもしれないとリクは推測する。
先程のハルの言葉どおり、リクが「事実に耐え切れない」と判断していたら、恐らく口には出さなかっただろう。
「俺が暴くのは切り裂き魔。
『Ripper』と『BlueButterfly』だ。
その他はどうでもいい」
その言葉の意味が分からず、ぎゅっとリクが目を寄せる。
「どういうこと?」
「お前、自分たちが誰に傷つけられたか忘れたのか?」
見下ろした兄の呆れ顔を見て、リクはやっと思い出す。
考えてみればハルたちとの捜査は、ほとんど『Ripper』と『BlueButterfly』に焦点が当てられていたが、そもそもリクが頼んだのは別の切り裂き魔の事件だった。
ハルたちが名づけたのは『第二の切り裂き魔』。
リクに脅迫状と写真を仕込んで、ミズキを巻き込んで怪我をさせた人物だ。
この切り裂き魔に対して、捜査の間ハルはほとんど言及しなかった。
「『第二の切り裂き魔』?
そいつのことも兄貴は分かったのか?」
「はじめから見当は付いていた。
具体的な人物が分かったのは最近だが」
「え! そうなのか?
じゃあなぜ今まで放っておいたんだ」
驚愕の事実だった。
リクにとって一番根本的な事件は、すでに解決済みだったということだろうか。
目を見開いてリクが聞くが、ハルは何の感情もなく続けた。
「放っておいて害はないし、『Ripper』と『BlueButterfly』の事を解決するためにも必要だったから」
「でも俺達が狙われてたんだぞ。
ミズキも実際に怪我をさせられた」
「それにもちゃんと意味がある。
俺が放っておいたことにも、意味がある」
相変わらずハルの言うことが理解できず、リクが「うー……」と唸りながら困惑した顔を見せる。
そんな弟の顔を見ても、ハルは考えを変えたりはいない。
「俺は探偵じゃないし、欲しいのは真実じゃない。
事件は終わる。
だがもし全ての真実が知りたいのなら、それは自分で考えろ。
俺はどうでもいい」
ハルの中では、すでに全ての謎が一つのストーリーとなって繋がっている。
だがあくまで目的は『Ripper』と『BlueButterfly』であり、その他のことについては一切言及する気はないらしい。
その理由はリクには分からなかった。
ハルがこの街の凶行事件を調査するのに目的があるのならば、単純にその目的とやらにそぐわないからなのだろう。
「探偵ではない」というハルの言葉が示すように、彼の目的は真実の追求ではないということだ。
「俺達が調査した資料は全て目を通しただろ?
だったら、お前も俺と同じものが見えているはずだ」
「『Ripper』や『BlueButterfly』どころか、第十問目の答えすら分かっていない俺に、全ての真実なんて分かるわけないだろ」
ネイビスの暗号については第十問目どころか第九問目の答えを知っても、なぜそうなるのか分かっていなかった。
とりあえずごねてみるが、兄の答えは変わらない。
「それならそれでいいんじゃねぇの?」
「……今ここで、兄貴が教えてくれるってのは?」
リクが目尻を下げて見てみるが、兄は蝿を追い払うように手を振るだけだった。
どうやらそのその気はないらしい。
「知りたいなら考えろ。
そうじゃないならそれでいい。
さっきも言ったが、真実を知ることだけが全てじゃない。
俺は俺の決着をつける。
お前は自分で決着をつけるんだ」
そう言いながら、ハルが入り口の扉を指で示す。
「帰れ。叔母さんが心配する」
そう言ってハルは顔に手の平を落としてそのまま黙った。
もう本格的に喋る気はないらしい。
真実追求の判断は、すべてリクに任されたということだ。
「……分かったよ。
じゃあまたな、兄貴」
「あぁ」
渋々という形で、リクは兄に背を向けて玄関へと濡れた足を運ぶ。
冷たい革靴をひっかけた後、一度部屋の中に目を戻すが、ハルは相変わらず倒れ込んだまま身動き一つしていない。
もう少し温かい見送りがあってもいいのにと思いながら、リクは冷たい扉を開ける。
外気に身を晒すと、先程までは苦しい程冷たかった風が、今は心地よく肺を満たす。
そのままリクは、兄が言った言葉を思い返す。
真実を知ることだけが全てではない、とハルは言った。
それはその通りなのだろう。
だが、それはリクがまだ弱いからだ。
強ければ、真実がどれほど残酷だろうと受け止められる。
ならば強さとはなんだろうか。
どうすれば強くあれるのだろうか。
部屋と一枚隔てられた壁に身を預けて、全てを吐き出すように息を吐く。
吸い込む息はもうすぐ夏だというのに、連日の雨で湿って冷たく感じた。
リクは手に持ったままの端末に目を落とし、コードハント:ネイビス最後の問題、第十問目を表示する。
ハルが『良い言葉だ』と評した、最後の問題であり終着点。
冷たい息を吐きながら、ネイビスのディーラーから送られた最後の一文を、リクが指でなぞった。
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ネイビス:第十問
『忘れ物は忘れた場所に』
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ハルは自分の端末を取り出し、ディスプレイに第十問目を表示する。
先程リクの端末から送ったものだ。
どこか感慨深いその文章を、人差し指でなぞる。
そして、未だ扉の外にいる弟の気配を感じ、視線をそちらにやる。
「『思い出せないことを思い出した』……か」
肝心なことは思い出せなくても、一つの鍵が外れてしまったことは確かだった。
だからずっと疎遠にしていたのにと、ハルは舌打ちをしたくなる。
疎遠にしようがしまいが弟を傷つけるのならば、自分が今やっていることは何なのかと。
そう、リクが言っていた通り、彼の記憶を封じたのはハル自身だ。
ハルは静かに目を閉じる。
四年前のあの日。
救急車の音を聞きつけて『ジャック』が去った後、ハルは雨の中で自分の死を悟った。
彼は恐れた。
死への恐怖ではない。
一人残される弟の未来を、だ。
物置に隠れていろと言ったのに、帰ってこない兄を追って出てきてしまった弟。
目の前で両親と兄が殺され、自分も死の淵に立たされた恐怖を背負って、まだ弱く小さな弟が生きていけるのだろうかと。
自分の『この状態』とそれに至る過程を見てしまった弟が、その記憶を抱えきれるだろうかと。
自分が手を離してしまった後で、その重圧に耐えきれるだろうかと。
だから、ハルは最後の力で傍らの弟を抱き寄せて、何度も何度も呟いた。
『お前は物置にいた』
『何も見ていない』
『何も覚えていない』と。
現実とかけ離れた出来事で自失している弟の精神に、ハルは直接呼びかけた。
そして最後に『約束だ』と言って、鍵をかけた。
それ以外に弟を守る方法を、あの時のハルは知らなかった。
目を少し開いて、ハルが自分のシャツの下に指を滑らす。
気味が悪いほどにつるりとした、皮膚とは違う感触の筋が何本も指に当たる。
視線を避けるようにして着こまれた布の下が、目を逸らしたくなるほど醜いことをリクは知らない。
知らなくていい。
自分が死んだのなら、まだ良かった。
だが自分は死ねなかったのだから、知らないほうがいい。
そうハルは思う。
ハルが封じた記憶は、リクが思っている以上に醜く残酷なものだから。
新しい世界で笑う弟を見るたびに、自分の選択が正しかったことをハルは確信してきた。
同時に、彼との世界が隔絶してしまったことにも。
「忘れ物、か」
感傷に浸ったその言葉が、否応なくハルの記憶を過去に遡らせる。
優秀過ぎる彼の脳には、あの日の全てが克明に刻まれている。
自分の中に染みていく雨の冷たさを、彼は未だに一粒残らず覚えている。
だがそれを、弟に一粒たりとも思い出させるわけにはいかなかった。
「お前は、それでいいんだ」
冷たい扉の向こうにいる弟に、ハルの小さなつぶやきが届くことはなかった。




